2008年12月13日

♪:同居記録:76

☆2008.9.30。昔話・・ついでに。私の野球への目覚め。

私の野球好きの起源もこの頃にあります。兄は小学校6年の頃には170cmを楽に越えていたのでしょうか、常に2~3歳年長の人と遊んでいました。野球は天性のうまさがありますが、最初は足の速さで目立っていたんです。この兄は陸上競技では市や県の大会ではいつも沢山のメダルを持って帰っていたようです。
私も同学年の子供よりも頭一つが出るくらいに大きくて、小学校4年生の時(私が腹膜炎大手術をする直前)には、4年~6年生が一同に会して行なわれた全校相撲大会で4年生の私が6年生を次々と放り投げて優勝しています。負けず嫌いでお人好しの子供でした。
私も同学年の子供と遊んでいても何となく面白くなく、いつも2歳上の鳴神工(たくみ)さんという先輩と遊んでいましたが、この人は週末に柔道を習っていた為に毎日は相手をしてくれません。時々ですが、この工さんについて道場に行き、借り物の柔道着で独り受身をして遊んでいたのを悲しい思い出として覚えています。私の父の長男偏重は激しくて、多分、柔道を習いたいと言っても許可は貰えなかったと思います。

私は自宅横にあった薬師堂そばの山で赤い粘土を掘ってきて水で練り、ボール大のサイズに丸めた土を黙々と何百個と作り、15mくらい離れた所に丸印をつけた板を置いてはそれに向かってこれまた黙々と投げ込んで独り遊びをしたものです。
たかが15mとは言っても水を含ませて丸めた粘土の重さは大人が使う硬球3個分ほどの重さがあって、それを小学校2~3年生の私が15mを投げるというのは大変な事でした。それも、丸い的(まと)は30cmくらいしかないんです。
今でも地肩が強くキャッチボールに時間を掛けないで余り放物線を描かない遠投で70mを軽く投げるのはこうした頃の名残りなんだろうと思っています。70mというと捕手~中翼手が定位置から少し下がったくらいの距離です。

☆炭坑町、石炭運搬トラックの通る道幅の狭い道路。細い青竹バットで手作りのボール打ち。

滅多に一緒に遊ぶ事がなかった私と兄ですが、共通の遊びが二つくらいはありました。それは相撲と野球の真似事でした。
伊万里市では陸上競技のスターであり、体格のいい兄は私の憧れでした。その兄は隣の家に住む2歳上の鳴神実さんというバリバリの高校球児に、私はその弟さんで私より2歳上で柔道の強い工(たくみ)さんに影響を受けていたのかも知れません。
だから、野球や相撲になるとこの4人が一緒に遊ぶのです。この2組の兄弟のそれぞれの体格が同じくらいだったのでした。相撲では実さんと兄がいい勝負をし、私と工さんがいい勝負をしていました。
この4人が一緒に遊ぶ時はいつも真剣勝負。畑の中に本格的な土俵を作りました。土俵作りも10日くらい掛けて4人で作り、仕切線などは木材を埋め込んで設けるなど、本当に本格的な土俵だったのを覚えています。この土俵作りも兄貴は上手いんです。

さて、野球の話ですが、今でも私は左、真ん中(センター返し)、右へ流し打ちと小学生の頃にマスターした感覚というモノが残っていて、所属するシニアチームでは「どうして、あんたはそんなに器用に左右に打ち分けるんだ」、と聞かれます。
佐賀県伊万里市。正確に言えば東山代町大久保という所にあった私の家の下には道幅が5mあるかないかのような道路があってその道を炭坑から掘り出した石炭を30kmほど離れた久原港という所に運んでいました。
石炭を満載したトラックが離合する時などは膨らんで道幅が広くなった場所までどちらか一方のトラックがバックしなければ離合できないという大変さでした。この時代の頃ですから舗装などしてはありません。この狭い道路が私の野球場だったのです。

今でも売っている赤玉ポートワインのコルク栓を丸く削り、この削ったコルクに器用に凧糸を丸く巻き付けていくのですが、私の兄はこうした細かい作業が上手かったですね。こうして出来たモノがボールでした。立派な硬式ボールです。バットは腕が上達するようにとワザと細目の真竹を使っていました。
実さんは高校の野球部ですからなかなか参加出来ません。兄が投げ、工さんが兄の後を守り私が打ちます。そして、工さんが投げ、兄が打ち、私が工さんの背後を守る、というローテーションで遊びました。
狭い道路の上に捕手はいませんから正確に投げ、正確に真っ直ぐに打ち返さなければいけません。道路の左右の畑に打ち込んだら自分で取りに行くんです。こんな条件ですから投球術も打撃術も上達しないはずがありません。

稲の刈り取りが終った時期には畑がグラウンドになりました。こんな時には村中の子供達を呼んで遊びましたが、やはり、私達4人だけが目立ってしまうんです。だから、この4人は常に兄と工さん、実さんと私というように兄弟が敵味方に別れるようにしていました。
時には、遊んではいけないボタ池で大人達に呼ばれて本格的な試合をしました。
ボタ池とは洗炭と言って、掘ったばかりの石炭にこびり付いたドロを大量の水で洗った後のヘドロのようなものを捨ててできる池の事です。福岡ドーム球場2個分くらいの広さがあるのでしょうか、大部分の場所は乾燥して固まっていて大丈夫なんですが、場所によっては[底なし沼]なんです。蛇だって這って進む間に沈んでしまって絶対に浮かんでさえ来ないという危険な遊び場でしたが、そんな場所でさえ野球をやっていました。

実は、この池に兄が填った事があるんです。しかし、鳴神実さんの我が身を捨てた救出で兄が救われた事があります。兄は記憶しているかどうか・・。兄と私はそれ程に野球が好きでした。
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☆2008.10.1。昔話の続き:いつしか、父や兄に対して不思議な感情を持つようになっていた。

私達の住む家の上の段には中別府さんという父の炭坑とはライバルになる別な炭坑の経営に携わるご家庭があったのですが、そこの子供達は兄弟全員が剣道をしていました。
すぐ隣の鳴神さん兄弟も野球と柔道を習っているのに、何故、我家では兄だけがそうした事が許され、私には習い事はおろか、下着から下駄に至るまで兄貴のお古なんだと・・悲しかったですね。
相撲では時に兄さえ倒し、野球だって兄には及ばないながらも学校では、「兄さんの方は体力で他を圧倒しているからだが、弟さんの方が繊細で野球センスがあるようだ」、と兄を指導した大河内という監督さんが言っておられたのを覚えています。
この頃、少しずつですが父や兄に対する考えが変わりつつある自分が育ち始めたような気がします。父を見返すには憧れの兄貴を追い越すしかない・・、と。

兄が卒業した後の野球部では私は3番でポジションは兄(後に投手に転向、兄は中学から大型投手として本格的に頭角を伸ばし、マスコミからの注目を受けるようになります)と同じ遊撃手を務めていたのです。守備範囲が広く、肩が強くなければ務まらないポジションです。
伊万里市内の小学生チームを招待して行なった試合が移転の為に使われなくなった中学校のグラウンドで行なわれた事があります。ここで私は4年生ながら6年生のレギュラー組に混じって3番ショート起用され、2打席連続のホームランを打ちました。その試合で私はグラウンドのそばを走る国道を越え、右中間方向にあった川原商店という文房具屋さんの屋根やレフト方向にあったグラウンド外の防火水槽までボールを打ち込んだのです。現在のように学童野球という特別ルールも呼び名さえない頃。ダイヤモンドの広さ、つまり塁間距離も大人の試合で使われるレギュラーサイズしかなかった頃です。
その姿を見た前出の大河内監督や井出という先生が、「これは兄さん以上の素質があるぞ」、と私を二人で抱きかかえて喜んでおられたのを覚えています。
でも、こんなに嬉しい出来事だって私は父にも母にも話す事はありませんでした。この頃でさえ私は借り物のグラブ。周囲の誰もが持っていて当然の頃でしたが、私は自分のバットさえ両親からは与えられてはいなかったのです。

私を拾いもののダイヤモンドのように喜ぶ監督達の姿があるかと思えば、当時の父親の目には兄だけしか見えていない要でした。兄は黒く光輝く石炭。そして、私はその石炭に纏わりついた汚く面倒臭いボタ泥のようではなかったかと思うのです。
こうした子供なりの寂しさ、次男坊ゆえの妬み。この恨み辛みのようなものが私の幼い心に育ち始めていたのでしょうか。私は独り近くの天満宮に行き、いかつい2頭の狛犬の背中に跨っては、「ボクは邪魔者なの?。何の役にも誰も喜ばす事ができない人間なの?」、と涙をこぼして叫んでいたんです。
私の神社通いは今に始まった事ではなく、この頃から始まっていたんです。そして、やがて、あの忌まわしい病に私は倒れたのでした。5年生も近い3月。もうすぐ桜の咲く季節でした。
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