2009年03月13日
♪:同居記録:117
☆2008.11.25.密かに心痛める少年達へ。
私は20歳の頃に悩み苦しみの最初のピークを迎えた時期があります。正確に言えば、あの9歳の時の大手術を引き摺ったままの私の人生を私は幼い頃からずっと悔やみ続けていました。無理もありません。大人になった現在の私が考えても可哀想なほどでした。「よく頑張って生きてきたな」、と誉めてやりたいくらいです。
最初の手術で小腸のほぼ半分を失い、大腸の約30%の機能が停止したのです。その残った腸でさえも多くは現在でも癒着したまま。その為に私の小腸と大腸の間には長い期間幾つかのバイパス術が施されていました。
一つの道が閉じても別な道を食物が通るようにです。しかし、27歳の時に命を賭けるつもりでそのバイパスを外す手術を受けました。バイパスがある事で逆に出口(肛門)の方へ食物が進まずにグルグルとお腹の中を巡るからでした。ただ、バイパスを外したら外したでやはり不具合はありました。
バイパスがなくなった為に小腸の一部では食物の通過障害が生じ、ガスが異常発生し逆流を始めてガス溜まりが小腸の一部にできてしまい、大きく膨らんで横隔膜を押し上げて常に肺と心臓を圧迫した状態が続くようになったのです。
お腹の中に風船が入った状態だから様々な影響が出ました。私の脾臓は押し潰されて破裂し、肝臓の一部も横行結腸と癒着状態になります。それに胃の一部にも横行結腸、十二指腸との癒着があるようです。
これらの癒着による炎症の為に白血球は常に14000から17000近くの数字が出ます。信じられますか?。多分、経験の浅いお医者様には理解できない、想像を絶する身体を持っているのが現在の私です。
万が一の際の参考になるようにと普段の状態の時のCTやMRI写真も頂いております。こうした理由で私の身体からは蠕動運動という消化器官にはなくてはならない大切な機能が幼い頃から現在に至るまで普通ではないのです。
お医者さんから説明を受けた事ですが、手遅れの手術や事故などで長期間放置され腐り始めた内臓や消化管が使えるか使えないかは手術中に生理食塩水に漬けてみて赤みの反応があれば再び使える可能性が高いと判断できるそうです。
私の腸や内臓はそうやって手術中にテストしながら使えそうなものだけを繋ぎ合わせてあるんです。今日は何だか怖い話をしていますね。
そんな訳で私の場合、蠕動運動に一貫性がないんです。部分的にあったり、なかったり・・。だから、周囲の人よりも遅れてお腹が減ります。減ったら食べることは食べるんです。食べるんですがゴボウや竹の子、硬い肉などは絶対に食えませんでした。柔らかくてもブドウやニンジンなどはそのままで出るんです。大好きなスルメなんてとんでもない・・ホホ。
それを克服するには私はあらゆる運動をしてきました。それをやらないと食べたものがお腹の中で腐敗を始めるんです。だから、必要に駆られて運動をやっているうちに人並み以上の能力がついたのだと思います。両親を始め、兄弟もそんな私の悩みには気づかず、運動をしていた姿さえ知らないと思っています。
そんな時期が随分と続きました。そんな身体であって高校1年の入学前には柔道初段を取りました。私が現役の頃には体重別などはない頃です。今と違って、この当時は初段なんて高校2年で取れて、「よくやった!」、と言われる頃です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★近い存在だからこそ心が通じない事もある。
家族であっても、心の中の何かが足りないと親であって親ではなく、兄弟であっても兄弟とは思えない。子であっても子とは思わない、という関係に容易になり得る事を私は幼くして感じていたのです。
私の両親は、「この子は退院したからもう完治したんだ」、と思ったのだと思います。世の多くの親がそんなものかも知れません。
私が飯台のそばで横になっても、私の父は、「お前は普段から大食いするからだ」、と罵りました。幼な心に辛さを感じました。今、思えば哀れな父親だったと思います。
現在でも私の身体をCTスキャンやMRIでの写真を見られたお医者様の多くは、「奇跡だ」、と騒がれます。この私の身体にメス入れたお医者様はこの世に2人いらっしゃって、既に70歳、80歳を越えられますが、決して奇跡とは申されません。強運プラス何かを持った子だと機会ある毎に言われていたのを微かに覚えています。
奇跡ではないんです。お医者様との出会いのよさがあり、私の強運あったのかも、或いは神が私の事が大好きで、「この子ともう暫く付き合いたい」、と思ったのかも知れません。‚もし・・、仮に奇跡だと認めるとしたら、私は神と肩を並べる資格があるかも知れません。そして、私の今の並外れた体力、気力は嫁と私の努力で作り上げたのだと思っています。
そして、大切な事は-は母と同居をするようになって父親の事も理解できるようになったのです。私-自身が母と同居する事で成長しているような気がしています。父だって完全な父親であったはずがありません。普通の男だっただけかも知れません。病気に縁が薄い健康な人は病気の事を語るのが苦手。異常な恐怖感さえ持っている人がいます。例えば血を見るだけで真っ青になるとか・・。こんな人は病気に対する知識も薄い故に理解する姿勢も余りありません。
★身体は両親からの貰いモノ。命は生きてこそのモノ。魂は宇宙からの貰いモノ。
晩年の父は、「尚宏、尚宏っ」、と日記の紙面狭しと書き綴っては夜中に私の名を叫んでいたと聞きます。私自身もそうした父の姿を3度ほど目撃した事がありますが哀れでした。
「何を今頃」、って思いました。
人は自らの死期が近づいた頃から己の人生やモノの考え方を振り返る時期が必ずあるからです。
この介護記録を書き始めた頃にも書きましたが、私は一度は手術台の上で臨終宣告を受けた人間なんです。そして、2つ目の命で生きているというような意味の事を書きました。
自分が担当する手術で臨終の判断を誤る医師がどのくらいの確立であるのかは知りませんが、
あの時に私が受けた臨終宣告は間違ってはいなかったのです。この意味を理解できますか?。
この話の続きは、今後のブログで少しずつお話をしてみようと思います。私の作品に何故、神や神社が出てくるのか・・・。その辺の事も語ってみたいと思います。
♪:ダスティンホフマンになれなかったよ(大塚博堂氏の作品のコピーです:大分出身)
雲上の人、命日も近い2009年3月、遠く及びませんが大塚博堂氏に捧げます。
http://non-tyan.at.webry.info/200903/article_1.html
私は20歳の頃に悩み苦しみの最初のピークを迎えた時期があります。正確に言えば、あの9歳の時の大手術を引き摺ったままの私の人生を私は幼い頃からずっと悔やみ続けていました。無理もありません。大人になった現在の私が考えても可哀想なほどでした。「よく頑張って生きてきたな」、と誉めてやりたいくらいです。
最初の手術で小腸のほぼ半分を失い、大腸の約30%の機能が停止したのです。その残った腸でさえも多くは現在でも癒着したまま。その為に私の小腸と大腸の間には長い期間幾つかのバイパス術が施されていました。
一つの道が閉じても別な道を食物が通るようにです。しかし、27歳の時に命を賭けるつもりでそのバイパスを外す手術を受けました。バイパスがある事で逆に出口(肛門)の方へ食物が進まずにグルグルとお腹の中を巡るからでした。ただ、バイパスを外したら外したでやはり不具合はありました。
バイパスがなくなった為に小腸の一部では食物の通過障害が生じ、ガスが異常発生し逆流を始めてガス溜まりが小腸の一部にできてしまい、大きく膨らんで横隔膜を押し上げて常に肺と心臓を圧迫した状態が続くようになったのです。
お腹の中に風船が入った状態だから様々な影響が出ました。私の脾臓は押し潰されて破裂し、肝臓の一部も横行結腸と癒着状態になります。それに胃の一部にも横行結腸、十二指腸との癒着があるようです。
これらの癒着による炎症の為に白血球は常に14000から17000近くの数字が出ます。信じられますか?。多分、経験の浅いお医者様には理解できない、想像を絶する身体を持っているのが現在の私です。
万が一の際の参考になるようにと普段の状態の時のCTやMRI写真も頂いております。こうした理由で私の身体からは蠕動運動という消化器官にはなくてはならない大切な機能が幼い頃から現在に至るまで普通ではないのです。
お医者さんから説明を受けた事ですが、手遅れの手術や事故などで長期間放置され腐り始めた内臓や消化管が使えるか使えないかは手術中に生理食塩水に漬けてみて赤みの反応があれば再び使える可能性が高いと判断できるそうです。
私の腸や内臓はそうやって手術中にテストしながら使えそうなものだけを繋ぎ合わせてあるんです。今日は何だか怖い話をしていますね。
そんな訳で私の場合、蠕動運動に一貫性がないんです。部分的にあったり、なかったり・・。だから、周囲の人よりも遅れてお腹が減ります。減ったら食べることは食べるんです。食べるんですがゴボウや竹の子、硬い肉などは絶対に食えませんでした。柔らかくてもブドウやニンジンなどはそのままで出るんです。大好きなスルメなんてとんでもない・・ホホ。
それを克服するには私はあらゆる運動をしてきました。それをやらないと食べたものがお腹の中で腐敗を始めるんです。だから、必要に駆られて運動をやっているうちに人並み以上の能力がついたのだと思います。両親を始め、兄弟もそんな私の悩みには気づかず、運動をしていた姿さえ知らないと思っています。
そんな時期が随分と続きました。そんな身体であって高校1年の入学前には柔道初段を取りました。私が現役の頃には体重別などはない頃です。今と違って、この当時は初段なんて高校2年で取れて、「よくやった!」、と言われる頃です。
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★近い存在だからこそ心が通じない事もある。
家族であっても、心の中の何かが足りないと親であって親ではなく、兄弟であっても兄弟とは思えない。子であっても子とは思わない、という関係に容易になり得る事を私は幼くして感じていたのです。
私の両親は、「この子は退院したからもう完治したんだ」、と思ったのだと思います。世の多くの親がそんなものかも知れません。
私が飯台のそばで横になっても、私の父は、「お前は普段から大食いするからだ」、と罵りました。幼な心に辛さを感じました。今、思えば哀れな父親だったと思います。
現在でも私の身体をCTスキャンやMRIでの写真を見られたお医者様の多くは、「奇跡だ」、と騒がれます。この私の身体にメス入れたお医者様はこの世に2人いらっしゃって、既に70歳、80歳を越えられますが、決して奇跡とは申されません。強運プラス何かを持った子だと機会ある毎に言われていたのを微かに覚えています。
奇跡ではないんです。お医者様との出会いのよさがあり、私の強運あったのかも、或いは神が私の事が大好きで、「この子ともう暫く付き合いたい」、と思ったのかも知れません。‚もし・・、仮に奇跡だと認めるとしたら、私は神と肩を並べる資格があるかも知れません。そして、私の今の並外れた体力、気力は嫁と私の努力で作り上げたのだと思っています。
そして、大切な事は-は母と同居をするようになって父親の事も理解できるようになったのです。私-自身が母と同居する事で成長しているような気がしています。父だって完全な父親であったはずがありません。普通の男だっただけかも知れません。病気に縁が薄い健康な人は病気の事を語るのが苦手。異常な恐怖感さえ持っている人がいます。例えば血を見るだけで真っ青になるとか・・。こんな人は病気に対する知識も薄い故に理解する姿勢も余りありません。
★身体は両親からの貰いモノ。命は生きてこそのモノ。魂は宇宙からの貰いモノ。
晩年の父は、「尚宏、尚宏っ」、と日記の紙面狭しと書き綴っては夜中に私の名を叫んでいたと聞きます。私自身もそうした父の姿を3度ほど目撃した事がありますが哀れでした。
「何を今頃」、って思いました。
人は自らの死期が近づいた頃から己の人生やモノの考え方を振り返る時期が必ずあるからです。
この介護記録を書き始めた頃にも書きましたが、私は一度は手術台の上で臨終宣告を受けた人間なんです。そして、2つ目の命で生きているというような意味の事を書きました。
自分が担当する手術で臨終の判断を誤る医師がどのくらいの確立であるのかは知りませんが、
あの時に私が受けた臨終宣告は間違ってはいなかったのです。この意味を理解できますか?。
この話の続きは、今後のブログで少しずつお話をしてみようと思います。私の作品に何故、神や神社が出てくるのか・・・。その辺の事も語ってみたいと思います。
♪:ダスティンホフマンになれなかったよ(大塚博堂氏の作品のコピーです:大分出身)
雲上の人、命日も近い2009年3月、遠く及びませんが大塚博堂氏に捧げます。
http://non-tyan.at.webry.info/200903/article_1.html
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