2008年12月14日
♪:同居記録:77
☆2008.10.2。私の3~7歳くらいの頃。母は情操教育の名人。
コルク栓に凧糸を巻いて作る硬球や青竹バットの話をしましたが、それ程に貧乏だった訳ではありません。当時の私達の家族は黒ダイヤと呼ばれた石炭を掘る炭坑の経営者ですから贅沢な暮らしをしていました。しかし、母親(つやサン)が金銭に厳しかったのです。
「作れるモノは自分達で作って遊びなさい。小遣いが欲しけりゃ子供なりに働きなさい」、という子育て方針でしたから小遣いが欲しくなった時の為に私は畑で茄子や胡瓜を常に作っていました。
柳川の農家の三男であるが故に苦学して外交官にまでなった父の前では母は贅沢という言葉が禁句だったのだろうと思います。
しかし、周囲の家からは羨ましがられる部分もありました。風呂釜や小鍋に使う七輪用の燃料は炭坑から運ばせた製鉄所用のコークスを使っていたからです。我家の回りにはこのコークス用の収納庫が取り囲んでいましたからね。
ご飯を炊く釜戸では柔らかく炊けるようにと木の燃料を使っていました。ですから、大きなコークスの塊を手の拳大に割ったり、丸太を割って薪(まき)にしたりは日常的に私と兄の仕事でした(姉はひたすらに勉強机でゴリゴリと鉛筆削り・・本当に勉強机に向かっている姿しか記憶にありません)。
父と母が使う爪楊枝作りだってしました。私と兄は近くの山に自然に枯れた竹を拾いに行き、肥後刀というナイフで兄が起用に細く割り、更に8cmくらいに切ったものを私がガラスの破片で削って爪楊枝に仕上げていくのです。
もう、大変な作業でした。300本くらい作って10円か15円ですから、今の価値で言えば170円くらいでしょうか。でも、当時にこの爪楊枝を買えばもっと安く売ってあったのだから、母は手間賃を含めて買上げてくれていたのだと思います。確か、当時の修学旅行で兄が渡された小遣いが150円。私が50円程度ですからね。
☆父の事を少し。& 母の吹くハーモニカにドキドキと胸騒ぎ。
明治35年、柳川の農家の三男で生まれた父は伝習館高校を卒業後、苦学して明治大学に進み、同時期に特別聴講生として東京外国語大学でも学んでいます。
福岡出身の議員などを頼りに学資の援助をお願いして回った話なども聞きました。しかし、父は飛んでもない試験に合格してしまったのです。東京大学や早稲田大学などからの受験生に混じって受けた外交官試験に合格して英国へ渡る切符を手にしたのでした。それは、我が国が社会保険制度導入の為の設けた試験だったのです。
この父は帰国後は宮崎県庁に勤めるのですが、母と結婚後、暫くして母方の経営する炭鉱業に転身するのですが、この父の教育熱心さには子供なりに苦労しました。何せかなりの高齢になってさえ英字を喋り、手紙を書いたり、独語の本さえも辞書片手に読む人でした。
この父の遺伝子を受継いだのが長女の紘子ではないかと思います。紘子、と言えば「夜中遅くまで毎日毎日勉強。そして鉛筆を削る音のゴリゴリ」、という記憶で一杯です。
父はよく子供達を集めて読み書きテストという奴をしていました。新聞の記事から適当な漢字を拾っては私達兄弟に書かせるのです。家族でトランプや花札をした時期もあります。圧巻だったのは母の吹くハーモニカでした。兎に角、上手かったですね。バリトンハーモニカという大きな楽器でした。軍歌に童謡に流行歌・・、母は何でも吹いていました。
まだまだ、私も兄も野球に目覚めるずっと以前の話です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆2008.10.3。①:今日の母。「私は走れんし、運動会には出らんよ」。
10月26日にK施設の秋の運動会があるようです。苑内にはポスターが貼ってあって家族の者への広報をしてあります。母がこのポスターをどこまで理解したかは分りませんが、「誰かが運動会の話をしていたような気がする」、と言います。
「運動会と言っても走り回るんじゃなくて、柔らかいゴムボールを向かい側の人の方に手で弾いたり、隣の人に手渡しする程度さ」、と説明しましたが・・、多分、私の言葉が長すぎて理解してはいないようでした。
先日、デイに行く車中で、「母ちゃん、思った事を口に出せんのは辛かろうね?」、と思い切って訊ねてみました。返事は、「うん、凍ったもんは口にせん方がいいよ。段々、寒くなるし・・」、とこれまた母らしい返事が返ってきました・・ほほ。
そして、今朝はいつものように信号停車の際に面白い会話になりました。
「尚宏、あそこに飛ぶのは何だろうね」。
「俺には何にも見えんよ」。
「あらっ、可哀想に。お前にはあれも見えんとね。・・ありゃ、二つに割れたよ」。
「ほほっ、飛んどる奴が二つに割れたかい。こりゃまた器用にね。UFOじゃないの?」。
「私は正直に言うほうさ。二つに割れたから割れたと言うとるだけ・よ。・・ありゃ、一つに戻った」。
「あんたの目が増えたり減ったりしてるんじゃないの」。
「・・お前も変な事ばかり言う子だねえ」。
こんな会話の後、施設でお茶を飲みながら話の続きをしようと、「さっきの飛んでいた奴の話だけど・・」、と言えば、「あは?、何の話ね」、と全く似た者親子だなと自分でも思いました。
物忘れが激しいのか、気持ちの切り替えが早いのかは分りません。でも、実はこんな時の母は覚えていて、答えが出なかった事に対して少し怒っている事もあるんです。同居が6年になっても母が分らない事は沢山あります。
食事しかり、趣味嗜好しかり。老いの進みに合わせるかのように変化していくものは多いものです。今朝はそんな朝でした。
私の母はある意味でドン欲ですね。結構、いろんな事に興味を示してくれます。生活欲とでも言うんですか。
例えば、私がギターを弾いていると、「ちょっとお貸し。そのくらいなら私にも弾けると思うよ」、と興味を示してギターを持っては愛おしそうな表情でギターを撫でたりします。
「おおっ、この鉄の弦を弾くというのは指が痛いだろうね」。
「うん、その痛みに慣れるのが最初の試練さ」。
「ああ、そうだろうね。こりゃ堪らん」。
「「俺がプロでやっていた頃には左右の指を砥石で研いで指の皮を厚く厚くしていたよ」。
「何で右の指まで研ぐのね?。痛いのは左の方だけだろう」。
「ウッドベースってあるよね。コントラバスの事だけど、あれを弾こうとすると左右の指の皮が厚く、それにとても握力が必要になるから辛かったよ」。
「へーっ、お前はハモニカもピアノも弾くし、プープー(トランペット)も昔は持っていたよね。あれはどうした?」。
「あー、あれは借り物さ」、と私が高校生の頃にまで飛躍する日だってあります。
それに、母の難聴や失語に関して最近になってフッと感じた事があります。
母から持ち掛けた話題に関しては難聴や失語症の出が少ないのです。例えば、音楽や楽器の話題だと結構な会話が成立するんです。
普通のお年寄りには理解不可能だと思われる「調律」、「調弦」、「音程」、「1弦」、「2弦」、「フレット」、等々。勿論、楽器を抱いて指差しやアクションを交えながらではあるのですが、話の筋がしっかりと理解できているんです。
何故なら、私の話の途中で入る母の質問が全く正確に話の流れに沿っているからです。
多分、こんな時の母の脳裏には自分が弾いていた三味線やハーモニカ。それに平戸高等女学校時代の音楽の先生が弾かれていたというマンドリンの映像や演奏が浮かんでいるのだと思います。
そして、最後に、「はあーっ、音楽っていいね。愉しいよね。お前はいろんな楽器をやってて良かったね」。という満足そうな言葉が母の口から出るんです。
認知や失語の回復には、その人の携わっていた職業や趣味。そんなものに対する知識や技術の事を話題にして対処するようにすると意外なほどに効果があるのではないかと思います。
かと思うと、「母ちゃん、お風呂に入るよ」、と言えば、「あはっ、私があんたとね。ほほっ、それは出来ません。女がパンツを脱いだ男と一緒に風呂には入れないでございます」。
「何を考えとんね。背中にお湯をかけて洗ってやるのさ。いつもの事じゃないね」。
「そんな事はございません。私は貴方様から背中を流して貰った事など一度もありません」。
こんな調子ですから、認知って奥が深いものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆2008.10.3。②:私への一通のメール。奇跡について。
HPの方では書込み欄を準備していますが、ご自身の家族の模様を書くのは気が引けますよね。だから、メールを頂くことがあります。最近、大分の48歳の方から頂いたメールを一つご紹介します。
「要介護5の私の母は特養に入所して3年になります。義歯も壊れてしまって久しく、入歯を新しく作り、固形物を噛めたとしても既に消化器官が弱っていて、身体への負担が大きいからと刻み食とトロトロご飯を食べています。
このトロトロ食でも咽せる事はなく、今の処はいつも完食しています。発語する事もめっきり減りましたが夜間はグッスリと眠れ、会いに行った際などには高橋さんが詩の中でよう使われる「天使」のようにニッコリと笑ってくれ、施設では穏やかな日々を過ごしているようです。こんな母を見ていると、ふと、母が要介護3、4だった頃の大変な時期に戻れないものだろうかと思う時があります。
家では常に動き回ろうとし、寒くても暑くても散歩に出たがっていた母。そして、それがとても嫌だった私。
母の話す内容も古い話ばかりで私には面倒くさい話ばかり。時には私の名前さえ間違えて呼んだり、私を他人のように扱ったり・・。そんな時の私は母の問い掛けに返事もせずに車椅子のそばで母を放ったらかしにしていました。
今思えば、私の思いが足らないばかりに母には申し訳のなさで一杯になるのです。あの頃に戻りたい。そして、あの頃の母と話をしたい。あの時の母の問い掛けにも答えてみたい。私の悩みだって母に相談してみたい・・、でも、もうすべてが遅いんですよね。
来週、母に会ったら車椅子を押して施設内をいつもより長い時間を掛けて散歩しようと思います。例え、言葉が交わせなくても、母はせめて私の涙だけは分ってくれるかも知れません。
3月に豊後大野市で【母に生命を返す時】のコンサートが開かれましたが、私は母の施設に行く日だった事とコンサート会場までは結構な距離があって行く事が叶いませんでした。
でも、後に地元の方からCDを頂くご縁があって貴方の作品を聞く事ができました。作品の中に【花ミズキ】というのがありますが、車椅子の母親と話ができる貴方が羨ましくて堪りません。また、最近ブログで発表された作品に【施設にて】というのがありますが、この2つの作品を聴いていて介護家庭の壮絶な呻き声のようなものを感じました。
もう少し早く貴方のCDに出合いたかったと思いますが、今は施設に行く度に奇跡が起きる事を願って貴方の作品を天使のようになった母にヘッドフォンで聴かせています。高橋さんは奇跡って信じますか・・・」。こんな内容のメールでした。
具体的には書けませんが、私はこの方への返信の中で奇跡は信じない、と答えました。でも、奇跡は貴方自身が起こすような気がします、と答えました。貴女が変わる事でいろんな目に見えない事が変り始めるんですと答えました。
貴女が変わる事でそれまでは見えていなかったものまでが見えてくるかも知れない。見えるようになる事で伝える言葉や表現までが変わってくるはず。伝わるものが変われば相手までが変わってくるはず。
貴女の日常の表情が変わる事で介護士さん達の日々の表情やお母さんへの話し掛けも変わるでしょう。奇跡ってそうした事の積重ねの中でポンと意外なほど簡単に起きたりするのではないでしょうか。とそんな事を返信しました。私は奇跡は待つものではなく自分の力で作り出すものだと思っているからです。
♪:DOLL
コルク栓に凧糸を巻いて作る硬球や青竹バットの話をしましたが、それ程に貧乏だった訳ではありません。当時の私達の家族は黒ダイヤと呼ばれた石炭を掘る炭坑の経営者ですから贅沢な暮らしをしていました。しかし、母親(つやサン)が金銭に厳しかったのです。
「作れるモノは自分達で作って遊びなさい。小遣いが欲しけりゃ子供なりに働きなさい」、という子育て方針でしたから小遣いが欲しくなった時の為に私は畑で茄子や胡瓜を常に作っていました。
柳川の農家の三男であるが故に苦学して外交官にまでなった父の前では母は贅沢という言葉が禁句だったのだろうと思います。
しかし、周囲の家からは羨ましがられる部分もありました。風呂釜や小鍋に使う七輪用の燃料は炭坑から運ばせた製鉄所用のコークスを使っていたからです。我家の回りにはこのコークス用の収納庫が取り囲んでいましたからね。
ご飯を炊く釜戸では柔らかく炊けるようにと木の燃料を使っていました。ですから、大きなコークスの塊を手の拳大に割ったり、丸太を割って薪(まき)にしたりは日常的に私と兄の仕事でした(姉はひたすらに勉強机でゴリゴリと鉛筆削り・・本当に勉強机に向かっている姿しか記憶にありません)。
父と母が使う爪楊枝作りだってしました。私と兄は近くの山に自然に枯れた竹を拾いに行き、肥後刀というナイフで兄が起用に細く割り、更に8cmくらいに切ったものを私がガラスの破片で削って爪楊枝に仕上げていくのです。
もう、大変な作業でした。300本くらい作って10円か15円ですから、今の価値で言えば170円くらいでしょうか。でも、当時にこの爪楊枝を買えばもっと安く売ってあったのだから、母は手間賃を含めて買上げてくれていたのだと思います。確か、当時の修学旅行で兄が渡された小遣いが150円。私が50円程度ですからね。
☆父の事を少し。& 母の吹くハーモニカにドキドキと胸騒ぎ。
明治35年、柳川の農家の三男で生まれた父は伝習館高校を卒業後、苦学して明治大学に進み、同時期に特別聴講生として東京外国語大学でも学んでいます。
福岡出身の議員などを頼りに学資の援助をお願いして回った話なども聞きました。しかし、父は飛んでもない試験に合格してしまったのです。東京大学や早稲田大学などからの受験生に混じって受けた外交官試験に合格して英国へ渡る切符を手にしたのでした。それは、我が国が社会保険制度導入の為の設けた試験だったのです。
この父は帰国後は宮崎県庁に勤めるのですが、母と結婚後、暫くして母方の経営する炭鉱業に転身するのですが、この父の教育熱心さには子供なりに苦労しました。何せかなりの高齢になってさえ英字を喋り、手紙を書いたり、独語の本さえも辞書片手に読む人でした。
この父の遺伝子を受継いだのが長女の紘子ではないかと思います。紘子、と言えば「夜中遅くまで毎日毎日勉強。そして鉛筆を削る音のゴリゴリ」、という記憶で一杯です。
父はよく子供達を集めて読み書きテストという奴をしていました。新聞の記事から適当な漢字を拾っては私達兄弟に書かせるのです。家族でトランプや花札をした時期もあります。圧巻だったのは母の吹くハーモニカでした。兎に角、上手かったですね。バリトンハーモニカという大きな楽器でした。軍歌に童謡に流行歌・・、母は何でも吹いていました。
まだまだ、私も兄も野球に目覚めるずっと以前の話です。
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☆2008.10.3。①:今日の母。「私は走れんし、運動会には出らんよ」。
10月26日にK施設の秋の運動会があるようです。苑内にはポスターが貼ってあって家族の者への広報をしてあります。母がこのポスターをどこまで理解したかは分りませんが、「誰かが運動会の話をしていたような気がする」、と言います。
「運動会と言っても走り回るんじゃなくて、柔らかいゴムボールを向かい側の人の方に手で弾いたり、隣の人に手渡しする程度さ」、と説明しましたが・・、多分、私の言葉が長すぎて理解してはいないようでした。
先日、デイに行く車中で、「母ちゃん、思った事を口に出せんのは辛かろうね?」、と思い切って訊ねてみました。返事は、「うん、凍ったもんは口にせん方がいいよ。段々、寒くなるし・・」、とこれまた母らしい返事が返ってきました・・ほほ。
そして、今朝はいつものように信号停車の際に面白い会話になりました。
「尚宏、あそこに飛ぶのは何だろうね」。
「俺には何にも見えんよ」。
「あらっ、可哀想に。お前にはあれも見えんとね。・・ありゃ、二つに割れたよ」。
「ほほっ、飛んどる奴が二つに割れたかい。こりゃまた器用にね。UFOじゃないの?」。
「私は正直に言うほうさ。二つに割れたから割れたと言うとるだけ・よ。・・ありゃ、一つに戻った」。
「あんたの目が増えたり減ったりしてるんじゃないの」。
「・・お前も変な事ばかり言う子だねえ」。
こんな会話の後、施設でお茶を飲みながら話の続きをしようと、「さっきの飛んでいた奴の話だけど・・」、と言えば、「あは?、何の話ね」、と全く似た者親子だなと自分でも思いました。
物忘れが激しいのか、気持ちの切り替えが早いのかは分りません。でも、実はこんな時の母は覚えていて、答えが出なかった事に対して少し怒っている事もあるんです。同居が6年になっても母が分らない事は沢山あります。
食事しかり、趣味嗜好しかり。老いの進みに合わせるかのように変化していくものは多いものです。今朝はそんな朝でした。
私の母はある意味でドン欲ですね。結構、いろんな事に興味を示してくれます。生活欲とでも言うんですか。
例えば、私がギターを弾いていると、「ちょっとお貸し。そのくらいなら私にも弾けると思うよ」、と興味を示してギターを持っては愛おしそうな表情でギターを撫でたりします。
「おおっ、この鉄の弦を弾くというのは指が痛いだろうね」。
「うん、その痛みに慣れるのが最初の試練さ」。
「ああ、そうだろうね。こりゃ堪らん」。
「「俺がプロでやっていた頃には左右の指を砥石で研いで指の皮を厚く厚くしていたよ」。
「何で右の指まで研ぐのね?。痛いのは左の方だけだろう」。
「ウッドベースってあるよね。コントラバスの事だけど、あれを弾こうとすると左右の指の皮が厚く、それにとても握力が必要になるから辛かったよ」。
「へーっ、お前はハモニカもピアノも弾くし、プープー(トランペット)も昔は持っていたよね。あれはどうした?」。
「あー、あれは借り物さ」、と私が高校生の頃にまで飛躍する日だってあります。
それに、母の難聴や失語に関して最近になってフッと感じた事があります。
母から持ち掛けた話題に関しては難聴や失語症の出が少ないのです。例えば、音楽や楽器の話題だと結構な会話が成立するんです。
普通のお年寄りには理解不可能だと思われる「調律」、「調弦」、「音程」、「1弦」、「2弦」、「フレット」、等々。勿論、楽器を抱いて指差しやアクションを交えながらではあるのですが、話の筋がしっかりと理解できているんです。
何故なら、私の話の途中で入る母の質問が全く正確に話の流れに沿っているからです。
多分、こんな時の母の脳裏には自分が弾いていた三味線やハーモニカ。それに平戸高等女学校時代の音楽の先生が弾かれていたというマンドリンの映像や演奏が浮かんでいるのだと思います。
そして、最後に、「はあーっ、音楽っていいね。愉しいよね。お前はいろんな楽器をやってて良かったね」。という満足そうな言葉が母の口から出るんです。
認知や失語の回復には、その人の携わっていた職業や趣味。そんなものに対する知識や技術の事を話題にして対処するようにすると意外なほどに効果があるのではないかと思います。
かと思うと、「母ちゃん、お風呂に入るよ」、と言えば、「あはっ、私があんたとね。ほほっ、それは出来ません。女がパンツを脱いだ男と一緒に風呂には入れないでございます」。
「何を考えとんね。背中にお湯をかけて洗ってやるのさ。いつもの事じゃないね」。
「そんな事はございません。私は貴方様から背中を流して貰った事など一度もありません」。
こんな調子ですから、認知って奥が深いものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆2008.10.3。②:私への一通のメール。奇跡について。
HPの方では書込み欄を準備していますが、ご自身の家族の模様を書くのは気が引けますよね。だから、メールを頂くことがあります。最近、大分の48歳の方から頂いたメールを一つご紹介します。
「要介護5の私の母は特養に入所して3年になります。義歯も壊れてしまって久しく、入歯を新しく作り、固形物を噛めたとしても既に消化器官が弱っていて、身体への負担が大きいからと刻み食とトロトロご飯を食べています。
このトロトロ食でも咽せる事はなく、今の処はいつも完食しています。発語する事もめっきり減りましたが夜間はグッスリと眠れ、会いに行った際などには高橋さんが詩の中でよう使われる「天使」のようにニッコリと笑ってくれ、施設では穏やかな日々を過ごしているようです。こんな母を見ていると、ふと、母が要介護3、4だった頃の大変な時期に戻れないものだろうかと思う時があります。
家では常に動き回ろうとし、寒くても暑くても散歩に出たがっていた母。そして、それがとても嫌だった私。
母の話す内容も古い話ばかりで私には面倒くさい話ばかり。時には私の名前さえ間違えて呼んだり、私を他人のように扱ったり・・。そんな時の私は母の問い掛けに返事もせずに車椅子のそばで母を放ったらかしにしていました。
今思えば、私の思いが足らないばかりに母には申し訳のなさで一杯になるのです。あの頃に戻りたい。そして、あの頃の母と話をしたい。あの時の母の問い掛けにも答えてみたい。私の悩みだって母に相談してみたい・・、でも、もうすべてが遅いんですよね。
来週、母に会ったら車椅子を押して施設内をいつもより長い時間を掛けて散歩しようと思います。例え、言葉が交わせなくても、母はせめて私の涙だけは分ってくれるかも知れません。
3月に豊後大野市で【母に生命を返す時】のコンサートが開かれましたが、私は母の施設に行く日だった事とコンサート会場までは結構な距離があって行く事が叶いませんでした。
でも、後に地元の方からCDを頂くご縁があって貴方の作品を聞く事ができました。作品の中に【花ミズキ】というのがありますが、車椅子の母親と話ができる貴方が羨ましくて堪りません。また、最近ブログで発表された作品に【施設にて】というのがありますが、この2つの作品を聴いていて介護家庭の壮絶な呻き声のようなものを感じました。
もう少し早く貴方のCDに出合いたかったと思いますが、今は施設に行く度に奇跡が起きる事を願って貴方の作品を天使のようになった母にヘッドフォンで聴かせています。高橋さんは奇跡って信じますか・・・」。こんな内容のメールでした。
具体的には書けませんが、私はこの方への返信の中で奇跡は信じない、と答えました。でも、奇跡は貴方自身が起こすような気がします、と答えました。貴女が変わる事でいろんな目に見えない事が変り始めるんですと答えました。
貴女が変わる事でそれまでは見えていなかったものまでが見えてくるかも知れない。見えるようになる事で伝える言葉や表現までが変わってくるはず。伝わるものが変われば相手までが変わってくるはず。
貴女の日常の表情が変わる事で介護士さん達の日々の表情やお母さんへの話し掛けも変わるでしょう。奇跡ってそうした事の積重ねの中でポンと意外なほど簡単に起きたりするのではないでしょうか。とそんな事を返信しました。私は奇跡は待つものではなく自分の力で作り出すものだと思っているからです。
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