2008年12月16日
♪:同居記録:79
☆改めて思う2005年暮れの母の転倒骨折。私が真剣に生き始めた切っ掛けだったかも。
私は母のこの入院・入所の6ヶ月、正確には194日の間、14:00~21:00の間を一日も欠かさずに母の元へ通いました。マザコンと言われようが、職場放棄と言われようが周囲の目なんて関係ないゾ、と・・。私は私の頑張りを母に伝えたかったのです。
「もう、今日はいいよ・・早く帰りなさい」、と母はよく言いました。
「何しとった!。ずっと寝ていたのか」、と決めつけて怒る日もよくありました。
「どれ、お前の部屋に行こうかい」、と言う日があり、母は少しずつ病院自体を自分の家だと思いこむようになっていくのでした。
毎日、それこそ毎日。私は病室に着くと母を車椅子に乗せて院内の庭を1時間近くも散歩しました。散歩が終ると温タオルで母の身体を拭き、温タオルで骨折部付近や後頭部のマッサージをしました。夕飯は病室で母と一緒に食べました。
私は1Fの売店や近所のスーパーで買ってきたカップヌードルや稲荷捲き寿司パック程度ですが、母は病院の決まり切った豆腐料理に飽きて、「私はそっちが食べたい」、と言っては交換して食べる日もありましたね。時に、刺身などを買って行くと私の分など無視してペロッと独りで食べてしまう日もありました。
「魚は鯛だよ鯛。今度は鯛を買っておいでよ」、と言う日もありましたね。 食事が済むと19:10には必ず長崎の長女・紘子への電話が日課になっていて、これを母はとても楽しみにしていました。
母はすっかり病院を我家だと思い込んでいる日が多くなっていました。 介助に疲れ果てた私が母のベッドの横で眠りこけている時、「どれ、買物に行くよ。そろそろ晩ご飯を作らにゃ・・」、と言う母の声が遠くから聞こえ、フッと目を覚ました私の目に飛び込んできたのはベッドから逆さまに落ちる寸前の母の姿だった事もありました。
この194日間というものは、私の目の前で母から母が消えていく時間でもありましたね。穏やかな観音様のようであったり、まるで狂人のような目つきをしていたり・・。この頃の母はある意味での人間崩壊の姿でもありました。私しか信じない。私の前でなら狂人にもなれると自覚していたのかも知れません。
♪:母よ・もし、神が私の命との交換を条件に明日の朝、母の目が覚めた瞬間から2本足でスイスイと歩けるようなら・・、それが神様の突きつけた条件ならば、・・俺はいつでも構わんゾ、という気持ちの194日間でした。俺の命の尽きる時こそが、それまでの誠意の証だ。俺の2度目の命が尽きた時こそが親父越え、兄貴越えをした時だ、と思っていたんです。それ程に気合いの入った私の194日の日々だったのか、辛過ぎた日々でした。全てを棄てていましたからね。
そして、徐々に・・、私は一滴も飲まなかった酒を飲むようになりましたね。泣き虫にもなりました。紙パック1800cc入りの焼酎を2日で飲むペースでがぶ飲みしましたよ。本当に、胃の薬をおつまみ代りに飲んでいました。
しかし、そんな私の日々を救ってくれたのは、やはり、母の遺伝子を受継いだ音楽でした。 疲れ果て悩む私を励ますような詩が次々と・・、悩めば悩むほどにそれを癒すような詩を書く私が登場して来るんです。
♪:頑張れ!お袋、♪:ひととき、♪:母のふるさと、♪:母よ・、♪:義母の旅立ち、♪:母に生命を返す時、♪:花ミズキ、♪:潮騒の町、♪:老いを嘆かないで、♪:DOLL、♪:水無月の頃、♪:ふる里へ帰ろう、と私は涙と酒にまみれながら詩を次々と書き殴るように書きました。この中には作品としての完成は母の退所後のものもありますが、詩としては母の入院・入所中に作ったものが多く含まれています。
♪:頑張れ!お袋
♪:水無月の頃
♪:ひととき♪:母のふるさとこの194日間、私は母と一緒に認知症というものと闘いました。その闘いの中で人間の老いというものを知りました。悟りに近いもの、そして、同時に本人の闘いよりも周囲の理解だという事を知りました。どのように受け止めてあげるかということです。
♪:母に生命を返す時
私は母のこの入院・入所の6ヶ月、正確には194日の間、14:00~21:00の間を一日も欠かさずに母の元へ通いました。マザコンと言われようが、職場放棄と言われようが周囲の目なんて関係ないゾ、と・・。私は私の頑張りを母に伝えたかったのです。
「もう、今日はいいよ・・早く帰りなさい」、と母はよく言いました。
「何しとった!。ずっと寝ていたのか」、と決めつけて怒る日もよくありました。
「どれ、お前の部屋に行こうかい」、と言う日があり、母は少しずつ病院自体を自分の家だと思いこむようになっていくのでした。
毎日、それこそ毎日。私は病室に着くと母を車椅子に乗せて院内の庭を1時間近くも散歩しました。散歩が終ると温タオルで母の身体を拭き、温タオルで骨折部付近や後頭部のマッサージをしました。夕飯は病室で母と一緒に食べました。
私は1Fの売店や近所のスーパーで買ってきたカップヌードルや稲荷捲き寿司パック程度ですが、母は病院の決まり切った豆腐料理に飽きて、「私はそっちが食べたい」、と言っては交換して食べる日もありましたね。時に、刺身などを買って行くと私の分など無視してペロッと独りで食べてしまう日もありました。
「魚は鯛だよ鯛。今度は鯛を買っておいでよ」、と言う日もありましたね。 食事が済むと19:10には必ず長崎の長女・紘子への電話が日課になっていて、これを母はとても楽しみにしていました。
母はすっかり病院を我家だと思い込んでいる日が多くなっていました。 介助に疲れ果てた私が母のベッドの横で眠りこけている時、「どれ、買物に行くよ。そろそろ晩ご飯を作らにゃ・・」、と言う母の声が遠くから聞こえ、フッと目を覚ました私の目に飛び込んできたのはベッドから逆さまに落ちる寸前の母の姿だった事もありました。
この194日間というものは、私の目の前で母から母が消えていく時間でもありましたね。穏やかな観音様のようであったり、まるで狂人のような目つきをしていたり・・。この頃の母はある意味での人間崩壊の姿でもありました。私しか信じない。私の前でなら狂人にもなれると自覚していたのかも知れません。
♪:母よ・もし、神が私の命との交換を条件に明日の朝、母の目が覚めた瞬間から2本足でスイスイと歩けるようなら・・、それが神様の突きつけた条件ならば、・・俺はいつでも構わんゾ、という気持ちの194日間でした。俺の命の尽きる時こそが、それまでの誠意の証だ。俺の2度目の命が尽きた時こそが親父越え、兄貴越えをした時だ、と思っていたんです。それ程に気合いの入った私の194日の日々だったのか、辛過ぎた日々でした。全てを棄てていましたからね。
そして、徐々に・・、私は一滴も飲まなかった酒を飲むようになりましたね。泣き虫にもなりました。紙パック1800cc入りの焼酎を2日で飲むペースでがぶ飲みしましたよ。本当に、胃の薬をおつまみ代りに飲んでいました。
しかし、そんな私の日々を救ってくれたのは、やはり、母の遺伝子を受継いだ音楽でした。 疲れ果て悩む私を励ますような詩が次々と・・、悩めば悩むほどにそれを癒すような詩を書く私が登場して来るんです。
♪:頑張れ!お袋、♪:ひととき、♪:母のふるさと、♪:母よ・、♪:義母の旅立ち、♪:母に生命を返す時、♪:花ミズキ、♪:潮騒の町、♪:老いを嘆かないで、♪:DOLL、♪:水無月の頃、♪:ふる里へ帰ろう、と私は涙と酒にまみれながら詩を次々と書き殴るように書きました。この中には作品としての完成は母の退所後のものもありますが、詩としては母の入院・入所中に作ったものが多く含まれています。
♪:頑張れ!お袋
♪:水無月の頃
♪:ひととき♪:母のふるさとこの194日間、私は母と一緒に認知症というものと闘いました。その闘いの中で人間の老いというものを知りました。悟りに近いもの、そして、同時に本人の闘いよりも周囲の理解だという事を知りました。どのように受け止めてあげるかということです。
♪:母に生命を返す時
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