2009年02月25日

♪:同居記録:103

☆大分トリニータ。ビッグタイトルの獲得、おめでとうございます。

☆♪:ふる里へ帰ろう

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☆2008.11.01。父の事、母の事。母の父の事、少し書いてみます。

私の父、母の夫(高橋利三郎)没後、母は佐世保で約23年間の独居暮らしをしています。
父が没したのは母が64歳になって半年を過ぎた頃の8月。母とて既に老いの始まりを自覚していたはず。夫亡き後の閑散とした家やその周囲の様子を母はどのように感じながら日々を送っていたのでしょうか。母の独居生活は突然に始まったのでした。

64歳の半ばからの独居ですが、この間には母をいろんな不都合が襲いました。数十年と悩んでいた痔、それに高血圧による眼底出血とその止血手術による左目の失明、白内障手術・・、等々、父の死を切っ掛けにして噴出すように具体的な症状を呈す様になっていきます。

いずれも母が長い間持ち続け、辛抱していた心臓の不具合が原因となるものでした。64歳から23年間というと母が87歳ですから、身体が不自由であったとしてもこの頃の母は比較的に矍鑠とした日常の中に認知が入っていたのだと思います(まだらボケというんですか?)。

87歳からの3年間の母は長男と長女の世話になろうと努力はしたのでしょうが同居には至らずに実家に戻って独居に拘っていたようです。私が思うには、一見して気丈夫に見えるこの母の姿勢は実父である河内松若と嫁いだ夫の影響を無視して考える訳にはいかない気もします。少なくとも私の父は自分にも子供達にも厳しさを要求する人だったのです。


★没する2年ほど前の父。

非常に厳しい考えを持つ父でしたから、今思うと・・、周囲の私達家族も父に対して厳しい見方をしていたのだと思います。つまり、父には(今で言う)認知などは絶対にない・、父にはそんなものは無縁のはずだと。

炭坑を他人に明け渡した後に勤めていた銀行を退職した後の父は社会保険労務士事務所を開設したりして頑張っていました。凄く信頼の厚い仕事をしていたようですが、車を持たない父が一日に訪問できる事業所はほんの僅か・でした。

私は二度ほどこの頃の父の一日に付き合った事があります。軽自動車ではあったのですが私が乗って帰った車で父は事業所の訪問をしたかったのだと思います。勾配の続く新興住宅街に転々と散在する小さな会社を何軒も訪ねては経営者、そこで働く人達の暮らしぶりを知ろうとしていたのです。

あの父の姿、・・多分、デスクワークが多かったはずの父の一生の中、人生で最後の試練だったのではないかと思います。
「親父は・・、こんな坂道を・・」、と驚いたのですから。

しかし、当初は楽々とこなしていた計算ができなくなり始めたのです。私も覚えていますが、「尚宏・、この計算を頼む」、と父が言うのです。その父の姿はまるで天使・・でした。

汗をかくでもなく肌は白くなり、鋭かったはずの眼光も失せて穏やかに、大柄で逞しかった身体からはすっかり筋肉が落ち・・、そんな天使のような父になっているのでした。

「尚宏・・、ミカン食べんか、・・庭に・・、取って来んね」。私は父が苗から育てたミカンを取ってきては袋まで剥がして父に食べさせるのですが、父は食べる一方で、「尚宏・・、ミカンを取っておいで・・」、と言うんです。

「尚宏、熊本からどのくらい(時間が)掛かったか?」、と父。「うーん、2時間半かな」、と私。そして、暫くすると、「尚宏、熊本からどのくらい(時間が)掛かったか?」、と再び父が聞くんです。そして、熊本からだと通るはずもない西海橋を通って帰ったのかとも聞くのでした。

でも、私も家族の誰もが認知という言葉を知らない頃。多分、父の様子の変化は母は気づいていたと思いますが、この頃の風潮として日本中のどこの家庭でもボケという表現を避け、放置していた頃ではなかったかと思うのです。

この頃の私はまだ独り者の身ですが、私の父はこんな状態の日もあるかと思えば、この1年半後に私が嫁を貰う際には毅然とした父親振りを発揮したものでした。

宴席ではわざわざ下座まで行き、そこで正座をして挨拶をした父の姿を覚えています。また、私と嫁が最初に住むことになった借家を借りた時など、父は近隣の家へ挨拶回りをするなどしてくれたのを今でもはっきりと覚えています。
父が73歳、私が25歳の頃です。


★晩年の父と母のひととき

夫(利三郎)とは夫唱婦随の暮らしをしていた母ですから、夫を亡くした時点で母の魂の半分が抜け出たのでないでしょうか。
父は母の料理が大好きでした。多分、退職した後の父の生き甲斐の99%は母の作る3度のお料理であったはずと断言ができる程に父は母の作る手料理を子供のように喜んで食べる人でした。

小さな庭に作った畑をいじっている時にも、家のそばにあった防砂ダムの空き地でジャガイモや胡瓜を作っている時にも、「食事ですよ」、と母が鍋の蓋をガンガンと叩けば犬が尻尾を振って駆け寄るが如く、父は急ぎ足で母の元に駆け付けては、「美味しい、美味しい」、と箸を伸ばしていたようです。

炭鉱を経営した頃にあった殺気のようなものが父の表情から消え、手料理の上手な妻の存在こそが幸せの極みのように思う父の姿がありました。


★・・・、そして、父の死。。

そんな平和な頃のある日でした。真夜中に父が具合が悪いと言い始めたんです。その日も私は偶然に帰省していて、私の寝ているすぐそばでの父の急変でしたから驚きました。
その時は深夜でもあるし、父の脈をみた限りでは心臓が弱っているのが理解できた私は、「取り敢えず」、と母に告げた私は自分の為にと持ち歩いていた漢方の強心剤を飲ませたんです。

この漢方薬が効を奏して父のその場は収まったのですが、母によると。「父の変調はちょくちょくあるとよ」、と言う事でした。私の持ち歩いていた漢方薬とは今では輸出禁止になっている麝香を原料に使った強心剤だったのです。何故、この薬を私が所持していたかはここでは書きません。

父の体調の急変が、「ちょくちょくある」、という母の言葉で私は所持していた強心剤を全て母に預け熊本に戻ったのですが、父の急変はその後も続き、やがて父への今際の時が来る事になるのです。

「尚宏、あの強心剤はよく効くね。・・でも・・」、と母は私に2~3度電話してきました。その後も父はちょくちょく体調を壊しているようでしたが、父は具合が悪くなる度に、「そんな量では効かんだろうが」、と母を叱っては私が告げていた規定量の倍の量を飲むようになっている様子を母が電話で言っていたのを覚えています。

父の危篤という報を聞いたのはそんなある日だったんです。父は肝臓がんでした。享年75歳。母64歳、私が27歳の夏。父の最後に立ち合ったのは母と姉。

父が生死を彷徨っている頃、私は父の育った柳川の町を妻と二人、何故か彷徨っていたんです。熊本から佐世保へ父の急変で駆けつけるにに通る必要のない柳川の市内。私と妻の乗った車は何かに引き込まれるように柳川市内を彷徨ったのです。そして、気づけば私達は父の生家のそばの道を行ったり来たりしていたのでした。

そして、柳川市内の迷路を抜けだし佐世保への道を高速道路並みのスピードで走る車のファンベルトが高熱で溶けだして煙をはき、動かなくなった時・・、私は、「もういい、もういい。無茶をするな」、と言う父の声を聞いたような気がしたんです。妻も今でも覚えていると言いますが、「・・あっ、親父が死んだ・・」、私はそう口走ったのでした。
佐世保に着いたのはすっかり暮れて闇が垂れ込めた時刻。冷たい雨さえ降っていました。

普通に走って2時間半で着くはずの佐世保への道。この日は6時間も要したのです。思えば、常に親父と兄の遣り取りを母の背中越しに見ていた私・・、まるで、私と親父との関係を象徴するような長い一日でした。
こうして、私の青春が終わったのです。


★父の葬儀で、「サヨナラね」、と母が・。

あの父の火葬の儀の始まる寸前、家族の者が見るようにと開けられた柩の蓋越しに手を差し入れた母は、「サヨナラね」、と囁きながら夫の額を軽く撫でました。そして、グラッっと身体を揺らした母を常に母の後に位置するように心掛けていた私が支えたのを覚えています。

母は父(利三郎)と私達家族の為だけに人生を過ごしている人のようでした。父が亡くなって始めて気づいたのですが、私は母の生まれ育った地が佐々であり、歌が浦だという事すら知らなかったのです。

母の口からは歌が浦・という言葉は発せられてはいたんです。でも、父も誰も母にとっての故郷の重さなど感じる事はなかったようです。


★私が差し出した般若心経本を母が読みだした。

父の死後、母の日課は朝一番の花を摘み、父の仏壇に飾ること。そして、経を上げることでした。何年続いたのでしょうか。冬場などは膝や足首の関節が痛むというので温風ヒーターをプレゼントしたりしました。しかし、一番のプレゼントは短くて済む般若心経本だと思います。

普通のお経に較べて変拍子っぽい読み方になるのですが、母は続けましたね。でも、母の身体の痛みが酷くなり、お経を上げた後には買い物に行くのさえ辛い程の痛みが残るようになったのでしょうか、母はいつの間にか読経を卒業したのです。

持病の心臓の悪化、痔の手術、眼底出血、白内障・・、それらが次々と母を襲うようになり、やがて、母自身にもモヤモヤと認知の症状が迫り始めるのでした。


★母の父(河内松若)。故郷を棄てた?母・。

母がこの熊本に来て、やがて、私達夫婦と母と3人で訪ねた歌が浦ですが、母にとっては実に70数年振りの里帰りだったのです。母は父親(河内松若)が勧めた見合い話を振り切るように故郷を離れて博多のタイピスト養成校に入って以降、二度と故郷の歌が浦に帰る事はなかったのです。

母が育った時代の父親像が目に浮かぶようですが、母は故郷を離れ、父とは二度と会う事がなかったのです。私の推測に過ぎませんが。母は自分の幼い頃の両親を語る事があっても、女学校を卒業した後の父親を語りません。

父親を尊敬をしているのは理解できますが、母は今でも好んでは父親を語ろうとはしません。私が父に対して男性の生き方として尊敬をしても、父親として尊敬する事がなかったように、母と父親との関係も似たようなものではなかったかと思います。

父親が一方的に勧めた見合い話を振り切るように博多へ去った母が、その後は一度も実家へ戻らなかった経緯を思うとき、私はその時代の厳しさ、父親に逆らう事への覚悟のようなモノを伺い知るのです。

母は・・、尋常小学校5年の時。母が11歳の頃に母親(河内ライ)の死を目撃していますが、父親がいつ死んだのかを知りません。母はこの歌が浦を去る時点で父親との永遠の別離を決心したのだろうと思います。

そう言えば・・、2005年に母を伴って歌が浦を訪ねた際、車中の母は何となく首を縮めていたような・・。お袋にとっての父親の威厳が70数年を経ても存在していたのでしょうか。「お父ちゃま、帰ってまいりました」、と思っていたのか、どうか・・。


★母の姉、青崎みつ子 姉さんの事。

夫を亡くした母の寂しさを癒そうと平戸からみつ子姉さんが佐世保の家へ来ていました。母のすぐ上の4歳違いのお姉さんです。最初は1週間程度の滞在のようでしたが、やがて、一度の滞在で3ヶ月も母のそばにいてくれるようになり、やがては半年近くも佐世保の家で姉妹仲良く暮らしたようです。

互いに歌が浦に暮らした頃の思いに浸っていた時期かも知れません。母は父が強引に勧めるお見合い話を耳にするや、その父親に反発するかのように一方的に故郷を棄てように博多へ旅立っています。

姉妹でありながら故郷の歌が浦を離れる切っ掛けが違い、故郷を離れたまま二度と帰ることがなかった妹の為、みつ子お姉さんが最後のお姉さん振りを発揮しにきてくれていたのかも知れません。

母が78歳の頃でしょうか、佐世保に帰省した私が撮影したビデオにみつ子姉さんと談笑する母が映っていて、母は左目を盛んに気にしている様子が映っていますが、この数年後に母の白内障が分かって手術をしています。

やがて、このみつ子姉さんにも迫り来るモノがあったのでしょうか、滞在期間が徐々に短くなってい来ます。みつ子姉さんの足が遠のき始めると母は寂しがりました。毎日のようにではなく、毎日母は熊本の私の家に電話を掛けるようになっていくのです。

父が居ない事への寂しさではなく、みつ子姉さんの足が遠のいた事への寂しさを口にしていました。やがて、みつ子姉さんは母からの電話へも出る事ができなくなり、可愛い妹への強い思いを残したまま彼の地へ召されたのだと思っています。


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