2008年11月30日
・同居記録:66
☆別府にある[大塚博堂記念館・博堂村]について。
今の若者の多くは彼を知りません。生きていれば64歳になる大分出身のシンガーです。東洋音大卒業後に博多の町でジャズ、シャンソンを唄いながら生計を立て、一度はメジャーデビューをしますが陽の目を見ずに銀座で弾き語りをしながら長い苦悩の時間を持ちました。
「苦しい、帰りたい、別府が懐かしい、でも戻ったら負けになる」、と手紙にしたためては母親に送りつけていたそうです。私もその当時の彼の手紙を見せて頂きましたが、その綺麗な文字を見るだけで私は激しく心を叩かれるような感覚に陥りました。
その彼の苦しみの中で生まれたのが、あの[めぐり会い紡いで]、[ダステインホフマンになれなかったよ]
なんです。そして、その彼はこれからと言われながら37歳の若さで逝ってしまったのです。
私の一年はここでの演奏から始まるんです。彼はラブソングの貴公子と呼ばれ、私とは全くの無縁の人です。でも、NHKに言わせれば私の作品だって、[母に捧げるラブソング]なんだと・。
☆この博堂村で知合った溝口しんいち、というスパニッシュギターを弾く青年について。
このスーパーギタリストの溝口しんいち、という青年との最初の出会いは2007年8月26日の博堂村での私のライブで前座を務めてくれた2名の方の一人で今年22歳になる人です。クラシックギターの名手で数年前から全国大会では2位入賞したり落選したり・・、別府に住む気のいい青年です。入退院を繰返すほどに体調の優れない母親の世話をする為、仕事もサラリーマンにはならずに土木工事の期間アルバイトや別府市内でギター教室をしながら暮らしています。
この彼の弾くクラシックギターには惹きつけられるものが多いにあります。指で激しく、時に優しく弾くというのはクラシックギターならではの事です。私も26歳の頃には熊本市の勤労青年会館でギター講師をやっていた経験がありますので彼には多いに関心があるんです。
皆様、別府に行く機会があれば、是非、この博堂村をお訪ね下さい(0977.21.8910)。
☆その溝口しんいち君へのアドバイス。
「溝口君をどうにかしてあげたい」、と博堂の甥ににあたる大塚ご夫婦はいつも言われます。彼ほどのギターリスト(実は、エレキギターの名手でもあるらしい)であっても活動が限られていて、自腹を切ってコンサートを開くのが誠一杯だとか・・。「高橋さん、何故だと思います?」、と大塚さんが聞かれますから私は即座に答えました。「ギターが・・上手い!」、という表現以外に称えるものがないんです。この事は、次に書く内容と重なる部分があると思うのです。
☆誰も指摘しない、[規律、気をつけ・礼]の和音感覚。
我が国の音楽教育の体制作りは整えられている方だと思っていますが、音楽教師のレベルは非常に低いものです。
今は貧乏暮らしのど真ん中ですが、我家の自慢の一つは居間の一角に防音材で固めたピアノルームがあってグランドピアノがあるんです。この1台のグランドピアノだけには嫁の拘りがあって貧乏暮らしがやれているんです。
まだ、母との同居をする以前には秋頃になると毎年のようにピアノを習いに来る子供達が必ずいて、必死になってピアノに向かうんですが、せめて中学1年くらいから習い始めるならまだしも、高校2年になってようやく、「小学校の教師になろう」と決心してもピアノが弾けないと駄目だから、慌てて習い始めるのです。こんな感じで音楽教師が生まれる訳ですから教育学部の受験に通るだけの技量を身につけても音楽理論が身につかないのは当然です。テーマがない人生って寂しいもんです。
熊本は吹奏楽の全国大会では常に上位入賞を続ける程のレベルだから言い辛い面がありますが、指導者が転勤になったりすると急激にレベルが変わったりする処をみると教師自体の指導力のレベルの違いがあるのでしょう。これは高校野球が指導者によって変わるのと同じ。私が指摘する事と非常に関係があるんです。
典型が某地方局が子供達を集めて作っている子供合唱団です。全国大会に出ても予選落ちのレベルだと思います。今のままだと絶対に伸びない。これは断言します。
子供達の持つ能力はあるのでしょうがアレンジをされていると思われる指導者の和音感覚がまるで戦後の[規律・気をつけ・礼]なんですね。あの子供達の指導をヤマハや河合音楽教室などの民間教室で指導にあたっている若い講師に代えるだけで随分と洗練されたコーラスグループに変身するのではないかと思います。
何故、断言するのか。何度も書いていますが和音(ハーモニー)感覚の差なんです。ヤマハ、河合、ビクター、ブラザーも音楽教室をやっているのでしょうか?。私はそういった音楽教室とは何の関係もありませんが、学校教育の一環で音楽を学ぶより、こうした民間の音楽教室の方が余程レベルが高いと思います。現在の教育現場で身に付けさせられる和音感覚では国際的な音楽の進歩にはついていけない気がするんです。G7-5&-9とD♭7-5&-9が同じ構成だという事さえ知らない方は多いもんです。1度ー5度ー1度の和声から抜けきれずにいる日本の音楽教育現場の話を書いてみました。
今の若者の多くは彼を知りません。生きていれば64歳になる大分出身のシンガーです。東洋音大卒業後に博多の町でジャズ、シャンソンを唄いながら生計を立て、一度はメジャーデビューをしますが陽の目を見ずに銀座で弾き語りをしながら長い苦悩の時間を持ちました。
「苦しい、帰りたい、別府が懐かしい、でも戻ったら負けになる」、と手紙にしたためては母親に送りつけていたそうです。私もその当時の彼の手紙を見せて頂きましたが、その綺麗な文字を見るだけで私は激しく心を叩かれるような感覚に陥りました。
その彼の苦しみの中で生まれたのが、あの[めぐり会い紡いで]、[ダステインホフマンになれなかったよ]
なんです。そして、その彼はこれからと言われながら37歳の若さで逝ってしまったのです。
私の一年はここでの演奏から始まるんです。彼はラブソングの貴公子と呼ばれ、私とは全くの無縁の人です。でも、NHKに言わせれば私の作品だって、[母に捧げるラブソング]なんだと・。
☆この博堂村で知合った溝口しんいち、というスパニッシュギターを弾く青年について。
このスーパーギタリストの溝口しんいち、という青年との最初の出会いは2007年8月26日の博堂村での私のライブで前座を務めてくれた2名の方の一人で今年22歳になる人です。クラシックギターの名手で数年前から全国大会では2位入賞したり落選したり・・、別府に住む気のいい青年です。入退院を繰返すほどに体調の優れない母親の世話をする為、仕事もサラリーマンにはならずに土木工事の期間アルバイトや別府市内でギター教室をしながら暮らしています。
この彼の弾くクラシックギターには惹きつけられるものが多いにあります。指で激しく、時に優しく弾くというのはクラシックギターならではの事です。私も26歳の頃には熊本市の勤労青年会館でギター講師をやっていた経験がありますので彼には多いに関心があるんです。
皆様、別府に行く機会があれば、是非、この博堂村をお訪ね下さい(0977.21.8910)。
☆その溝口しんいち君へのアドバイス。
「溝口君をどうにかしてあげたい」、と博堂の甥ににあたる大塚ご夫婦はいつも言われます。彼ほどのギターリスト(実は、エレキギターの名手でもあるらしい)であっても活動が限られていて、自腹を切ってコンサートを開くのが誠一杯だとか・・。「高橋さん、何故だと思います?」、と大塚さんが聞かれますから私は即座に答えました。「ギターが・・上手い!」、という表現以外に称えるものがないんです。この事は、次に書く内容と重なる部分があると思うのです。
☆誰も指摘しない、[規律、気をつけ・礼]の和音感覚。
我が国の音楽教育の体制作りは整えられている方だと思っていますが、音楽教師のレベルは非常に低いものです。
今は貧乏暮らしのど真ん中ですが、我家の自慢の一つは居間の一角に防音材で固めたピアノルームがあってグランドピアノがあるんです。この1台のグランドピアノだけには嫁の拘りがあって貧乏暮らしがやれているんです。
まだ、母との同居をする以前には秋頃になると毎年のようにピアノを習いに来る子供達が必ずいて、必死になってピアノに向かうんですが、せめて中学1年くらいから習い始めるならまだしも、高校2年になってようやく、「小学校の教師になろう」と決心してもピアノが弾けないと駄目だから、慌てて習い始めるのです。こんな感じで音楽教師が生まれる訳ですから教育学部の受験に通るだけの技量を身につけても音楽理論が身につかないのは当然です。テーマがない人生って寂しいもんです。
熊本は吹奏楽の全国大会では常に上位入賞を続ける程のレベルだから言い辛い面がありますが、指導者が転勤になったりすると急激にレベルが変わったりする処をみると教師自体の指導力のレベルの違いがあるのでしょう。これは高校野球が指導者によって変わるのと同じ。私が指摘する事と非常に関係があるんです。
典型が某地方局が子供達を集めて作っている子供合唱団です。全国大会に出ても予選落ちのレベルだと思います。今のままだと絶対に伸びない。これは断言します。
子供達の持つ能力はあるのでしょうがアレンジをされていると思われる指導者の和音感覚がまるで戦後の[規律・気をつけ・礼]なんですね。あの子供達の指導をヤマハや河合音楽教室などの民間教室で指導にあたっている若い講師に代えるだけで随分と洗練されたコーラスグループに変身するのではないかと思います。
何故、断言するのか。何度も書いていますが和音(ハーモニー)感覚の差なんです。ヤマハ、河合、ビクター、ブラザーも音楽教室をやっているのでしょうか?。私はそういった音楽教室とは何の関係もありませんが、学校教育の一環で音楽を学ぶより、こうした民間の音楽教室の方が余程レベルが高いと思います。現在の教育現場で身に付けさせられる和音感覚では国際的な音楽の進歩にはついていけない気がするんです。G7-5&-9とD♭7-5&-9が同じ構成だという事さえ知らない方は多いもんです。1度ー5度ー1度の和声から抜けきれずにいる日本の音楽教育現場の話を書いてみました。
2008年11月29日
・同居記録:65
☆「尚宏、車椅子は嫌だよ」。お尻が痛いと言う母。可哀想。
「このお尻の痛さはどうにかならんもんかね」、と母が言います。ベッドで横になり、トイレをする時以外はずっと車椅子の生活ですからね。きついし腰も尻も痛いと思います。でも、仕方ありません。別な車椅子を探して貰おうと思っています。私の作品の中で[宇留毛神社の春]というのがありますが、この宇留毛神社に行った車中でも、「尚宏、尻が痛くなるから車椅子には移りたくない。桜なら車からでも見えるし・・」、と言っていました。
☆時に、猫のチッチさんが夜中も構わず走り回るのは何故?。
あれは自分の存在をアピールしているんですか?。日中でも角に隠れるようにして私達を片目で観察していて、そんなチッチを無視して夫婦で話込んでいるとわざと目立つようにトイレ付近から居間にトコトコトコと全力疾走をしてきます。わざと気づかない振りをしていると、「・・なによ~、貴方達はン」、みたいな表情で再び部屋の角に戻り、そこから顔を半分だけ覗かせて私達の方へ走り出すタイミングを図っています。そして、再びトコトコトコトコと全力疾走して来るんです。あれはどんな心理状態があってやる行動なんですか?。夜中などは部屋のドアに体当たりして音を立てるんです。
母を車椅子に乗せて移動している最中など、わざと車イスを追い越しといて、通り道を塞ぐようにゴロンと横になるんです。
「こら、そこどけ」、と言っても、「なーに言ってんだか。ヘッ」、みたいな目で寝たままで私と母を横目で見上げているんです。
男1匹、女3匹の我家は静かではありますが、それぞれが心に様々な葛藤を持ちながら今日も暮らしています。
☆2008.9.4。音楽の話、続き・。路上パフォーマーについて。
先日の音楽話の続きになります。母親なり父親の遺伝子を知らぬ間に受継ぎ、何かに、そして誰かに影響を受けたのが切っ掛けになって何事も始まるのだと思います。これも他の分野に及ばない様、音楽に関してだけという前提で書きますが、日本人の音楽観って殆ど明治時代のままだと思っています。これは日本人の体質かも知れません。
矢沢栄吉が受けると分ると誰もが矢沢系を追っかけ、サザンが流行るとサザン系を追い、挙句の果ては大麻事件や拳銃の不法所持やらで世間を騒がすばかりの奴が作る音楽を追っかけていて、[自分の音楽]を探そうとする若者が少ないと思います。
実は、音楽を追究しているんではなく、彼らにとってはファッションに過ぎないのかも知れません。また、
「路上、路上」ってよく言いますが、音楽を楽しんで大衆の面前で披露する前に音楽を追究する時間があったんだろうかと思える人達が多すぎます。音楽ってそんなに手軽にやれるものではないと思います。
若者の多くが弾くギターの話で言えば、多くはジャーンジャジャンジャン、ジャジャッジャジャンジャンって訳の分らないものをやってから歌いはじめますが、あれは何なんでしょう?。どんな曲を弾く時でもジャーンジャジャンジャンって弾きますが、あれはイントロのつもりで弾いているんです。
感動を伝えるのも安易な事ではありませんが、感動を作り出すって難しい事が多いものです。でも、自分自身の中に多くの言葉や経験があれば表現に幅が出るはずだから、その分だけ伝える、作り出すのが楽になる気がします。
☆イントロ(前奏)はその作品の顔。大切にしたい。
イントロが弾けない、というのは悲しい。弾けなければ練習してから路上しなさい、って言いたいんです。先ずは騒音、暴音を楽しむより、楽器を持つ苦しみを味わってくれ、と言いたいんです。弾けなければ2人で、3人で組みなさい、と言いたいんです。弾けない理由はギターを持った最初からプラスチック製のピックを使うからなんです。和音だけをジャンジャンやって、それでギターを弾いていると本気で思っているんだろうか、と思います。何年弾こうがそのままでは自分が哀れでしょう。
「このお尻の痛さはどうにかならんもんかね」、と母が言います。ベッドで横になり、トイレをする時以外はずっと車椅子の生活ですからね。きついし腰も尻も痛いと思います。でも、仕方ありません。別な車椅子を探して貰おうと思っています。私の作品の中で[宇留毛神社の春]というのがありますが、この宇留毛神社に行った車中でも、「尚宏、尻が痛くなるから車椅子には移りたくない。桜なら車からでも見えるし・・」、と言っていました。
☆時に、猫のチッチさんが夜中も構わず走り回るのは何故?。
あれは自分の存在をアピールしているんですか?。日中でも角に隠れるようにして私達を片目で観察していて、そんなチッチを無視して夫婦で話込んでいるとわざと目立つようにトイレ付近から居間にトコトコトコと全力疾走をしてきます。わざと気づかない振りをしていると、「・・なによ~、貴方達はン」、みたいな表情で再び部屋の角に戻り、そこから顔を半分だけ覗かせて私達の方へ走り出すタイミングを図っています。そして、再びトコトコトコトコと全力疾走して来るんです。あれはどんな心理状態があってやる行動なんですか?。夜中などは部屋のドアに体当たりして音を立てるんです。
母を車椅子に乗せて移動している最中など、わざと車イスを追い越しといて、通り道を塞ぐようにゴロンと横になるんです。
「こら、そこどけ」、と言っても、「なーに言ってんだか。ヘッ」、みたいな目で寝たままで私と母を横目で見上げているんです。
男1匹、女3匹の我家は静かではありますが、それぞれが心に様々な葛藤を持ちながら今日も暮らしています。
☆2008.9.4。音楽の話、続き・。路上パフォーマーについて。
先日の音楽話の続きになります。母親なり父親の遺伝子を知らぬ間に受継ぎ、何かに、そして誰かに影響を受けたのが切っ掛けになって何事も始まるのだと思います。これも他の分野に及ばない様、音楽に関してだけという前提で書きますが、日本人の音楽観って殆ど明治時代のままだと思っています。これは日本人の体質かも知れません。
矢沢栄吉が受けると分ると誰もが矢沢系を追っかけ、サザンが流行るとサザン系を追い、挙句の果ては大麻事件や拳銃の不法所持やらで世間を騒がすばかりの奴が作る音楽を追っかけていて、[自分の音楽]を探そうとする若者が少ないと思います。
実は、音楽を追究しているんではなく、彼らにとってはファッションに過ぎないのかも知れません。また、
「路上、路上」ってよく言いますが、音楽を楽しんで大衆の面前で披露する前に音楽を追究する時間があったんだろうかと思える人達が多すぎます。音楽ってそんなに手軽にやれるものではないと思います。
若者の多くが弾くギターの話で言えば、多くはジャーンジャジャンジャン、ジャジャッジャジャンジャンって訳の分らないものをやってから歌いはじめますが、あれは何なんでしょう?。どんな曲を弾く時でもジャーンジャジャンジャンって弾きますが、あれはイントロのつもりで弾いているんです。
感動を伝えるのも安易な事ではありませんが、感動を作り出すって難しい事が多いものです。でも、自分自身の中に多くの言葉や経験があれば表現に幅が出るはずだから、その分だけ伝える、作り出すのが楽になる気がします。
☆イントロ(前奏)はその作品の顔。大切にしたい。
イントロが弾けない、というのは悲しい。弾けなければ練習してから路上しなさい、って言いたいんです。先ずは騒音、暴音を楽しむより、楽器を持つ苦しみを味わってくれ、と言いたいんです。弾けなければ2人で、3人で組みなさい、と言いたいんです。弾けない理由はギターを持った最初からプラスチック製のピックを使うからなんです。和音だけをジャンジャンやって、それでギターを弾いていると本気で思っているんだろうか、と思います。何年弾こうがそのままでは自分が哀れでしょう。
2008年11月28日
・同居記録:64
☆2008.9.2。今朝、母が化粧品を飲もうとする。
始めてではありません。2年ほど前にもありました。朝の事ですから誰でも多少はボーっとテンションが下がってはいるものですが兎も角は白い乳液を牛乳とでも間違えたのかも知れません。・・と、ここで笑っていては駄目なんですよ。
2年前には透き通った色のアストリンゼン(化粧水)を飲もうとしたんです。骨折で入所中にはバンビの小さなガラス細工をポンと口に放り込んだ事もあります。
いろいろ・と考えてみました。動機自体は、「喉が乾いていたから」、ですが、判断力やモノに対する判別力が薄くなってきているんだと思います。
視力も関係あります。白内障の手術を受ける際、どの距離に視力を合わせるかを医師が聞くはずですが、母の場合には空を飛ぶ飛行機や鳥を見るのが好きだから焦点が遠目なのかも知れません。だから、「見えない、見えない」、と母は言います。ゴボウと瓜の粕漬が同じに見えたり・・、ま、嫁さんなどはイワシをサンマと言ったり、サバとアジの区別ができるようになったのが最近の事だし、今でも赤魚と金目鯛が分らない日もありますから・・、ね。
嫁には済まないと思いますが、母にはそうした嫁の天然ボケの話をして母には余り自分自身を責めないように、と言い聞かせています。何事にもキッチリとした母だっただけに辛いんだと思います。
☆目が弱った母が認識しやすいよう、食事に使う皿を変え始める。
最近の母はこんな感じですから、私は食事の時に盛りつける皿の色にも配慮するようになりました。色の濃い皿、多色で模様が多い皿は使わないようにしています。だから、原則的に白い皿ですが、冷や奴などは素材が白だから逆に色物の皿が使えますね。野菜サラダなんかには黄色い皿などどうでしょう?。レタスの上に赤いトマトなんか乗せると綺麗で箸が伸びそうな気がします。
焼き魚などに添える大根下ろしにはキュウリやピーマンを下ろして薄い緑色にします(下ろしたニンジンはビタミンAだからビタミンCの大根と喧嘩しますから使わない事)。
兎も角、何とかして食欲を出して欲しいと思います。
☆母は牛肉が大好き。
母はチキンは好きですね。私達が幼い頃にはよくニンニク醤油に漬込んだ奴で美味い唐揚げを作ってくれたものです。自分の好きな料理は特に上手に作ると言いますから、母自身も唐揚げは大好きだったようです。でも、今の母には堅くパリッと揚げた唐揚げは歯が立ちませんから駄目です。
そこで私は圧力鍋で多少柔らかくしたものを使います。強い塩分は禁止されていますのでチキン自体には最初の味は付けません。でも、この時に圧力鍋に残る茹で汁の一部を使って水で薄め、煮詰めていって
最後に少量の塩、胡椒を入れます。最近のスーパーには粉末のケチャップソーズもありますので塩代りにまぶしてもいいです(塩分が強いので注意)。この味付けした煮汁にしばらく漬込んでおいたものにメリケン粉をつけてあげます。この衣に微塵切りのニンニクを混ぜていてもいいですね。
そして、母は牛肉が大好き。でも、今の我家で牛肉を食べる事は滅多にありませんでした。元来、長い間の野球生活を過ごしていた私自身が蛋白質の摂取はチキンか魚派、豆腐派な事もありました。豚肉よりも高いという理由もあります。
でも、最近の母は食物への嗜好が変わりつつあります。あれほど好きな刺身、味噌汁を残すようになりました。納豆だって大好きなはずなのに・・・、と思う日が増えています。鯛は刺身、煮付け、塩焼き・・、好きみたいです。
そこで、先日は思い切って柔らかそうな牛肉を思い切って買いましたよ。牛肉って火を通しすぎると特に堅くなりますから注意しないといけません。
「すき焼風味にするよ」、と言えば、「あんたに料理ができるのね」、と自宅への車の中での私を小馬鹿にした母の言葉をグッと堪えて作ってみました。
買って帰ったばかりの牛肉を私がいつも飲むBIG-MANという4Lで¥1677くらいの安物焼酎に漬込んでから、先ずはタレを作ろうとフライパンに多めの焼酎を入れて火に掛けながら砂糖、醤油を入れ弱火で煮詰めていきます(牛肉には酒、醤油、白砂糖が絶対)。
お皿に牛肉を盛った時にプラス多少のタレが余るくらいになった時に前もって焼酎に漬込んでいた牛肉を焼酎ごと放り込みます。
タレが元の量に戻り肉に軽く火が通ったら直ぐに盛りつけて食卓に出します。特に牛肉は時間が経つとドンドン堅くなりますから注意が必要です。そして、例によって大根とキュウリの合わせおろしを添えて
「この緑色の大根おろしも綺麗で美味しいね」。この日の母は大喜びですき焼風味の牛肉を食べてくれました。
始めてではありません。2年ほど前にもありました。朝の事ですから誰でも多少はボーっとテンションが下がってはいるものですが兎も角は白い乳液を牛乳とでも間違えたのかも知れません。・・と、ここで笑っていては駄目なんですよ。
2年前には透き通った色のアストリンゼン(化粧水)を飲もうとしたんです。骨折で入所中にはバンビの小さなガラス細工をポンと口に放り込んだ事もあります。
いろいろ・と考えてみました。動機自体は、「喉が乾いていたから」、ですが、判断力やモノに対する判別力が薄くなってきているんだと思います。
視力も関係あります。白内障の手術を受ける際、どの距離に視力を合わせるかを医師が聞くはずですが、母の場合には空を飛ぶ飛行機や鳥を見るのが好きだから焦点が遠目なのかも知れません。だから、「見えない、見えない」、と母は言います。ゴボウと瓜の粕漬が同じに見えたり・・、ま、嫁さんなどはイワシをサンマと言ったり、サバとアジの区別ができるようになったのが最近の事だし、今でも赤魚と金目鯛が分らない日もありますから・・、ね。
嫁には済まないと思いますが、母にはそうした嫁の天然ボケの話をして母には余り自分自身を責めないように、と言い聞かせています。何事にもキッチリとした母だっただけに辛いんだと思います。
☆目が弱った母が認識しやすいよう、食事に使う皿を変え始める。
最近の母はこんな感じですから、私は食事の時に盛りつける皿の色にも配慮するようになりました。色の濃い皿、多色で模様が多い皿は使わないようにしています。だから、原則的に白い皿ですが、冷や奴などは素材が白だから逆に色物の皿が使えますね。野菜サラダなんかには黄色い皿などどうでしょう?。レタスの上に赤いトマトなんか乗せると綺麗で箸が伸びそうな気がします。
焼き魚などに添える大根下ろしにはキュウリやピーマンを下ろして薄い緑色にします(下ろしたニンジンはビタミンAだからビタミンCの大根と喧嘩しますから使わない事)。
兎も角、何とかして食欲を出して欲しいと思います。
☆母は牛肉が大好き。
母はチキンは好きですね。私達が幼い頃にはよくニンニク醤油に漬込んだ奴で美味い唐揚げを作ってくれたものです。自分の好きな料理は特に上手に作ると言いますから、母自身も唐揚げは大好きだったようです。でも、今の母には堅くパリッと揚げた唐揚げは歯が立ちませんから駄目です。
そこで私は圧力鍋で多少柔らかくしたものを使います。強い塩分は禁止されていますのでチキン自体には最初の味は付けません。でも、この時に圧力鍋に残る茹で汁の一部を使って水で薄め、煮詰めていって
最後に少量の塩、胡椒を入れます。最近のスーパーには粉末のケチャップソーズもありますので塩代りにまぶしてもいいです(塩分が強いので注意)。この味付けした煮汁にしばらく漬込んでおいたものにメリケン粉をつけてあげます。この衣に微塵切りのニンニクを混ぜていてもいいですね。
そして、母は牛肉が大好き。でも、今の我家で牛肉を食べる事は滅多にありませんでした。元来、長い間の野球生活を過ごしていた私自身が蛋白質の摂取はチキンか魚派、豆腐派な事もありました。豚肉よりも高いという理由もあります。
でも、最近の母は食物への嗜好が変わりつつあります。あれほど好きな刺身、味噌汁を残すようになりました。納豆だって大好きなはずなのに・・・、と思う日が増えています。鯛は刺身、煮付け、塩焼き・・、好きみたいです。
そこで、先日は思い切って柔らかそうな牛肉を思い切って買いましたよ。牛肉って火を通しすぎると特に堅くなりますから注意しないといけません。
「すき焼風味にするよ」、と言えば、「あんたに料理ができるのね」、と自宅への車の中での私を小馬鹿にした母の言葉をグッと堪えて作ってみました。
買って帰ったばかりの牛肉を私がいつも飲むBIG-MANという4Lで¥1677くらいの安物焼酎に漬込んでから、先ずはタレを作ろうとフライパンに多めの焼酎を入れて火に掛けながら砂糖、醤油を入れ弱火で煮詰めていきます(牛肉には酒、醤油、白砂糖が絶対)。
お皿に牛肉を盛った時にプラス多少のタレが余るくらいになった時に前もって焼酎に漬込んでいた牛肉を焼酎ごと放り込みます。
タレが元の量に戻り肉に軽く火が通ったら直ぐに盛りつけて食卓に出します。特に牛肉は時間が経つとドンドン堅くなりますから注意が必要です。そして、例によって大根とキュウリの合わせおろしを添えて
「この緑色の大根おろしも綺麗で美味しいね」。この日の母は大喜びですき焼風味の牛肉を食べてくれました。
2008年11月27日
・同居記録:63
☆2008.9.1。久しぶりに新作の[蜃気楼]を作る。
♪:蜃気楼
母の失語症、難聴をテーマにしています。私は周囲の方から、「95歳ですからね。それでよしとしないと・・」、という慰めを頂きますが、母自身にとっては辛い毎日だと思います。アップしますのでお聴きになった皆様からの感想を寄せて頂ければ幸いです。書き込みでもいいし、ホットメール (n_takahashi2000@hotmail.com) の方でも構いません。宜しくお願いしておきます。
☆プロって何だろう。
時に、私の書込みにもありますが(日本に於ける)職業芸能家って何でしょう。絵画や彫刻の世界に生きておられる方々に対して無礼にならないよう、音楽に限定してだけ少しだけ私の意見を書いてみたいと思います。クラシックの世界大会、例えばある世界的な権威と歴史を持つバイオリニストやピアニストの世界大会を例にします。毎年1位(不在もあります)が誕生し、3年で3人、5年で5人と誕生します。2位の成績だった人を含めば3年で6人、5年で10人も次々と優秀な人達が誕生します。長い歴史を誇る世界大会でこれ程の数多くの優秀な人達が選出されていながら、その後にそれを職業として十分な生計を営んでいる人はそんなにはいません。
では、プロという定義を[それで食べていけてる人]という条件で検索したとします。意外に世界大会では2位だった人がプロとして有名であって引っ張りだこだったりしますね。何故、そうなのかと調べてみると面白い事が見えてくるのです。演奏者としての技術を競う大会では1位になったAが2位だったBより勝っていたからこそ、そうした結果が出て当然だったのですが、BにはAが驚くような発想力があって、普段から音楽の別な表現で楽しみ方をしていたんです。
音楽というより楽器と一緒に遊ぶ、と言った方がいいかも知れません。あくまでも例えばですが、Bには[楽器の早弾き]という特技があったとします。その他にも弓を左手に持ってさえバイオリンを弾く事ができる人だったとします。また、音楽大学の教授や講師をしたり、人に教える立場に立てばBの方がAよりも能力があったりします。これだって誰もが驚く立派な技術なんです。邪道だと言い切る人は居ないはずです。
[トータルしての音楽をしている。兎も角、食べていけてる事]という前提で語れば、そうなってしまいますね。音楽家としての様々な力量の違いでしょうか。
マジシャンが技より話術やアクションに長けている人が人気があるのと似たようなものがあるのではないでしょうか。この素人から見た感じた人気というのは大切でしょうね。プロとして自分の活動を維持していく為にはいろんな方の世話になる訳ですから、そうした方々の生活も維持できる力が必要になってきます。決して、自分が上手ければそれでいいという訳にはいけません。今年は1位だった人でも来年だと2位かも知れないのです。
アレンジだってそうです。編曲家は他人の作った死にかけたような作品を見事に生き返らせてくれたりします。これは凄い能力であって、私はこの編曲家という人を尊敬します。音楽っていろんな分野があるんですよね。例え、楽器が下手でも構わないから、編曲が上手な人には魅力が多いにあります。
最近ではパソコンで曲を作る人が増えました。例え、楽器が弾けなくてもパソコンの中で素晴らしい作品を誕生させる事も立派な音楽のスタイルかも知れません。
私の得意技、例によって話がそれますが、プロ野球選手のダルビッシュ投手がいます。彼は右利きで右投げの選手ですが、身体の筋肉がアンバランスに育たないようにと幼い頃から左投げのキャッチボールも練習に取り入れていたお陰で、何と左投げででも塁間送球を正確にできるそうなんです。これは凄い事なんです。まるで左投げから右投投手にチャレンジした星飛雄馬です。私も野球をやり、同じ練習をやっていたから分るのですが、普通に右投げ選手が左で投げても8~15mがせいぜいでボールもヒョロヒョロした放物線を描くだけです。努力する人には勝てないという事でしょう。
☆ 2008.9.1。泉さんという方が私のCDを・・。
過日、家の留守電に入ってはいたんですが、電話番号が分らない為にそのままになり、とても気にはなっていました。それが昨夜に再び電話があったんです。
「7月5日の高橋さんの山鹿コンサートに私の勤める病院の看護師長が参加し、コンサート会場でCD:1とCD:2を買って来ていたので職場で聴き回しています。このCD:1とCD:2の27曲以外にも作品があるみたいだが、それをどのようにしたら聴く事ができるだろうか?、というお話でした。これには私の方にも責任があるんです。最近のコンサートでは新しい作品を中心に唄うものだから、コンサート終了後にCD:1とCD:2を買い求めた方にとっては、「あれ?、[母の童歌]が入っていない、[施設にて]もない、[籠の鳥]も[老い、そして俺達]もないじゃないか」、となるようです。とても申し訳ない事態を作ってしまっています。
概述したように、今後のある時期からか1枚のCDには9曲程度にしてインターネットでのシングル(1曲単位)、アルバム(9曲単位)でのダウンロード配信や販売を委託する計画です。つまり、1枚のCDに9曲を入れ、CD:1~CD:4とするようにとの提案がされています。
勿論、電話を掛けてきて頂いた泉さんには最新の[蜃気楼]を含む10曲入りを差し上げたいと思います。
♪:蜃気楼
母の失語症、難聴をテーマにしています。私は周囲の方から、「95歳ですからね。それでよしとしないと・・」、という慰めを頂きますが、母自身にとっては辛い毎日だと思います。アップしますのでお聴きになった皆様からの感想を寄せて頂ければ幸いです。書き込みでもいいし、ホットメール (n_takahashi2000@hotmail.com) の方でも構いません。宜しくお願いしておきます。
☆プロって何だろう。
時に、私の書込みにもありますが(日本に於ける)職業芸能家って何でしょう。絵画や彫刻の世界に生きておられる方々に対して無礼にならないよう、音楽に限定してだけ少しだけ私の意見を書いてみたいと思います。クラシックの世界大会、例えばある世界的な権威と歴史を持つバイオリニストやピアニストの世界大会を例にします。毎年1位(不在もあります)が誕生し、3年で3人、5年で5人と誕生します。2位の成績だった人を含めば3年で6人、5年で10人も次々と優秀な人達が誕生します。長い歴史を誇る世界大会でこれ程の数多くの優秀な人達が選出されていながら、その後にそれを職業として十分な生計を営んでいる人はそんなにはいません。
では、プロという定義を[それで食べていけてる人]という条件で検索したとします。意外に世界大会では2位だった人がプロとして有名であって引っ張りだこだったりしますね。何故、そうなのかと調べてみると面白い事が見えてくるのです。演奏者としての技術を競う大会では1位になったAが2位だったBより勝っていたからこそ、そうした結果が出て当然だったのですが、BにはAが驚くような発想力があって、普段から音楽の別な表現で楽しみ方をしていたんです。
音楽というより楽器と一緒に遊ぶ、と言った方がいいかも知れません。あくまでも例えばですが、Bには[楽器の早弾き]という特技があったとします。その他にも弓を左手に持ってさえバイオリンを弾く事ができる人だったとします。また、音楽大学の教授や講師をしたり、人に教える立場に立てばBの方がAよりも能力があったりします。これだって誰もが驚く立派な技術なんです。邪道だと言い切る人は居ないはずです。
[トータルしての音楽をしている。兎も角、食べていけてる事]という前提で語れば、そうなってしまいますね。音楽家としての様々な力量の違いでしょうか。
マジシャンが技より話術やアクションに長けている人が人気があるのと似たようなものがあるのではないでしょうか。この素人から見た感じた人気というのは大切でしょうね。プロとして自分の活動を維持していく為にはいろんな方の世話になる訳ですから、そうした方々の生活も維持できる力が必要になってきます。決して、自分が上手ければそれでいいという訳にはいけません。今年は1位だった人でも来年だと2位かも知れないのです。
アレンジだってそうです。編曲家は他人の作った死にかけたような作品を見事に生き返らせてくれたりします。これは凄い能力であって、私はこの編曲家という人を尊敬します。音楽っていろんな分野があるんですよね。例え、楽器が下手でも構わないから、編曲が上手な人には魅力が多いにあります。
最近ではパソコンで曲を作る人が増えました。例え、楽器が弾けなくてもパソコンの中で素晴らしい作品を誕生させる事も立派な音楽のスタイルかも知れません。
私の得意技、例によって話がそれますが、プロ野球選手のダルビッシュ投手がいます。彼は右利きで右投げの選手ですが、身体の筋肉がアンバランスに育たないようにと幼い頃から左投げのキャッチボールも練習に取り入れていたお陰で、何と左投げででも塁間送球を正確にできるそうなんです。これは凄い事なんです。まるで左投げから右投投手にチャレンジした星飛雄馬です。私も野球をやり、同じ練習をやっていたから分るのですが、普通に右投げ選手が左で投げても8~15mがせいぜいでボールもヒョロヒョロした放物線を描くだけです。努力する人には勝てないという事でしょう。
☆ 2008.9.1。泉さんという方が私のCDを・・。
過日、家の留守電に入ってはいたんですが、電話番号が分らない為にそのままになり、とても気にはなっていました。それが昨夜に再び電話があったんです。
「7月5日の高橋さんの山鹿コンサートに私の勤める病院の看護師長が参加し、コンサート会場でCD:1とCD:2を買って来ていたので職場で聴き回しています。このCD:1とCD:2の27曲以外にも作品があるみたいだが、それをどのようにしたら聴く事ができるだろうか?、というお話でした。これには私の方にも責任があるんです。最近のコンサートでは新しい作品を中心に唄うものだから、コンサート終了後にCD:1とCD:2を買い求めた方にとっては、「あれ?、[母の童歌]が入っていない、[施設にて]もない、[籠の鳥]も[老い、そして俺達]もないじゃないか」、となるようです。とても申し訳ない事態を作ってしまっています。
概述したように、今後のある時期からか1枚のCDには9曲程度にしてインターネットでのシングル(1曲単位)、アルバム(9曲単位)でのダウンロード配信や販売を委託する計画です。つまり、1枚のCDに9曲を入れ、CD:1~CD:4とするようにとの提案がされています。
勿論、電話を掛けてきて頂いた泉さんには最新の[蜃気楼]を含む10曲入りを差し上げたいと思います。
2008年11月26日
・同居記録:62
☆ 2008.8.29.①足が痛い。金足を踏んだみたい。お袋の2ヶ月に一度の検診日。②新鹿、酒井から電話、<懐かしい我が草野球チームJAGUARS。
①:眠っていながら隣の部屋で母が目を覚ます気配を感じるのは結構難しいものです。母がセンサーを避け、鳴らないようにしてトイレをしようとするワザを覚えた為、ベッドからズリ落ちたり、万が一でも立って歩こうとして転倒してはいけないからと、今はベッド回りに柵を設けています。だから、センサーに依存せずに気配だけで私は起きなければいけません。
ずっとミスなくやってきたのですが昨夜はちょっと間違ってしまいました。
昨年の心筋梗塞もあって、私は目を覚ましたら直ぐには行動せずに2呼吸くらい間合いを作った後に立ちあがるようにしてきたのですが、どうした事か昨夜は布団から突然に立ち上がってしまったんです。そして、私が寝ている和室と居間との段差10Cmの敷居の差で思いっきりストーンと金足を踏んでしまいました。この痛みが午後から激しくなってきています。が、今は17:00、嫁と母は2ヶ月に一度の検診日の為に病院からはまだ帰っていません。私は今日も頑張って夕食を作っています。
②:テルサホールの本日は11:00から国保連合会のイベントが入っていて午前の各機器テストなどのリハーサルも終り、午後からの本番に備えて一休み。
ボツにするかしないかは分りませんが、[蜃気楼]という作品の主旋律を譜面に起し下段にサブ旋律を加える作業をしている最中、携帯電話のベルが鳴りました。
着信表示を見ると[新鹿]と出ています。私の会社が持っていた野球チームのJAGUARSの副主将だった奴です。36名程いた部員の中では若い方に入る選手でしたがチームメイトからの信望が厚い、とても真面目な若者でした。既に2人の男の子の父親になったとか・・。
「監督、もう一度野球しましょう・・」、と彼が言います。「もう、自分達も精神的に成長しました。あの頃の監督の思いがよく分るようになりました。とても懐かしく思っています」、とそんな事を言っていました。
誰でもそうでしょうが、15名なりの会員が集まらなければチームとしては成立しません。あの頃と今では私の状況が大きく変わってしまい、年間に24万近くの緯費を掛けた形でのチーム運営は不可能。私はこんなチームを2つも持っていたんです。もう一つは[野武士]というチームです。この2つのチームを総称してJAGUARS-CLUBと言っていました。具体的には社会人チームと高校・大学生チームです。これらの草野球については多くを語っても殆ど意味を持たないと思っていますが、この新鹿という選手は私の記憶に残る人です。
もう、私が先頭を走って草をやるという事は100%ないでしょう。但し、この新鹿や酒井がもう一度やりたいという気持ちは分かりますから最大限の協力はしたいと思っています。
「最初から意気込まず、ノッククラブ、キャッチボールクラブ程度から再開すればいいんじゃないか」、とアドバイスをしました。
☆ 処で、新作の[蜃気楼]について
この作品は最近はすっかり[失語症]気味になった母を唄っています。それに母は耳が遠く、特に左耳が重度の難聴だという事も左目が不自由だという事も母の失語症に拍車をかけているようです。
詩の一部に、「もっとこっちへおいでよ/お前の事が分からない/そして声を聞かせてよ/だって、お前を感じたいから。もっとこっちへおいでよ/私に話し掛けてよ/そして手を握ってよ/だって、お前がよく見えないよ」、というフレーズがあります。失語症には軽度から重度まで、人によって様々な症状があるようです。何に対しても言えますが、その人の性格も進行には無関係ではないようです。
聴こえないから意味が分からない。分からないから返事ができない。まっ、どうでもいいかと思ってしまう。聴こえ辛い事を訴えるのを躊躇ってしまう。
問題は、相手の話にニコニコと頷いて相槌を打っている内はいいのですが、「処であなたはどう思いますか」、という質問を相手がした時にニコニコと頷いて相槌を打っていると、相手は気分を害します。「ツヤさんはニコニコと聞き上手です」、とデイ施設の方々は口を揃えて言われますが、実はそうではないんです。聴こえていないケースが多いんです。でも、これは母と一緒に住んでいる私には母の表情だけで聴こえているのかいないのかが分かります。
☆ 2008.8.30.ようやく晴れそうな明日の日曜なのに、足が結構痛い。骨折かも。
8月9日、「明日10日の日曜はグラウンドで待ってるよ」、とシニア野球クラブの監督さんに言われ、その気になったもののムラムラとして来て数年振りに行ったバッテイングセンターで右手首を痛めて不参加。翌週、翌々週と雨続き。明日の31日こそと思っていた矢先、昨日の金足踏みで今日も左足の踵が相変わらずに痛い。ずっとビッコをひいています。
腫れもなく浮腫みもないから内出血はなく、もしかして骨折(骨の割れ)かなと思います。
数ヶ月の間に増えた7kgの体重の影響もあるのだと思います。それに、この痛めた場所はお袋の骨折した場所と全く同じなんです。
家族全員が骨折なんて、私もそうなら何となく不思議な力を感じてしまいます。お袋の辛さを嫁と私が味合わされているような・・。まあ、どっちにしろ日常を変える訳にはいかないし、このままでやっていこうと思います。
尚、嫁の左膝の皿の部分の骨折は5週間目。ようやくリハビリに入っています。
①:眠っていながら隣の部屋で母が目を覚ます気配を感じるのは結構難しいものです。母がセンサーを避け、鳴らないようにしてトイレをしようとするワザを覚えた為、ベッドからズリ落ちたり、万が一でも立って歩こうとして転倒してはいけないからと、今はベッド回りに柵を設けています。だから、センサーに依存せずに気配だけで私は起きなければいけません。
ずっとミスなくやってきたのですが昨夜はちょっと間違ってしまいました。
昨年の心筋梗塞もあって、私は目を覚ましたら直ぐには行動せずに2呼吸くらい間合いを作った後に立ちあがるようにしてきたのですが、どうした事か昨夜は布団から突然に立ち上がってしまったんです。そして、私が寝ている和室と居間との段差10Cmの敷居の差で思いっきりストーンと金足を踏んでしまいました。この痛みが午後から激しくなってきています。が、今は17:00、嫁と母は2ヶ月に一度の検診日の為に病院からはまだ帰っていません。私は今日も頑張って夕食を作っています。
②:テルサホールの本日は11:00から国保連合会のイベントが入っていて午前の各機器テストなどのリハーサルも終り、午後からの本番に備えて一休み。
ボツにするかしないかは分りませんが、[蜃気楼]という作品の主旋律を譜面に起し下段にサブ旋律を加える作業をしている最中、携帯電話のベルが鳴りました。
着信表示を見ると[新鹿]と出ています。私の会社が持っていた野球チームのJAGUARSの副主将だった奴です。36名程いた部員の中では若い方に入る選手でしたがチームメイトからの信望が厚い、とても真面目な若者でした。既に2人の男の子の父親になったとか・・。
「監督、もう一度野球しましょう・・」、と彼が言います。「もう、自分達も精神的に成長しました。あの頃の監督の思いがよく分るようになりました。とても懐かしく思っています」、とそんな事を言っていました。
誰でもそうでしょうが、15名なりの会員が集まらなければチームとしては成立しません。あの頃と今では私の状況が大きく変わってしまい、年間に24万近くの緯費を掛けた形でのチーム運営は不可能。私はこんなチームを2つも持っていたんです。もう一つは[野武士]というチームです。この2つのチームを総称してJAGUARS-CLUBと言っていました。具体的には社会人チームと高校・大学生チームです。これらの草野球については多くを語っても殆ど意味を持たないと思っていますが、この新鹿という選手は私の記憶に残る人です。
もう、私が先頭を走って草をやるという事は100%ないでしょう。但し、この新鹿や酒井がもう一度やりたいという気持ちは分かりますから最大限の協力はしたいと思っています。
「最初から意気込まず、ノッククラブ、キャッチボールクラブ程度から再開すればいいんじゃないか」、とアドバイスをしました。
☆ 処で、新作の[蜃気楼]について
この作品は最近はすっかり[失語症]気味になった母を唄っています。それに母は耳が遠く、特に左耳が重度の難聴だという事も左目が不自由だという事も母の失語症に拍車をかけているようです。
詩の一部に、「もっとこっちへおいでよ/お前の事が分からない/そして声を聞かせてよ/だって、お前を感じたいから。もっとこっちへおいでよ/私に話し掛けてよ/そして手を握ってよ/だって、お前がよく見えないよ」、というフレーズがあります。失語症には軽度から重度まで、人によって様々な症状があるようです。何に対しても言えますが、その人の性格も進行には無関係ではないようです。
聴こえないから意味が分からない。分からないから返事ができない。まっ、どうでもいいかと思ってしまう。聴こえ辛い事を訴えるのを躊躇ってしまう。
問題は、相手の話にニコニコと頷いて相槌を打っている内はいいのですが、「処であなたはどう思いますか」、という質問を相手がした時にニコニコと頷いて相槌を打っていると、相手は気分を害します。「ツヤさんはニコニコと聞き上手です」、とデイ施設の方々は口を揃えて言われますが、実はそうではないんです。聴こえていないケースが多いんです。でも、これは母と一緒に住んでいる私には母の表情だけで聴こえているのかいないのかが分かります。
☆ 2008.8.30.ようやく晴れそうな明日の日曜なのに、足が結構痛い。骨折かも。
8月9日、「明日10日の日曜はグラウンドで待ってるよ」、とシニア野球クラブの監督さんに言われ、その気になったもののムラムラとして来て数年振りに行ったバッテイングセンターで右手首を痛めて不参加。翌週、翌々週と雨続き。明日の31日こそと思っていた矢先、昨日の金足踏みで今日も左足の踵が相変わらずに痛い。ずっとビッコをひいています。
腫れもなく浮腫みもないから内出血はなく、もしかして骨折(骨の割れ)かなと思います。
数ヶ月の間に増えた7kgの体重の影響もあるのだと思います。それに、この痛めた場所はお袋の骨折した場所と全く同じなんです。
家族全員が骨折なんて、私もそうなら何となく不思議な力を感じてしまいます。お袋の辛さを嫁と私が味合わされているような・・。まあ、どっちにしろ日常を変える訳にはいかないし、このままでやっていこうと思います。
尚、嫁の左膝の皿の部分の骨折は5週間目。ようやくリハビリに入っています。
2008年11月25日
・同居記録:61
☆ 2008.8.31.「身体に痛い所はありませんか?」、と不思議な方が・・。
今日の記事は嫁に書いて貰った方がいいのかも・・。足の踵の痛みは昨夜は一段とひどくなりました。アイスノンで冷やしてはいましたが、腫れているわけではないから気休め程度にしかなりません。過去、私は同時にではありませんが左右の膝の皿を割った(嫁と全く同じ)経験があります。だから骨折痛というものは最初から覚悟はしていましたが、このズーンという痛みには参ります。膝や踵(母のケース)の骨折の場合はギブスで固定などできません。ひたすらに痛み止めを飲んで安静にして耐えるだけなんです。
当然ながら、日曜野球への参加は暫くはできそうにないと諦めました。
さて、今日はこんな事があったんです。嫁が作ったオジヤご飯をお昼に食べた後、台所のテーブルに座って新作の[蜃気楼]のアレンジをしたり、やはり、失語症や認知による難聴をテーマにした[あんたに聞いてもいいかい](仮題)という曲の仕上げをしている最中の事です。
玄関先で、「高橋さん」、という声に呼ばれた嫁が用件を聞こうと玄関に向かいました。「身体に痛い所はありませんか?」、という声が台所に居る私の耳にも聞こえてきたんです。私は、「痛み止めの漢方の膏薬でも売りに来られたのだろう」、と思ったのですが、そうではありませんでした。熊本では流通情報会館という場所で定期的な講習や実践もやっていますが、「私達は生物そのものが持っているという生体パワーを研究している集団です」、と言われるんです。「ハンドパワーですね」、というと、「貴方はそうしたものの存在を信じますか?」、と言われるから、「信じるも信じないも、人と人の繋がりなんてハンドパワーそのものだと思っています」、と答えると、その方は非常に喜ばれました。ただ、私の足の踵は恐らく骨折しているから、骨折自体がハンドパワーでは治るはずがないんです。
しかし、生体が活性化すれが治り自体は早くなるはずです。「せめて、貴方のその骨折痛だけでも弱くしてあげたいと思うのです」、と申されるんです。勿論、お金なんて不用です。これで有料と言われたら犯罪ですからね。
その方は私の左足を両手で挟むように手を翳した途端、「あー、これは折れている。相当に痛いでしょう。貴方は我慢強い人です」、と言いながら5分程度ですが治療?をされました。
「どうです?痛み・・」、と言われるのですが、全く変化はありません。「もう一度、やらせて下さい」、という事でしたので再度、お願いしました。「今度はどうです」。「全然、効果がありません」、と私。
その方はガックリと項垂れ気味でしたが、「私は自然界にはそうような力が存在する事はもしかしたら貴方以上に信じる人間だからガッカリしないで下さい」、と励ましました。そして、やがて放置してから9年にもなる腰椎分離骨折の部分へハンドパワーを下さい、とお願いして腰の方に手を翳して頂きました。
その方はご自身が腰を痛めて医者にも見離されて長い間寝たきり生活だったのが、このハンドパワーで元気になり、そのお礼にといろんな家庭を自発的に廻っては奉仕をしているのだと言われました。
私にはこの方のような勇気はありません。恐らく、多くの方々はこのような方々を変人扱いするか、流行宗教団体の者みたいにる理解する事でしょう。目には見えない、形にして見せる事も温度で示す事もできないモノ、コトを人に伝えていくという事は非常に困難な事だと思うのです。
日本人には不思議な常識というものがあります。それは、困り事や悩み事をお寺さんに相談に行く事は自然な事のように見え、名も知らぬお坊さんが托鉢で突然に家に来られた場合には、「乞食坊主」、みたいに罵るような妙な風潮です。
私は、「貴方の気持ちに応えられないのは私の身体の方なんです。失礼な言い方ですが、私の身体には20数回のメスが入っていて、貴方の修行では敵わない、治せない程のものが巣食っているんだと思います」、と慰めてしまいました。
「何か身体に変化があったら必ず連絡しますので、貴方の連絡先を教えて下さい」、と私が言えば、その方は安らかな表情に戻られて私の家を後にされました。
「何か・・あの人、貴方に呼ばれたように来たよね」、と嫁。私と暮らす嫁の目から見るとこのような出会いは何度もあるんです。私の苦境を救うように現れる人がいるのは事実です。今は21:00前。実は、私の骨折痛ですがかなり減ってきているんです。何だか、この件では続編の記事が書けそうな気がします。
今日の記事は嫁に書いて貰った方がいいのかも・・。足の踵の痛みは昨夜は一段とひどくなりました。アイスノンで冷やしてはいましたが、腫れているわけではないから気休め程度にしかなりません。過去、私は同時にではありませんが左右の膝の皿を割った(嫁と全く同じ)経験があります。だから骨折痛というものは最初から覚悟はしていましたが、このズーンという痛みには参ります。膝や踵(母のケース)の骨折の場合はギブスで固定などできません。ひたすらに痛み止めを飲んで安静にして耐えるだけなんです。
当然ながら、日曜野球への参加は暫くはできそうにないと諦めました。
さて、今日はこんな事があったんです。嫁が作ったオジヤご飯をお昼に食べた後、台所のテーブルに座って新作の[蜃気楼]のアレンジをしたり、やはり、失語症や認知による難聴をテーマにした[あんたに聞いてもいいかい](仮題)という曲の仕上げをしている最中の事です。
玄関先で、「高橋さん」、という声に呼ばれた嫁が用件を聞こうと玄関に向かいました。「身体に痛い所はありませんか?」、という声が台所に居る私の耳にも聞こえてきたんです。私は、「痛み止めの漢方の膏薬でも売りに来られたのだろう」、と思ったのですが、そうではありませんでした。熊本では流通情報会館という場所で定期的な講習や実践もやっていますが、「私達は生物そのものが持っているという生体パワーを研究している集団です」、と言われるんです。「ハンドパワーですね」、というと、「貴方はそうしたものの存在を信じますか?」、と言われるから、「信じるも信じないも、人と人の繋がりなんてハンドパワーそのものだと思っています」、と答えると、その方は非常に喜ばれました。ただ、私の足の踵は恐らく骨折しているから、骨折自体がハンドパワーでは治るはずがないんです。
しかし、生体が活性化すれが治り自体は早くなるはずです。「せめて、貴方のその骨折痛だけでも弱くしてあげたいと思うのです」、と申されるんです。勿論、お金なんて不用です。これで有料と言われたら犯罪ですからね。
その方は私の左足を両手で挟むように手を翳した途端、「あー、これは折れている。相当に痛いでしょう。貴方は我慢強い人です」、と言いながら5分程度ですが治療?をされました。
「どうです?痛み・・」、と言われるのですが、全く変化はありません。「もう一度、やらせて下さい」、という事でしたので再度、お願いしました。「今度はどうです」。「全然、効果がありません」、と私。
その方はガックリと項垂れ気味でしたが、「私は自然界にはそうような力が存在する事はもしかしたら貴方以上に信じる人間だからガッカリしないで下さい」、と励ましました。そして、やがて放置してから9年にもなる腰椎分離骨折の部分へハンドパワーを下さい、とお願いして腰の方に手を翳して頂きました。
その方はご自身が腰を痛めて医者にも見離されて長い間寝たきり生活だったのが、このハンドパワーで元気になり、そのお礼にといろんな家庭を自発的に廻っては奉仕をしているのだと言われました。
私にはこの方のような勇気はありません。恐らく、多くの方々はこのような方々を変人扱いするか、流行宗教団体の者みたいにる理解する事でしょう。目には見えない、形にして見せる事も温度で示す事もできないモノ、コトを人に伝えていくという事は非常に困難な事だと思うのです。
日本人には不思議な常識というものがあります。それは、困り事や悩み事をお寺さんに相談に行く事は自然な事のように見え、名も知らぬお坊さんが托鉢で突然に家に来られた場合には、「乞食坊主」、みたいに罵るような妙な風潮です。
私は、「貴方の気持ちに応えられないのは私の身体の方なんです。失礼な言い方ですが、私の身体には20数回のメスが入っていて、貴方の修行では敵わない、治せない程のものが巣食っているんだと思います」、と慰めてしまいました。
「何か身体に変化があったら必ず連絡しますので、貴方の連絡先を教えて下さい」、と私が言えば、その方は安らかな表情に戻られて私の家を後にされました。
「何か・・あの人、貴方に呼ばれたように来たよね」、と嫁。私と暮らす嫁の目から見るとこのような出会いは何度もあるんです。私の苦境を救うように現れる人がいるのは事実です。今は21:00前。実は、私の骨折痛ですがかなり減ってきているんです。何だか、この件では続編の記事が書けそうな気がします。
2008年11月24日
・同居記録:60
☆2008.8.28.施設Kにて。小林さんの老いは空しい?
母の通うデイ施設Kは正式には毎日10:00が開苑。私は自分の都合ですが契約上は9:00に事務所入りする必要がある為に8:30には母を車に乗せて家を出てこの施設に向かい8:50には到着します。
でも、既に施設に来ているお年寄りの姿をチラチラと見掛けます。近所に住まわれている小林さんというお祖母ちゃんがいつも1番乗りですから母は2番目に施設に行く日が多くなっています。近所zにお住まいの方や私のように自分の車でお年寄りを連れてくる家族もあるからです。私と母は早過ぎる分だけ綺麗な空気を吸えますし、1番出しのお茶が頂けます。
しかし、施設に勤める人の朝はもっと早いんです。10:00の一日の始まりに間に合うようにと施設に通うお年寄りの住む地区別に送迎の担当者を決め、早朝から手分けして車で自宅まで迎えに行く事から始まります。雨の日も風の強い日もです。
中には、「今日はデイには行かないよ」、と言うお年寄りを説得する日も多いと聞きます。
母が送迎をお願いしている頃もそうでしたが、雨の降る日、風の強い日、便通が悪い日などは施設に行くのを嫌がる日が多いもんでした。嫁は焦るし、ついつい説教気味になると、「そんなに私と居るのが嫌かい?」、と話題がずれ始めたら修正するのに大変でした。
あの2005年12月2日の母の骨折事故もそのような天候状態、そのような母の状態、そのような嫁との会話が切っ掛けになった結果、誰も居なくなった家の中で起きた転倒事故による骨折でした。思えば、この日を最後に母は自力では歩き回る事ができなくなったのです。この骨折が切っ掛けになって母のデイの送迎は私自身がしようと決めたのでした。
この施設Kにいつも1番乗りをされる小林さんの昨日の朝はとても表情が悪かったんです。
「ちょっと、あなた」、と呼ばれるものだから私は小林さんのそばに、「はい?何ですか。元気がないようだけど・・」、と隣の席に座りました。
「私は今日でここに来るのを辞めるんです」。
「どうしてですか?」。
「どうしても何も・・、嫁が私に死んでしまえと言うんです」。
「ご主人は、息子さんは何を言っていました?」。
「あれは息子じゃなく、嫁が実子。嫁が私の娘ですタイ」。
こんな会話の後、自分は今夜にでも死ぬからこの施設には来れなくなる。ついては手持ちの服で綺麗なもの、まだ1回も着ていない服を貴方のお母さんに差し上げようと思ってね、と言われるんです。
「母は喜ぶでしょうが、良かったら明日の朝に持ってきて母に直接渡して下さい」、と言うと、「そうね、1着1着を着てみて貰って似合うものだけを差し上げる事にしましょう。似合わない服は他の人にあげてもいいしね。そうしましょう、そうしましょう」、と急に表情が明るくなるのですが、肝心の娘さんとのギクシャク話が途切れたままなんです。
☆幸せはそこら中に転がっているのに。
この小林さん。28日の今朝の表情も冴えません。寂しそうに床を凝視していたり、施設の天井の一点を見つめていたり非常に険しい顔つきをしています。今日も娘さんとの言い争いがあった事が分ります。私が椅子のそばに行って手を握ると、この小林さんが首を項垂れて涙を零し始めます。ポタポタと涙が床に落ち、肩が上下に揺れる程に泣始められました。他のお年寄りの血圧や脈拍測定をしていた介護士さん達が駆け寄ろうとしますが、私は指を口に当てて彼らを制しました。3分間ほどして小林さんが顔を上げられ、「ありがとう」と言われましたね。
「言い争いが出来るのも家族が居るからこそ。涙も見せる相手がいてこそ。誰も居ない場所で流す涙ほど空しいものはありませんよ」、「娘さんは貴方を母親だと思っているからこそ。貴方も相手を娘だと思う事ができるからこそ言い争いになるんです。憎み合うのも相手を認めているからこそなんです。認めているからこそ互いに説き伏せようとしたくなるんです」、と私は言いました。この小林さんは88歳。左の耳が全く聞こえませんので右の耳のそばで話し掛けましたが、果たしてどこまで理解されたやら・・・。
幸せって、そこら中に転がっているはずなのに、人間ってなかなか気づきません。砂糖は甘いものですが、塩を僅かに加えると更に甘くなるんですけどね。
☆・・・ついでに。
甘露飴っていうのがあります。あの丸いあめ玉です。袋の裏の原料表示をよく見て下さい。醤油が使われているんです。あれを煮込み料理の隠し味に使うプロの料理家が結構居るんですよ。先に使うと味に深みが出ますし、後に使うと照り出し効果があります。
小魚や蕗や昆布の佃煮の隠し味には最高。素麺つゆなどには買ったばかりの瓶の中身を一旦は鍋に移し、砕いた甘露飴を入れてジワッと熱を通し、あめ玉が溶けたのを確認して冷ましたものを瓶に戻してストックしておきます。
よく、「あんたが山に篭っていた頃に食っていた植物や動物の探し方、捕え方、料理の仕方などを紹介してくれ」というメールを頂きます。
こんな飽食の時代に生きて甘えの構造の社会の中で火も起こせない、飯も炊けない男が増える中、食える植物、小魚の捕り方、虫の食い方、蛇料理、、罠の掛け方、ねぐらの作り方・・、山の中でどうしてテンプラ油が作れるのだというご質問にも答えるような・・、いろいろと書く事になるような雰囲気です。
母の通うデイ施設Kは正式には毎日10:00が開苑。私は自分の都合ですが契約上は9:00に事務所入りする必要がある為に8:30には母を車に乗せて家を出てこの施設に向かい8:50には到着します。
でも、既に施設に来ているお年寄りの姿をチラチラと見掛けます。近所に住まわれている小林さんというお祖母ちゃんがいつも1番乗りですから母は2番目に施設に行く日が多くなっています。近所zにお住まいの方や私のように自分の車でお年寄りを連れてくる家族もあるからです。私と母は早過ぎる分だけ綺麗な空気を吸えますし、1番出しのお茶が頂けます。
しかし、施設に勤める人の朝はもっと早いんです。10:00の一日の始まりに間に合うようにと施設に通うお年寄りの住む地区別に送迎の担当者を決め、早朝から手分けして車で自宅まで迎えに行く事から始まります。雨の日も風の強い日もです。
中には、「今日はデイには行かないよ」、と言うお年寄りを説得する日も多いと聞きます。
母が送迎をお願いしている頃もそうでしたが、雨の降る日、風の強い日、便通が悪い日などは施設に行くのを嫌がる日が多いもんでした。嫁は焦るし、ついつい説教気味になると、「そんなに私と居るのが嫌かい?」、と話題がずれ始めたら修正するのに大変でした。
あの2005年12月2日の母の骨折事故もそのような天候状態、そのような母の状態、そのような嫁との会話が切っ掛けになった結果、誰も居なくなった家の中で起きた転倒事故による骨折でした。思えば、この日を最後に母は自力では歩き回る事ができなくなったのです。この骨折が切っ掛けになって母のデイの送迎は私自身がしようと決めたのでした。
この施設Kにいつも1番乗りをされる小林さんの昨日の朝はとても表情が悪かったんです。
「ちょっと、あなた」、と呼ばれるものだから私は小林さんのそばに、「はい?何ですか。元気がないようだけど・・」、と隣の席に座りました。
「私は今日でここに来るのを辞めるんです」。
「どうしてですか?」。
「どうしても何も・・、嫁が私に死んでしまえと言うんです」。
「ご主人は、息子さんは何を言っていました?」。
「あれは息子じゃなく、嫁が実子。嫁が私の娘ですタイ」。
こんな会話の後、自分は今夜にでも死ぬからこの施設には来れなくなる。ついては手持ちの服で綺麗なもの、まだ1回も着ていない服を貴方のお母さんに差し上げようと思ってね、と言われるんです。
「母は喜ぶでしょうが、良かったら明日の朝に持ってきて母に直接渡して下さい」、と言うと、「そうね、1着1着を着てみて貰って似合うものだけを差し上げる事にしましょう。似合わない服は他の人にあげてもいいしね。そうしましょう、そうしましょう」、と急に表情が明るくなるのですが、肝心の娘さんとのギクシャク話が途切れたままなんです。
☆幸せはそこら中に転がっているのに。
この小林さん。28日の今朝の表情も冴えません。寂しそうに床を凝視していたり、施設の天井の一点を見つめていたり非常に険しい顔つきをしています。今日も娘さんとの言い争いがあった事が分ります。私が椅子のそばに行って手を握ると、この小林さんが首を項垂れて涙を零し始めます。ポタポタと涙が床に落ち、肩が上下に揺れる程に泣始められました。他のお年寄りの血圧や脈拍測定をしていた介護士さん達が駆け寄ろうとしますが、私は指を口に当てて彼らを制しました。3分間ほどして小林さんが顔を上げられ、「ありがとう」と言われましたね。
「言い争いが出来るのも家族が居るからこそ。涙も見せる相手がいてこそ。誰も居ない場所で流す涙ほど空しいものはありませんよ」、「娘さんは貴方を母親だと思っているからこそ。貴方も相手を娘だと思う事ができるからこそ言い争いになるんです。憎み合うのも相手を認めているからこそなんです。認めているからこそ互いに説き伏せようとしたくなるんです」、と私は言いました。この小林さんは88歳。左の耳が全く聞こえませんので右の耳のそばで話し掛けましたが、果たしてどこまで理解されたやら・・・。
幸せって、そこら中に転がっているはずなのに、人間ってなかなか気づきません。砂糖は甘いものですが、塩を僅かに加えると更に甘くなるんですけどね。
☆・・・ついでに。
甘露飴っていうのがあります。あの丸いあめ玉です。袋の裏の原料表示をよく見て下さい。醤油が使われているんです。あれを煮込み料理の隠し味に使うプロの料理家が結構居るんですよ。先に使うと味に深みが出ますし、後に使うと照り出し効果があります。
小魚や蕗や昆布の佃煮の隠し味には最高。素麺つゆなどには買ったばかりの瓶の中身を一旦は鍋に移し、砕いた甘露飴を入れてジワッと熱を通し、あめ玉が溶けたのを確認して冷ましたものを瓶に戻してストックしておきます。
よく、「あんたが山に篭っていた頃に食っていた植物や動物の探し方、捕え方、料理の仕方などを紹介してくれ」というメールを頂きます。
こんな飽食の時代に生きて甘えの構造の社会の中で火も起こせない、飯も炊けない男が増える中、食える植物、小魚の捕り方、虫の食い方、蛇料理、、罠の掛け方、ねぐらの作り方・・、山の中でどうしてテンプラ油が作れるのだというご質問にも答えるような・・、いろいろと書く事になるような雰囲気です。
2008年11月23日
・同居記録:59
☆お得意の・・ついでに記事。
私の小さい頃には野菜と言えば季節によって作られる時期が決まっていました。今のように一年中ビニールハウスで温度管理をして育てるんではなく、地植えでしたから太陽光を一杯に浴び、虫にも適当に食われて生き延びた野菜だけを食べていました。夏も間近の学校帰りの沿道で腹が減ったな思えばそばの畑にはトマトが選り取り見取りの食い放題でした。強い光を浴びたトマトって埃の匂いの味がするんです。少々の泥がついていたのかも知れません。夏が終った畑にも枯れた枝に黄色っぽいトマトが残っているんです。これも食っていました。塩なんてなけりゃないで構いません。
昔のお百姓さんって全てを収穫せずに必ず一部を残すんです。柿の実だって全てを千切らずに必ず数個の実を残していました。そんな田舎の風景を覚えていませんか?。あれは自然への感謝なんですね。それをカラスや雀や私のような悪戯坊主が食べていたんですね。
きっと、別府で育った大塚博堂だって悪戯小僧の頃にはそんな日常を過ごしていたのではないでしょうか。
☆2008.8.27。スザンヌの告白に驚きと失望。・・沙衣ちゃんなりに苦労したんだな。
朝の連続ドラマの[ひとみ]をBSで見る事以外、普段は殆ど見る事のないTVですが、昨夜は嫁の友人からの、「TKUにスザンヌが出てるよ」、という連絡でお袋の入浴介助を遅らせてまで見てしまいました。
スザンヌが出ていた番組は私がもっとも苦手な霊能者が出るもので、何とスザンヌはその番組で自分は妊娠を経験していて、水子がいる事を告白したのでした。
スザンヌというより私達夫婦にとっては熊本市の中心街の銀座通りにある山本タバコ屋さんの孫娘の沙衣ちゃん(山本沙衣)なんです。
沙衣ちゃんは幼い頃からお人形さんのように可愛い子でした。私の行きつけの喫茶店が山本ビルの中にあったせいか、沙衣ちゃんはその喫茶店の椅子にチョンと座りいろんなお客さんに可愛がられていました。
その沙衣ちゃんの小学校5年の終わりの頃からでしたか、お祖母ちゃんの頼みで私の家にピアノと声楽を学びに来始めたんです。最初は中学入学の頃まですから1年半ほどです。嫁が教師役を引受けたんですが、私の耳には音楽とは無縁の女の子だなという印象が強くありました。とても真面目で周囲に気を遣うのですが、気を遣うばかりに集中心が今ひとつという印象を受けていました。
中学を卒業する頃にもお母さんの車に送られて通って来ました。どこかのプロダクションの唄の審査を受ける為、自分が唄っているテープを送らなければいけないという事でレンッスンを受けに通って来たんです。
嫁はカーペンターズのトップオブザワールド、クロスツーユーなどをレッスンしていました・・。
恐らく、オーデションにはことごとく落ちていたのではないかと思います。やがて、彼女は福岡の高校の芸能部へ学費免除で入学した事を暫くしてから知らされました。あの氷川きよしが卒業した高校らしいという事でしたから、沙衣ちゃんはどこかのプロダウションにスカウトされたのだと思います。その後、彼女は東京のタレント事務所に移った事をみたいでしたね。
ポツンと時折、お祖母ちゃんからの電話で沙衣ちゃんの近況を知るくらいでした。何とかいう雑誌のモデルになった・・、僅かな給料だからアルバイトを始めた・・、そんな話ですから、「女性が志しを維持して都会で暮らしていくって大変なんだな」、と思っていました。
そんなある日。私の記憶ではデビューの1年程前でしたか、プロダクションの事務員をしている、という最後の連絡があった時に、「あ、礼儀作法を教えられているんだな。もしかするとデビューが近いぞ」、と私は感じたんです。
その通りでしたね。でも、例の島田伸助の番組で見るスザンヌは私の知る山本沙衣ちゃんではありません。確かに画面から伝わるように素直で純粋な女の子です。あのキャラクターには変りはありません。しかし、違うデビューのさせ方がなかったのかと思います。
インターネットには山本沙衣時代の乳首丸出しで男性と絡んでいる写真や動画が流れています。その姿はお婆ちゃんから伝え聞く話とは全く違う沙衣ちゃんの姿です。
かと言って、恐らく演技のレッスンも踊りのレッスンもさせて貰ってはいないんじゃないかと思うし、結局、今後の彼女は自分の何を売りにして芸能界で生きていくんだろう、と現在でも思っています。今のままでは3年も持たない気がします。
決して、使い捨てのタレントで終って欲しくはありませんが、何も自分の堕胎の経験までを売りにする必要はないと思うんです。
お祖母ちゃんの話しでは、「付き人も二人いて結構な暮らしが・・」、みたいな事でしたが、昨夜のTVで見た彼女は周囲の企画に使い回され、潰されかけて異臭の漂い始めたタレントのように見えました。「沙衣ちゃん、スザンヌを捨てろ」、と思っています。
☆我家に居たヤスは山本家から譲り受け。
もう、随分と前の話しです、というか我家にはヤスという犬がいました。
亡くなってから17年は経つのかな。沙衣ちゃんのお母さんが妊娠され、動物と一緒には暮らさない方がいい、という事で山本タバコ店のカウンターの上に足元にと沙衣ちゃんのお母さんの元を離れてお祖母ちゃんに飼われていたこのポメ犬ですが、私よりは血筋がいいのでしょうか、やがてこの血統書付きのヤス君は私の手の平に乗って我家に移り住む事になりました。このヤス君は私達夫婦にはいろんなものを運んで来てくれました。優しくて、怒りっぽくて、礼儀正しくて、我慢強くて・・、いろんな面を持った犬でした。
ペットは自分の生涯を飼い主である人間に見せる事で、[命を伝える]、と言われます。我々人間に感謝する姿勢、弱り行く姿、そして死の瞬間さえも見せてくれるのです。
笑いたい人には笑って貰って結構ですが、今の私が何に一番感謝をしているかと言うと、このヤスという犬と暮らした事なんです。
この頃のこの犬との生活の経験がなければ、私は母親との現在の暮らしはできなかったのではないかと思います。
ご機嫌をとる事、怒ったらご飯も食べません。誰が主人で自分は何番目、犬の習性は人間にとても近いものがあります。
このヤスが幼い頃には優しさだけを求めました。だから、嫁のそばにいる時間がとても長かったと思います。嫁と散歩に出掛ける時などは飛び跳ねるようにして歩いていヤス君ですが、私が散歩に誘うと嫌々、恐る恐る、私に引きずられるようについてくるんです。まるで人間と同じでしょう?。
犬の成長って速いですよね。やがて、嫁に対して、「おい、今度の新しいフードはうまくないぞ。全くお前はその日の気分で適当な銘柄を買ってきてどうしようもないな」、みたいに注文をつけたりして嫁を説教するようになり、昼間などは嫁よりも私のそばにいる時間が多くなっていきます。しかし、よく観察していると夕方から朝に掛けては嫁のそばに居るんです。その姿は嫁を守ってやっているかのような姿でした。
やがて、時に夫婦で言い合いをする時などは仲裁役さえするようになるんです。「お前らうるさいよ。何が原因かは知らないが喧嘩はよせ」、みたいなキリッとした正義感溢れる目つきで私達夫婦を叱るようにさえなりました。だから、このヤスは、「ゴメン」、「ありがと」、という言葉が大好きでしたね。意味が分っているんです。
ヤスは若くしてガンにもなりました。睾丸ガンです。一つを手術で切り取りましたがガン組織の一部が体内に残る手術でしたので常に再発の危険がありました。この手術の際の面白い話しを一つします。
手術は終ったのですが麻酔から覚めきっていないのかボーッとして横になったままだった
このヤス君が切り取ったばかりの自分の睾丸を見つけるや、何と食いつこうとしたんです。「馬鹿たれ」、という私の言葉の勢いに驚いたのか、食いつく事はなかったのですが、「美味そうなモノがある」、と思ったんですね。因みに、某有名なプロレス団体の○野○博という人は牛の睾丸を焼いて食う以外に刺身でも食べるんだそうですが・・。私の知合いの柔道家も食べていますから本当の話のようです。
☆このヤスの最期の時。
このヤス君の最期は壮絶、感動的でした。糖尿病を煩い、急激に重度になっていきました。獣医さんからヒトインシュリンを小さなボトルで頂き、朝晩に私が注射していましたが、腎臓が駄目になってしまい排尿困難に苦しみました。
「もう、死なせた方が苦しまないで済みますが・・」、という獣医さんの言葉を無視して私は、「絶対にそんなものは飲みません」、という獣医さんの言葉に逆らうように漢方の利尿薬を飲ませたんです。
ぐったりしたヤス君の耳元に、「いいか、凄く苦いけどこれを飲めばおしっこが出るんだ。おしっこをしないと死んでしまうぞ」、と言いながらドロリとした苦みの強い薬を差出したんです。私が舐めてもとても苦いんです。ヤス君はジッと私を見上げていましたね。
そして、ヤス君は私の話が理解できたのか見事に飲むんです。飲んだら見事におしっこが出るんです。勿論、既に立てず歩けずの状態ですから床にひいた雑巾の上にジョージョーと出します。
出す度に身体が小さくなっていきました。最高で9kgもあった体重が死の直前には2kg程度になっていたようです。
こうして獣医さんが見放した日から1ヶ月を過ぎた頃の朝、花壇作りをする嫁のそばに付き添いながらヤスは何度も意識を失いかけます。無理もありません。この1ヶ月は水や薄く作った練り片栗程度しか口にはしていません。漢方の利尿剤でおしっこを出して生き延びているのですから。こんな身体になってまでも嫁の事を気にしてくれるんです。
「尚さん、ヤスがおかしい」、と嫁が玄関から居間にいる私に叫びます。嫁は意識がなくなったヤスの顔を横からポンと叩きます。「ヤス!」、と叫んで叩くと頭をブルブルッと振ってキッと目を開こうとします。
「目を開けろ。目を瞑ってしまったら終わりだ」、と自分でも分っているようでした。私は嫁からヤスを受取り、右手の手の平に乗せました。9kgもあった体重の犬が今は私の右手の平に乗るんです。
何度も何度も私の手の平の上でも意識を失いました。意識を失ない、ガクッとなる度に私は彼の一番敏感な鼻を私の爪で擦りました。耳さえも千切れるくらいに爪と爪で挟みました。痛みを与える事で意識が戻るんです。でも、それも9回が限度でした。
彼は私の右手の上で静かな眠りに就いたんです。平成9年3月22日の事でした。
本当に壮絶な死との闘いでしたね。今の私の辛抱強い生き方はこの時のヤスという犬が見せた最後の闘いを記憶しているからです。
今でも何処にいても何をしていてもフッとヤスの気配を感じる瞬間があります。就寝中などは犬の匂いで目を覚ます事があって、「あ・、ヤスが来ている」、と感じます。私はその度に、「ヤス、ありがとうね」、と呟くのです。
私の小さい頃には野菜と言えば季節によって作られる時期が決まっていました。今のように一年中ビニールハウスで温度管理をして育てるんではなく、地植えでしたから太陽光を一杯に浴び、虫にも適当に食われて生き延びた野菜だけを食べていました。夏も間近の学校帰りの沿道で腹が減ったな思えばそばの畑にはトマトが選り取り見取りの食い放題でした。強い光を浴びたトマトって埃の匂いの味がするんです。少々の泥がついていたのかも知れません。夏が終った畑にも枯れた枝に黄色っぽいトマトが残っているんです。これも食っていました。塩なんてなけりゃないで構いません。
昔のお百姓さんって全てを収穫せずに必ず一部を残すんです。柿の実だって全てを千切らずに必ず数個の実を残していました。そんな田舎の風景を覚えていませんか?。あれは自然への感謝なんですね。それをカラスや雀や私のような悪戯坊主が食べていたんですね。
きっと、別府で育った大塚博堂だって悪戯小僧の頃にはそんな日常を過ごしていたのではないでしょうか。
☆2008.8.27。スザンヌの告白に驚きと失望。・・沙衣ちゃんなりに苦労したんだな。
朝の連続ドラマの[ひとみ]をBSで見る事以外、普段は殆ど見る事のないTVですが、昨夜は嫁の友人からの、「TKUにスザンヌが出てるよ」、という連絡でお袋の入浴介助を遅らせてまで見てしまいました。
スザンヌが出ていた番組は私がもっとも苦手な霊能者が出るもので、何とスザンヌはその番組で自分は妊娠を経験していて、水子がいる事を告白したのでした。
スザンヌというより私達夫婦にとっては熊本市の中心街の銀座通りにある山本タバコ屋さんの孫娘の沙衣ちゃん(山本沙衣)なんです。
沙衣ちゃんは幼い頃からお人形さんのように可愛い子でした。私の行きつけの喫茶店が山本ビルの中にあったせいか、沙衣ちゃんはその喫茶店の椅子にチョンと座りいろんなお客さんに可愛がられていました。
その沙衣ちゃんの小学校5年の終わりの頃からでしたか、お祖母ちゃんの頼みで私の家にピアノと声楽を学びに来始めたんです。最初は中学入学の頃まですから1年半ほどです。嫁が教師役を引受けたんですが、私の耳には音楽とは無縁の女の子だなという印象が強くありました。とても真面目で周囲に気を遣うのですが、気を遣うばかりに集中心が今ひとつという印象を受けていました。
中学を卒業する頃にもお母さんの車に送られて通って来ました。どこかのプロダクションの唄の審査を受ける為、自分が唄っているテープを送らなければいけないという事でレンッスンを受けに通って来たんです。
嫁はカーペンターズのトップオブザワールド、クロスツーユーなどをレッスンしていました・・。
恐らく、オーデションにはことごとく落ちていたのではないかと思います。やがて、彼女は福岡の高校の芸能部へ学費免除で入学した事を暫くしてから知らされました。あの氷川きよしが卒業した高校らしいという事でしたから、沙衣ちゃんはどこかのプロダウションにスカウトされたのだと思います。その後、彼女は東京のタレント事務所に移った事をみたいでしたね。
ポツンと時折、お祖母ちゃんからの電話で沙衣ちゃんの近況を知るくらいでした。何とかいう雑誌のモデルになった・・、僅かな給料だからアルバイトを始めた・・、そんな話ですから、「女性が志しを維持して都会で暮らしていくって大変なんだな」、と思っていました。
そんなある日。私の記憶ではデビューの1年程前でしたか、プロダクションの事務員をしている、という最後の連絡があった時に、「あ、礼儀作法を教えられているんだな。もしかするとデビューが近いぞ」、と私は感じたんです。
その通りでしたね。でも、例の島田伸助の番組で見るスザンヌは私の知る山本沙衣ちゃんではありません。確かに画面から伝わるように素直で純粋な女の子です。あのキャラクターには変りはありません。しかし、違うデビューのさせ方がなかったのかと思います。
インターネットには山本沙衣時代の乳首丸出しで男性と絡んでいる写真や動画が流れています。その姿はお婆ちゃんから伝え聞く話とは全く違う沙衣ちゃんの姿です。
かと言って、恐らく演技のレッスンも踊りのレッスンもさせて貰ってはいないんじゃないかと思うし、結局、今後の彼女は自分の何を売りにして芸能界で生きていくんだろう、と現在でも思っています。今のままでは3年も持たない気がします。
決して、使い捨てのタレントで終って欲しくはありませんが、何も自分の堕胎の経験までを売りにする必要はないと思うんです。
お祖母ちゃんの話しでは、「付き人も二人いて結構な暮らしが・・」、みたいな事でしたが、昨夜のTVで見た彼女は周囲の企画に使い回され、潰されかけて異臭の漂い始めたタレントのように見えました。「沙衣ちゃん、スザンヌを捨てろ」、と思っています。
☆我家に居たヤスは山本家から譲り受け。
もう、随分と前の話しです、というか我家にはヤスという犬がいました。
亡くなってから17年は経つのかな。沙衣ちゃんのお母さんが妊娠され、動物と一緒には暮らさない方がいい、という事で山本タバコ店のカウンターの上に足元にと沙衣ちゃんのお母さんの元を離れてお祖母ちゃんに飼われていたこのポメ犬ですが、私よりは血筋がいいのでしょうか、やがてこの血統書付きのヤス君は私の手の平に乗って我家に移り住む事になりました。このヤス君は私達夫婦にはいろんなものを運んで来てくれました。優しくて、怒りっぽくて、礼儀正しくて、我慢強くて・・、いろんな面を持った犬でした。
ペットは自分の生涯を飼い主である人間に見せる事で、[命を伝える]、と言われます。我々人間に感謝する姿勢、弱り行く姿、そして死の瞬間さえも見せてくれるのです。
笑いたい人には笑って貰って結構ですが、今の私が何に一番感謝をしているかと言うと、このヤスという犬と暮らした事なんです。
この頃のこの犬との生活の経験がなければ、私は母親との現在の暮らしはできなかったのではないかと思います。
ご機嫌をとる事、怒ったらご飯も食べません。誰が主人で自分は何番目、犬の習性は人間にとても近いものがあります。
このヤスが幼い頃には優しさだけを求めました。だから、嫁のそばにいる時間がとても長かったと思います。嫁と散歩に出掛ける時などは飛び跳ねるようにして歩いていヤス君ですが、私が散歩に誘うと嫌々、恐る恐る、私に引きずられるようについてくるんです。まるで人間と同じでしょう?。
犬の成長って速いですよね。やがて、嫁に対して、「おい、今度の新しいフードはうまくないぞ。全くお前はその日の気分で適当な銘柄を買ってきてどうしようもないな」、みたいに注文をつけたりして嫁を説教するようになり、昼間などは嫁よりも私のそばにいる時間が多くなっていきます。しかし、よく観察していると夕方から朝に掛けては嫁のそばに居るんです。その姿は嫁を守ってやっているかのような姿でした。
やがて、時に夫婦で言い合いをする時などは仲裁役さえするようになるんです。「お前らうるさいよ。何が原因かは知らないが喧嘩はよせ」、みたいなキリッとした正義感溢れる目つきで私達夫婦を叱るようにさえなりました。だから、このヤスは、「ゴメン」、「ありがと」、という言葉が大好きでしたね。意味が分っているんです。
ヤスは若くしてガンにもなりました。睾丸ガンです。一つを手術で切り取りましたがガン組織の一部が体内に残る手術でしたので常に再発の危険がありました。この手術の際の面白い話しを一つします。
手術は終ったのですが麻酔から覚めきっていないのかボーッとして横になったままだった
このヤス君が切り取ったばかりの自分の睾丸を見つけるや、何と食いつこうとしたんです。「馬鹿たれ」、という私の言葉の勢いに驚いたのか、食いつく事はなかったのですが、「美味そうなモノがある」、と思ったんですね。因みに、某有名なプロレス団体の○野○博という人は牛の睾丸を焼いて食う以外に刺身でも食べるんだそうですが・・。私の知合いの柔道家も食べていますから本当の話のようです。
☆このヤスの最期の時。
このヤス君の最期は壮絶、感動的でした。糖尿病を煩い、急激に重度になっていきました。獣医さんからヒトインシュリンを小さなボトルで頂き、朝晩に私が注射していましたが、腎臓が駄目になってしまい排尿困難に苦しみました。
「もう、死なせた方が苦しまないで済みますが・・」、という獣医さんの言葉を無視して私は、「絶対にそんなものは飲みません」、という獣医さんの言葉に逆らうように漢方の利尿薬を飲ませたんです。
ぐったりしたヤス君の耳元に、「いいか、凄く苦いけどこれを飲めばおしっこが出るんだ。おしっこをしないと死んでしまうぞ」、と言いながらドロリとした苦みの強い薬を差出したんです。私が舐めてもとても苦いんです。ヤス君はジッと私を見上げていましたね。
そして、ヤス君は私の話が理解できたのか見事に飲むんです。飲んだら見事におしっこが出るんです。勿論、既に立てず歩けずの状態ですから床にひいた雑巾の上にジョージョーと出します。
出す度に身体が小さくなっていきました。最高で9kgもあった体重が死の直前には2kg程度になっていたようです。
こうして獣医さんが見放した日から1ヶ月を過ぎた頃の朝、花壇作りをする嫁のそばに付き添いながらヤスは何度も意識を失いかけます。無理もありません。この1ヶ月は水や薄く作った練り片栗程度しか口にはしていません。漢方の利尿剤でおしっこを出して生き延びているのですから。こんな身体になってまでも嫁の事を気にしてくれるんです。
「尚さん、ヤスがおかしい」、と嫁が玄関から居間にいる私に叫びます。嫁は意識がなくなったヤスの顔を横からポンと叩きます。「ヤス!」、と叫んで叩くと頭をブルブルッと振ってキッと目を開こうとします。
「目を開けろ。目を瞑ってしまったら終わりだ」、と自分でも分っているようでした。私は嫁からヤスを受取り、右手の手の平に乗せました。9kgもあった体重の犬が今は私の右手の平に乗るんです。
何度も何度も私の手の平の上でも意識を失いました。意識を失ない、ガクッとなる度に私は彼の一番敏感な鼻を私の爪で擦りました。耳さえも千切れるくらいに爪と爪で挟みました。痛みを与える事で意識が戻るんです。でも、それも9回が限度でした。
彼は私の右手の上で静かな眠りに就いたんです。平成9年3月22日の事でした。
本当に壮絶な死との闘いでしたね。今の私の辛抱強い生き方はこの時のヤスという犬が見せた最後の闘いを記憶しているからです。
今でも何処にいても何をしていてもフッとヤスの気配を感じる瞬間があります。就寝中などは犬の匂いで目を覚ます事があって、「あ・、ヤスが来ている」、と感じます。私はその度に、「ヤス、ありがとうね」、と呟くのです。
2008年11月22日
・同居記録:58
☆大阪、豊後大野市の皆さんありがとう。
大阪の地域ブログでも【母に生命を返す時:ブログ版】を発表させて頂いていますが、2008年3月の更新以降は放ったらかし状態で追加記事等の一切の更新もしていなかったのですが、今朝、久し振りに覗いて見ると何と音楽の部門に【母に生命を返す時:介護・同居記録版】が大阪市全体で25位にランクされていました。あれだけ人口が多い都会では私の作品なんて振向きもされないだろうと思いながら、嫁に、「もっと、貴方自身が積極的になりなさい。都会になればなる程に日陰に苦しむ介護家庭が多いはず」、と言われて作ったブログでした。怠けずにこれからは定期的にチェックさせて頂きます。音楽だけを聴いてみようと思われる方は、【母に生命を返す時:♪楽曲版】もありますので宜しくお願いしておきます。
豊後大野市では2008年3月にコンサートを企画して頂いた事もあり、その後の私達の暮らしの様子をご報告する意味でもこの「報告ブログ」を続けたいと思っています。豊後大野市では一時期は1位を独占していましたが、8月17日現在では【母に生命を返す時:介護・同居記録版】が5位、【母に生命を返す時:♪楽曲版】が9位のようでした。ここ最近は新しい作品をアップロードできていません。でも、母のお世話の合間を縫うように作ってはいます。[6年目の蝉しぐれ]、[蜃気楼]、[つもり]、[あんたに聞いてもいいかい]・・、等々、仮題ですが5曲ほどを同時進行で作っています。この中の3曲くらいはボツになるのでしょうが頑張ってみたいと思います。豊後大野市にはとても感謝しています。
☆2008.8.26。 昨年の今日は別府の[博堂村]に感激の出演。
この処ブログへの書込み更新をしていません。私のブログ作成方法は仕事の合間を縫うようにして職場のPCを使って書いてはFDに保存するやり方です。
職場のPCはインターネットには繋がっていなくて、職場でFDに保存した文章を自宅のPCを使ってブログへコピーするという方法を採っています。
実は、日々のブログを保存していたそのFDが突然に読込みをしなくなったんです。そのFDにはブログへの最後のコピーから後の新規作成した文章が相当に保存されているのですが、どうしても読み込めずに出力できません。WORD1997で作ったり2001で作ったりしているからでしょうか?、それともFD自体に損傷を与えたのでしょうか?。
そんな事があってから何となく書く気が消沈しかけています。
今日、朝から浦田さんが私の事務所に来られました。先月、7月21日のコンサート模様のDVDを持って来られたんです。つい今しがたまで浦田さんと話しが盛上がっていました。あの益城文化ホールでの私のステージ模様が果たしてどのように撮影されているかが楽しみです。神奈川大時代の浦田さんの後輩が撮影してくれたという写真、益城町社会福祉協議会の方々が撮影してくれたという写真も頂きました。近距離から見事に撮影されたものでした。
コンサートで私が写された写真って本当に少ないんです。あっても会場後方からの画像ばかりで誰が唄っているのやら・・、そんな写真ばかりだったからとても嬉しいです。
さて、昨年の8月26日。この日はあの偉大な大塚博堂氏の記念館である、[博堂村]に始めてお邪魔した日なんです。この2ヶ月程遡る6月頃でしたか、「大分の大塚と申します・・」、という涙混じりの美しい声の女性からお電話を頂いたのを覚えています。
「貴方のCDを聴かせて頂きました。ここ(別府は)・・貴方には遠いですか?」、とそんな意味を滲ませた言葉でした。この方は故大塚博堂の甥にあたるご主人の奥様だったんです。甥と言っても博堂とは7歳しか違わず、小さい頃には博堂に連れられて一緒に川遊びをした記憶があるとおっしゃっていましたね。
私は、「行きますよ。オーデションを受けるつもりでやらせて頂きます」、と言ったのを記憶しています。そして、8月26日には嫁さんと二人で別府に向かったのでした。16:00頃に博堂村に到着し、30m程のそばにある食事なしで1泊¥3700くらいのホテルに荷物を置き、博堂村でのリハーサルを1時間ほど行ないました。いろいろと書きたい事はあるんですが、既に過去のブログに書いた事と重複する事が多いのでこれはこの辺で・・。
丁度、この頃のHPへの書込み欄に、「貴方の唄い方は故大塚博堂に似通った雰囲気がある・・」、というのが増えていました。私自身では全く意識した事もない事でした。第一、私はラブソングは苦手なんですね。ここ最近は作る曲調が長淵剛に似ている・・、みたいな事を言う人もいますが、私はそんな事はどうでもいいんですね。普段の私はTVも音楽も見ない、聴かない人だから分らないんです。
☆豆腐が大好き、納豆が苦手。茶葉の使い方など。
私は大の豆腐好き人間です。味噌汁の具に、冷や奴、豆腐ステーキにどんな形ででも食べます。おやつにプリン?・・、飛んでもない。プリン代わりの豆腐がいいですね。豆腐にはフラボノイドが沢山含まれていて気持ちが優しくなる作用があります。また、女性ホルモンの生産には欠かせませんから特に女性が食べないといけません。それにポリフェノールの塊なんです。日本茶にも含まれていますね。よくポリフェノールが・、というサプリメントの宣伝がありますが、日本人にはポリフェノールは足りていると言われる由縁はこの日常的に摂取しているはずの豆腐とお茶にあるんです。お茶も我家ではミキサーで粉末にしたものを飲用します。夏などは氷を入れて飲むアイステイは最高です。この粉末茶葉はテンプラの衣に混ぜたり、酢味噌の隠し味にしたり、サラダオイルなどには封を切った段階で茶葉を容器の中に沈めて入れておいたりしても和風の風味が出ます。他には、野菜のかき揚げに使ったり、ピラフに少々入れても美味しいですね。
そこで納豆・・、どうも苦手です。豆腐が好きで納豆苦手って多いのと違いますかね?。
あの臭みが何とも・・。
処が、食事の時間以外にだったら幾らでも食べるんです。身体にいい事は分っていますしね。納豆キナーゼには血液をサラサラにする働きがあります。死んだ古い組織は血液に乗って移動するのですが、これが血管の狭くなった場所で詰ったりして悪さをします。サラサラになるとそれがおきにくくなるそうです。
トマトもそうです。食事として出されると殆ど箸を伸ばしませんが、トマトだけなら塩降って丸ごと何個でも食べます。もう、言い出すと止まりません。キュウリだって茄子だってピーマン、ニンジンだって塩降って生が食うのが一番。焼酎ロックを片手にこの野郎です。
大阪の地域ブログでも【母に生命を返す時:ブログ版】を発表させて頂いていますが、2008年3月の更新以降は放ったらかし状態で追加記事等の一切の更新もしていなかったのですが、今朝、久し振りに覗いて見ると何と音楽の部門に【母に生命を返す時:介護・同居記録版】が大阪市全体で25位にランクされていました。あれだけ人口が多い都会では私の作品なんて振向きもされないだろうと思いながら、嫁に、「もっと、貴方自身が積極的になりなさい。都会になればなる程に日陰に苦しむ介護家庭が多いはず」、と言われて作ったブログでした。怠けずにこれからは定期的にチェックさせて頂きます。音楽だけを聴いてみようと思われる方は、【母に生命を返す時:♪楽曲版】もありますので宜しくお願いしておきます。
豊後大野市では2008年3月にコンサートを企画して頂いた事もあり、その後の私達の暮らしの様子をご報告する意味でもこの「報告ブログ」を続けたいと思っています。豊後大野市では一時期は1位を独占していましたが、8月17日現在では【母に生命を返す時:介護・同居記録版】が5位、【母に生命を返す時:♪楽曲版】が9位のようでした。ここ最近は新しい作品をアップロードできていません。でも、母のお世話の合間を縫うように作ってはいます。[6年目の蝉しぐれ]、[蜃気楼]、[つもり]、[あんたに聞いてもいいかい]・・、等々、仮題ですが5曲ほどを同時進行で作っています。この中の3曲くらいはボツになるのでしょうが頑張ってみたいと思います。豊後大野市にはとても感謝しています。
☆2008.8.26。 昨年の今日は別府の[博堂村]に感激の出演。
この処ブログへの書込み更新をしていません。私のブログ作成方法は仕事の合間を縫うようにして職場のPCを使って書いてはFDに保存するやり方です。
職場のPCはインターネットには繋がっていなくて、職場でFDに保存した文章を自宅のPCを使ってブログへコピーするという方法を採っています。
実は、日々のブログを保存していたそのFDが突然に読込みをしなくなったんです。そのFDにはブログへの最後のコピーから後の新規作成した文章が相当に保存されているのですが、どうしても読み込めずに出力できません。WORD1997で作ったり2001で作ったりしているからでしょうか?、それともFD自体に損傷を与えたのでしょうか?。
そんな事があってから何となく書く気が消沈しかけています。
今日、朝から浦田さんが私の事務所に来られました。先月、7月21日のコンサート模様のDVDを持って来られたんです。つい今しがたまで浦田さんと話しが盛上がっていました。あの益城文化ホールでの私のステージ模様が果たしてどのように撮影されているかが楽しみです。神奈川大時代の浦田さんの後輩が撮影してくれたという写真、益城町社会福祉協議会の方々が撮影してくれたという写真も頂きました。近距離から見事に撮影されたものでした。
コンサートで私が写された写真って本当に少ないんです。あっても会場後方からの画像ばかりで誰が唄っているのやら・・、そんな写真ばかりだったからとても嬉しいです。
さて、昨年の8月26日。この日はあの偉大な大塚博堂氏の記念館である、[博堂村]に始めてお邪魔した日なんです。この2ヶ月程遡る6月頃でしたか、「大分の大塚と申します・・」、という涙混じりの美しい声の女性からお電話を頂いたのを覚えています。
「貴方のCDを聴かせて頂きました。ここ(別府は)・・貴方には遠いですか?」、とそんな意味を滲ませた言葉でした。この方は故大塚博堂の甥にあたるご主人の奥様だったんです。甥と言っても博堂とは7歳しか違わず、小さい頃には博堂に連れられて一緒に川遊びをした記憶があるとおっしゃっていましたね。
私は、「行きますよ。オーデションを受けるつもりでやらせて頂きます」、と言ったのを記憶しています。そして、8月26日には嫁さんと二人で別府に向かったのでした。16:00頃に博堂村に到着し、30m程のそばにある食事なしで1泊¥3700くらいのホテルに荷物を置き、博堂村でのリハーサルを1時間ほど行ないました。いろいろと書きたい事はあるんですが、既に過去のブログに書いた事と重複する事が多いのでこれはこの辺で・・。
丁度、この頃のHPへの書込み欄に、「貴方の唄い方は故大塚博堂に似通った雰囲気がある・・」、というのが増えていました。私自身では全く意識した事もない事でした。第一、私はラブソングは苦手なんですね。ここ最近は作る曲調が長淵剛に似ている・・、みたいな事を言う人もいますが、私はそんな事はどうでもいいんですね。普段の私はTVも音楽も見ない、聴かない人だから分らないんです。
☆豆腐が大好き、納豆が苦手。茶葉の使い方など。
私は大の豆腐好き人間です。味噌汁の具に、冷や奴、豆腐ステーキにどんな形ででも食べます。おやつにプリン?・・、飛んでもない。プリン代わりの豆腐がいいですね。豆腐にはフラボノイドが沢山含まれていて気持ちが優しくなる作用があります。また、女性ホルモンの生産には欠かせませんから特に女性が食べないといけません。それにポリフェノールの塊なんです。日本茶にも含まれていますね。よくポリフェノールが・、というサプリメントの宣伝がありますが、日本人にはポリフェノールは足りていると言われる由縁はこの日常的に摂取しているはずの豆腐とお茶にあるんです。お茶も我家ではミキサーで粉末にしたものを飲用します。夏などは氷を入れて飲むアイステイは最高です。この粉末茶葉はテンプラの衣に混ぜたり、酢味噌の隠し味にしたり、サラダオイルなどには封を切った段階で茶葉を容器の中に沈めて入れておいたりしても和風の風味が出ます。他には、野菜のかき揚げに使ったり、ピラフに少々入れても美味しいですね。
そこで納豆・・、どうも苦手です。豆腐が好きで納豆苦手って多いのと違いますかね?。
あの臭みが何とも・・。
処が、食事の時間以外にだったら幾らでも食べるんです。身体にいい事は分っていますしね。納豆キナーゼには血液をサラサラにする働きがあります。死んだ古い組織は血液に乗って移動するのですが、これが血管の狭くなった場所で詰ったりして悪さをします。サラサラになるとそれがおきにくくなるそうです。
トマトもそうです。食事として出されると殆ど箸を伸ばしませんが、トマトだけなら塩降って丸ごと何個でも食べます。もう、言い出すと止まりません。キュウリだって茄子だってピーマン、ニンジンだって塩降って生が食うのが一番。焼酎ロックを片手にこの野郎です。
2008年11月21日
・同居記録:57
☆2008.8,15。朝から私の大好きなお赤飯。午後、施設で母が転倒したらしい。・・させられたのが事実みたい。
いつからか嫁は毎月の1日、15日にはお赤飯を炊いてくれるようになりました。私はお赤飯があればオカズは要りませんという人なんです。小豆は腹掃除、医者倒し・・等と言われる程にお腹にいいんです。また、赤飯は古くから庶民が神への感謝の印として家族にとって特別な日には差し出していたようです。我家に目出度い事がありました。神様、あなたも一緒に祝ってやって下さい、みたいな意味が込められていたのだと思います。
嫁は赤飯名人、それに鶏釜飯などが上手なんです。これだけは現役の頃のお袋より上手ですね。他に…、といってもなかなか浮かびませんが、嫁の赤飯は美味いんです。
さて、母がお世話になっているKという介護施設には厳しい意見になりますが、言わせて貰います。母が例によって施設のトイレで転倒したみたいなんです。母が今年になって介助のないトイレで転倒したのは私に申告されただけで4回目です。
「済みません・・、ツヤさんを座らせた後に別な方の世話をしている隙にツヤさんが勝手に立たれたみたいで…、とあくまでも施設側には責任はないかのような説明。いつもそんな説明しかありません。
昨年暮れ、どんな理由があって母が要介護度3から4になったのか。その意味が全くこの施設には理解され徹底されていません。この8ヶ月間で同じ老人が4度も転倒しているんです。2ヶ月に1回、同じ老人を転倒させる施設に信頼は存在しません。
私は介護士の資格試験など必要ない、実技研修だけで充分だと日頃から思っている理由がこうした事故からなんです。プロのキャリアを重ねる程に手を抜くというのは世の常識だからです。決して、行政の責任ではありません。車の片手運転、信号無視と何ら変わらないのです。プロほど自分の力や判断を優先するんです。心がないんです。
「母が自力ではトイレができない事を一体何人の介護士さんが知っているんですか」、と訊ねましたが返事もなく、「済みません、今後は徹底させます」、と言うだけです。
今日はそんな日でした(プリプリ)。
☆2008.8.16。この夏は来訪者が一杯。母の意識がしゃきっとするみたい。
昨日の朝、母は、「夕べは庄三おじちゃんが訪ねて来てさ・・」、嫁が、「あれま、それで何か言っていましたか」、「そりゃ、そうさ。何か言いに来たんだろうし・・覚えちゃおらんけど・・」、と。
母の言う庄三おじちゃんとは、元平戸市長の故青崎庄三氏の事で母のすぐ上の故みつ子姉さんのご主人の事です。「つや子さん、つや子さん」、といつも気に掛けてくれ、とても優しい義兄だったとか。この2008年の夏の母には例年にない来客の多さだったようです。このお盆の時期になると人の心が彼の地、あちらに住む亡き人の方へ向かうのでしょうね。[念が念を呼ぶという現象です]。母が高齢でもあり、8月10日の父の法事の為に猛暑の中を佐世保の自宅に連れて帰って行なうというのは酷だろうという事で、昨年からは姉と兄夫婦だけがお寺さんに出向いて行なうようにしていて、平戸の青崎家の方に法事場所の変更を知らせていなかったのでしょうか。「あれ、佐世保の家には誰もおらんな」、とこの熊本まで母に会いに来られたのかも知れません。
そこで、昨日のデイ施設での母の転倒事故の件ですが、転倒から一日開けた本日、母には特に異常は見掛けられませんが気にはなります。脳の軟化が進行すると痛みも感じなくなるからです。介護士が駆けつけた時にはトイレの床に仰向けになっていたと言いますからどこかは痛いはずなんですが、「うーん、倒れたような気はするけどいつの事かは分からない」、と母は言います。
今日、母を迎えに行った際、「昨日は済みませんでした。以後のトイレの世話は必ず付き添うように徹底しますので・・」、とリーダーらしき介護士さんが言うのですが、「当然でしょう」、と言うと一瞬ですがむっとされましたね。でも、その言葉は母が倒れる度に聞く言葉です。施設から家族への申告があった分だけで今年で4度目、2ヶ月に1回は施設で倒れ、その倒れる場所は全てがトイレ。倒れた時の担当者もA,Bの時と特定できているんです。名前は言いませんが、彼らは中敷が汚れていても滅多に換えていません。それどころか汚れた中敷を外しただけで新しい中敷さえセットしてくれていない日があります。恐らく、こうした個々の仕事振りは仲間内でも気付いてはいないんだと思います。これは家族施設まで迎えに行って初めて気付く事のできる事だと思います。
このデイに通うお年寄りの転倒事故ですが、介護士通しの仲間うちでは事故を庇いあって報告しない事も多いと聞きます。
介護を専門とする介護士さんが、「済みません」、という言葉を「こんにちは」、みたいに日常的には使うべきではないと思うのですが・・。このデイ施設では療法士さんから定期的な歩行訓練を受けている母ですが、その一方でこんなに何度も転倒させられていてはどうしようもないと思うのです。在宅介護より危険な施設であってはいけません。(ぷりぷり)
いつからか嫁は毎月の1日、15日にはお赤飯を炊いてくれるようになりました。私はお赤飯があればオカズは要りませんという人なんです。小豆は腹掃除、医者倒し・・等と言われる程にお腹にいいんです。また、赤飯は古くから庶民が神への感謝の印として家族にとって特別な日には差し出していたようです。我家に目出度い事がありました。神様、あなたも一緒に祝ってやって下さい、みたいな意味が込められていたのだと思います。
嫁は赤飯名人、それに鶏釜飯などが上手なんです。これだけは現役の頃のお袋より上手ですね。他に…、といってもなかなか浮かびませんが、嫁の赤飯は美味いんです。
さて、母がお世話になっているKという介護施設には厳しい意見になりますが、言わせて貰います。母が例によって施設のトイレで転倒したみたいなんです。母が今年になって介助のないトイレで転倒したのは私に申告されただけで4回目です。
「済みません・・、ツヤさんを座らせた後に別な方の世話をしている隙にツヤさんが勝手に立たれたみたいで…、とあくまでも施設側には責任はないかのような説明。いつもそんな説明しかありません。
昨年暮れ、どんな理由があって母が要介護度3から4になったのか。その意味が全くこの施設には理解され徹底されていません。この8ヶ月間で同じ老人が4度も転倒しているんです。2ヶ月に1回、同じ老人を転倒させる施設に信頼は存在しません。
私は介護士の資格試験など必要ない、実技研修だけで充分だと日頃から思っている理由がこうした事故からなんです。プロのキャリアを重ねる程に手を抜くというのは世の常識だからです。決して、行政の責任ではありません。車の片手運転、信号無視と何ら変わらないのです。プロほど自分の力や判断を優先するんです。心がないんです。
「母が自力ではトイレができない事を一体何人の介護士さんが知っているんですか」、と訊ねましたが返事もなく、「済みません、今後は徹底させます」、と言うだけです。
今日はそんな日でした(プリプリ)。
☆2008.8.16。この夏は来訪者が一杯。母の意識がしゃきっとするみたい。
昨日の朝、母は、「夕べは庄三おじちゃんが訪ねて来てさ・・」、嫁が、「あれま、それで何か言っていましたか」、「そりゃ、そうさ。何か言いに来たんだろうし・・覚えちゃおらんけど・・」、と。
母の言う庄三おじちゃんとは、元平戸市長の故青崎庄三氏の事で母のすぐ上の故みつ子姉さんのご主人の事です。「つや子さん、つや子さん」、といつも気に掛けてくれ、とても優しい義兄だったとか。この2008年の夏の母には例年にない来客の多さだったようです。このお盆の時期になると人の心が彼の地、あちらに住む亡き人の方へ向かうのでしょうね。[念が念を呼ぶという現象です]。母が高齢でもあり、8月10日の父の法事の為に猛暑の中を佐世保の自宅に連れて帰って行なうというのは酷だろうという事で、昨年からは姉と兄夫婦だけがお寺さんに出向いて行なうようにしていて、平戸の青崎家の方に法事場所の変更を知らせていなかったのでしょうか。「あれ、佐世保の家には誰もおらんな」、とこの熊本まで母に会いに来られたのかも知れません。
そこで、昨日のデイ施設での母の転倒事故の件ですが、転倒から一日開けた本日、母には特に異常は見掛けられませんが気にはなります。脳の軟化が進行すると痛みも感じなくなるからです。介護士が駆けつけた時にはトイレの床に仰向けになっていたと言いますからどこかは痛いはずなんですが、「うーん、倒れたような気はするけどいつの事かは分からない」、と母は言います。
今日、母を迎えに行った際、「昨日は済みませんでした。以後のトイレの世話は必ず付き添うように徹底しますので・・」、とリーダーらしき介護士さんが言うのですが、「当然でしょう」、と言うと一瞬ですがむっとされましたね。でも、その言葉は母が倒れる度に聞く言葉です。施設から家族への申告があった分だけで今年で4度目、2ヶ月に1回は施設で倒れ、その倒れる場所は全てがトイレ。倒れた時の担当者もA,Bの時と特定できているんです。名前は言いませんが、彼らは中敷が汚れていても滅多に換えていません。それどころか汚れた中敷を外しただけで新しい中敷さえセットしてくれていない日があります。恐らく、こうした個々の仕事振りは仲間内でも気付いてはいないんだと思います。これは家族施設まで迎えに行って初めて気付く事のできる事だと思います。
このデイに通うお年寄りの転倒事故ですが、介護士通しの仲間うちでは事故を庇いあって報告しない事も多いと聞きます。
介護を専門とする介護士さんが、「済みません」、という言葉を「こんにちは」、みたいに日常的には使うべきではないと思うのですが・・。このデイ施設では療法士さんから定期的な歩行訓練を受けている母ですが、その一方でこんなに何度も転倒させられていてはどうしようもないと思うのです。在宅介護より危険な施設であってはいけません。(ぷりぷり)
2008年11月20日
・同居記録:56
☆神社通い。
母と暮らすようになってからは私の中のいろんなものが変わりました。老いていく事って止めようがありません。人間にとって最後の苦しみであり、最大の悲しみかも知れません。
衰えていく力を感じながら、心静かに自分の人生を振返る最後の機会なんでしょうか。勿論、心静かになれず、悟り足らず周囲を睨みつけるだけの人が多いのは事実ですが・。
母と暮らすようになり、母自身が感じる以上に私が悲しい時期が続きました。「どうしたんだ」、「すっかり老いぼれたな・・」、と半ば母を罵っている自分もいました。誰だっていつまでも母は母であって欲しいと思いますからね。
でも、人間は自然の中ではどうしようもなく無力なんだと思います。無力だと感じるからこそ人は何かに縋ろうとします。
幼い頃の私達にとっての父や母って家族の守り神、守護神でした。その存在こそが畏怖の典型でした。その認識が崩れていくのが父母の老いに気づき、それを認めた時からです。
私はいつの間にか老いた母を車椅子に乗せ、名も知らぬ神社の鳥居の前に立つようになっていました。
「これからの母は転げ落ちるように老いを深めていく・・、俺だけの力ではどうしようもない」、と感じた時、私は目には見えないモノに縋ろう・・、神の存在を意識したのです。
人は自分の力を遙かに越えた何かを信じる事で、「自分は、人間は弱いものだ」、と再認識するものです。人間って自然の中では弱いものなんだと思う事で救われる事が沢山あります。
天を見せまいとするかのようにそびえ立つ杉木立の間から覗く一筋の陽の光を浴びた時、神の目から見える私は大地に茂る1本の野草と何ら変わらない存在である事に気づきました。「ああ、こうやって人間は育てられ、生かされているんだ」、と改めて感じる事ができました。
☆ 2008.8.14。何年振りかのバッテイングセンターで右手首を痛める。
酒の話。ずっと、30度以上、どうかすると城南地区で作られる47度くらいの焼酎を飲んでいた為に胃潰瘍が出たり引っ込んだりの状態が続いていました。
2007年8月、今年3月に大分県別府市にある大塚博堂記念館でライブをした際に大塚ご夫婦から、「大分の焼酎は20度が一般的でこれをロックで飲むのがいい」、と勧められたのが切っ掛けになって熊本に戻ってからは20度の焼酎を探し回っています。本当に美味いんです。
8月9日の事。施設に母を迎えに行くにはちょっと早いと感じた私はスーパーに立寄って、「ビッグマン、」という¥1600で4リットル入りの安物焼酎を買いました。20度なんです。幾ら私が夏が大好き人間とは言え、場所によっては36度、37度のここ最近の暑さは異常です。こんな日には20度の焼酎に凍らせたポカリスエットを砕いて入れてロックで飲むのが最高のひとときになっています。
この焼酎を買ってすぐに帰れば良かったのですが、バッテイングセンターの文字が目に入ったものだから、つい車のトランクを開けてバットを出してやってしまいました。
実は、3年前まで在籍した40歳以上で編成されたシニアチームから8月9日に電話を頂き、「もう一度やらんか。明日の10日は球場で待っているよ」、という誘いを受けていたんです。音楽も好きですが野球はもっと好きですからね。
数年前までは140kmのゲージに入ってホームランを連発して38ヶ月連続のチャンピオンになった程の私ですが、120kmのスローボールでもバットがボールに当りません。1ゲーム(1ゲーム20球)目の終了間際にようやくチップできるようになりましたが、ブランクなのか歳のせいか、動体視力自体も落ちてしまったのか、とお得意の瞬間分析が始まりました。
本当の心を言えば、体重が7kg増えるとどの程度のパワーが増すのかという事を実感してみたかったのです。分析の結果、ブランクを意識し過ぎている、120kmのボールでも今の自分には速すぎるかも知れないという意識、腕力や握力が強くなった分だけバットが軽くなってしまった、結果としてバットの出が速くなってしまって突っ込み気味のタイミングで打ちにいってしまっている、という結論を出して痛い腰をさすりながら2ゲーム目に望みました。
ポン、分析は正解。打席でのオープンスタンス(左足を外に開く)を止めて、スクエアからクローズドスタンス気味に変えただけで同じタイミングの振りでもバットの出が遅くなり、多少の詰まる感じがありながらでもポンポンと面白いように当り始めました。ボールを叩いた時、この詰まる感じがあった方がいいんです。体重7kg増の影響は凄いモノです。打球が全く垂れる事なく鋭い勢いで飛んでいきます。
「これならチームに復帰しても迷惑は掛けないかな」、と思いましたが、施設に母を迎えに行き、帰宅する途中で右手首が激しく痛み始めたんです。私の右手首には長い間の草野球生活で作ってしまった軟骨が突き出していて、除去手術をせずに放ったままにしているから無理な動きを繰返すと痛み始めるのです。そんな訳で8月10日の早朝野球の練習への参加は見送ってしまい、次回の17日の練習からキャッチボールくらいには参加しようかなと思っています。2007年の1月に心筋梗塞やって、7月には痙攣起こすくらいの追突事故に遭った人が2008年の8月に野球を再開するって信じて貰えますか・・?嫁は、隣で「アホ」、と叫んでいました。
母と暮らすようになってからは私の中のいろんなものが変わりました。老いていく事って止めようがありません。人間にとって最後の苦しみであり、最大の悲しみかも知れません。
衰えていく力を感じながら、心静かに自分の人生を振返る最後の機会なんでしょうか。勿論、心静かになれず、悟り足らず周囲を睨みつけるだけの人が多いのは事実ですが・。
母と暮らすようになり、母自身が感じる以上に私が悲しい時期が続きました。「どうしたんだ」、「すっかり老いぼれたな・・」、と半ば母を罵っている自分もいました。誰だっていつまでも母は母であって欲しいと思いますからね。
でも、人間は自然の中ではどうしようもなく無力なんだと思います。無力だと感じるからこそ人は何かに縋ろうとします。
幼い頃の私達にとっての父や母って家族の守り神、守護神でした。その存在こそが畏怖の典型でした。その認識が崩れていくのが父母の老いに気づき、それを認めた時からです。
私はいつの間にか老いた母を車椅子に乗せ、名も知らぬ神社の鳥居の前に立つようになっていました。
「これからの母は転げ落ちるように老いを深めていく・・、俺だけの力ではどうしようもない」、と感じた時、私は目には見えないモノに縋ろう・・、神の存在を意識したのです。
人は自分の力を遙かに越えた何かを信じる事で、「自分は、人間は弱いものだ」、と再認識するものです。人間って自然の中では弱いものなんだと思う事で救われる事が沢山あります。
天を見せまいとするかのようにそびえ立つ杉木立の間から覗く一筋の陽の光を浴びた時、神の目から見える私は大地に茂る1本の野草と何ら変わらない存在である事に気づきました。「ああ、こうやって人間は育てられ、生かされているんだ」、と改めて感じる事ができました。
☆ 2008.8.14。何年振りかのバッテイングセンターで右手首を痛める。
酒の話。ずっと、30度以上、どうかすると城南地区で作られる47度くらいの焼酎を飲んでいた為に胃潰瘍が出たり引っ込んだりの状態が続いていました。
2007年8月、今年3月に大分県別府市にある大塚博堂記念館でライブをした際に大塚ご夫婦から、「大分の焼酎は20度が一般的でこれをロックで飲むのがいい」、と勧められたのが切っ掛けになって熊本に戻ってからは20度の焼酎を探し回っています。本当に美味いんです。
8月9日の事。施設に母を迎えに行くにはちょっと早いと感じた私はスーパーに立寄って、「ビッグマン、」という¥1600で4リットル入りの安物焼酎を買いました。20度なんです。幾ら私が夏が大好き人間とは言え、場所によっては36度、37度のここ最近の暑さは異常です。こんな日には20度の焼酎に凍らせたポカリスエットを砕いて入れてロックで飲むのが最高のひとときになっています。
この焼酎を買ってすぐに帰れば良かったのですが、バッテイングセンターの文字が目に入ったものだから、つい車のトランクを開けてバットを出してやってしまいました。
実は、3年前まで在籍した40歳以上で編成されたシニアチームから8月9日に電話を頂き、「もう一度やらんか。明日の10日は球場で待っているよ」、という誘いを受けていたんです。音楽も好きですが野球はもっと好きですからね。
数年前までは140kmのゲージに入ってホームランを連発して38ヶ月連続のチャンピオンになった程の私ですが、120kmのスローボールでもバットがボールに当りません。1ゲーム(1ゲーム20球)目の終了間際にようやくチップできるようになりましたが、ブランクなのか歳のせいか、動体視力自体も落ちてしまったのか、とお得意の瞬間分析が始まりました。
本当の心を言えば、体重が7kg増えるとどの程度のパワーが増すのかという事を実感してみたかったのです。分析の結果、ブランクを意識し過ぎている、120kmのボールでも今の自分には速すぎるかも知れないという意識、腕力や握力が強くなった分だけバットが軽くなってしまった、結果としてバットの出が速くなってしまって突っ込み気味のタイミングで打ちにいってしまっている、という結論を出して痛い腰をさすりながら2ゲーム目に望みました。
ポン、分析は正解。打席でのオープンスタンス(左足を外に開く)を止めて、スクエアからクローズドスタンス気味に変えただけで同じタイミングの振りでもバットの出が遅くなり、多少の詰まる感じがありながらでもポンポンと面白いように当り始めました。ボールを叩いた時、この詰まる感じがあった方がいいんです。体重7kg増の影響は凄いモノです。打球が全く垂れる事なく鋭い勢いで飛んでいきます。
「これならチームに復帰しても迷惑は掛けないかな」、と思いましたが、施設に母を迎えに行き、帰宅する途中で右手首が激しく痛み始めたんです。私の右手首には長い間の草野球生活で作ってしまった軟骨が突き出していて、除去手術をせずに放ったままにしているから無理な動きを繰返すと痛み始めるのです。そんな訳で8月10日の早朝野球の練習への参加は見送ってしまい、次回の17日の練習からキャッチボールくらいには参加しようかなと思っています。2007年の1月に心筋梗塞やって、7月には痙攣起こすくらいの追突事故に遭った人が2008年の8月に野球を再開するって信じて貰えますか・・?嫁は、隣で「アホ」、と叫んでいました。
2008年11月19日
・同居記録:55
☆人生は【想いの壺】おもいの・つぼ。山の中で泣き続け、恨み続け・、そして、腹が減り思わず両親の名を叫んでしまった。
ある方が私に言われました。「高橋、人生は想いの壺なんだ。決して自分だけで生きてはいなくて、実に多くの人達との縁の中で生かされ、歩かされているんだ」、と。そして、「親から与えられた壺なんて小さなものだ。いろんな人の思いを受止める事のできる人間になりたければ、その壺はお前自身で少しづつ大きくしていく必要があるんだ」、と言われました。
若い頃に私が山に篭り独り暮らした一番の理由はそうした事が切っ掛けでした。食べること、生きる事・・、その全てを両親に依存して生きてきた癖に、この上何を俺は望むつもりなんだ、と思った時、私の中の両親や世間への恨み辛みが少しずつ消え始めたのです。
☆繰返す山籠もりの中で心静かに観察、野犬との食い合いで行動は激しく。
やがて、私はこの山籠もりを幾度となく繰返すようになり、俗世を断って暮らすうちに独自の人間観を作ってしまったのです。山には無数の野犬の集団が居て、私を食料としか見ない犬、以前の飼い主を思いだしてすり寄って来る犬・・、歯を剥き出して威嚇する奴、そんな私を護ろうとする奴。しかし、自然の中では所詮は腹が減ると私に牙を剥ける事を知りました。やがては私も腹が減るでしょう。まるで人間社会と同じだな、と思いました。私は自分をそんな環境に置く事でいろんな事を学びました。泣いてばかりじゃ食われてしまう、と。
川にさえ逃げ込めれば私を追ってくる野犬の数は半減します。せめてリーダーだけでも倒そうと覚悟する私に向かって顔を上に向けてアップアップと泳ぐ事に精一杯のリーダーが私に近づいて来ます。顔を上げて泳ぐ野犬の喉を切るのは簡単な事でした。
私の山籠もりではそうしないと生きていけなかったのです。互いが食料なんです。動物的で本能的で、自然界では何が偉くて、強いのか。何を以て優しさと言えるのか・・。その条件の全てを満たしていて始めて生きて下宿に帰っていたのです。
☆この頃の体験が信念として残っていて、今でも顔を出す倫理観や道徳観。
私のこの当時の体験は時に今でも頭を持上げる事があります。以前にも書きましたが、大雨による地崩れで自宅が傾き、今にも川に引きづり込まれようとする家を見ながら、「腹が減った。役場からの握り飯の配給はないのか?」、とマスコミのインタビューに笑い顔で答える典型的な現代の日本人の姿をTVで見たりすると無性に腹が立ちます。
「今からでも傾いた家に飛び込んで米櫃持って来いよ。火くらい、飯くらい自分で炊けるだろう」、と思ってしまうんです。
☆嫁の冒険心、探求心に癒された時期。
嫁は私の人間観をどう思っているのでしょう。少なくとも、私にとって嫁は天女のような一面があります。これも以前に書いたのですが、私は嫁の声が大好きです。しかし、嫁にはこの天使のような声以外、これこそ世界中の神々から与えられたのではないかと思える程の天性のものがあるのです。詳しくは書けませんが、嫁は神社・仏閣を訪ね回る旅行が大好きなんです。私の場合は近場の朽ち果てたような神社・仏閣を見て昔を回想するのが好きなんですが、開放的な嫁は有名で大きな広い神社仏閣が好みのようです。
写真に撮ってきては、「ほら、凄いでしょう。大きいでしょう」。「ここの廊下は広くて、長くて圧倒されたんだから」。「行って良かった。思っていた以上に偉大だったよ」、といろんな感想を言います。写真で見て描いていたイメージを凌ぐ感動というのは、そこに流れる風や陽の光、影、参拝する人々といったものによってより立体的に伝わるものがあるからだと思います。
どこの土地だったかは忘れましたが、行き当たりばったりで訪ねた古い酒蔵の歴史話を聞いた時には私の頭の中に酒蔵に出入りする監視役の侍や買い付ける商人達の姿が浮かぶのでした。古き日本の様子です。
実は、私の作る音楽の多くは次々と嫁が与えてくれたイメージが元になっている面が多分にあるんです。嫁が訪ね歩き体験する事で、その場所の素晴らしさ、訪ねた土地に住む人の人柄や使う方言などに私まで憧れたり、嫉妬したり・・、そんな日々の中で誕生した作品って多いものです。
このように嫁や母の目で見て、体感したものが会話によって私に伝わり、それをイメージした私が作るというケースも結構あるんです。
例えば、嫁は歌が浦の夜景とその時の母の表情だけを記憶していたとして、私は潮騒の音や母が発した言葉だけを観察記憶していて始めて作れたのが[潮騒の町]という作品だったりするのです。
要介護4になった母の介護が大変な時期なんですが、私にはこんな嫁であって欲しいという理想は今でもあります。嫁は、「私だけがいい思いをして申し訳ない」、と言いますが、この嫁の冒険、探求心は捨てて欲しくありません。夫婦ってどちらかの今際が見えた時、そして召されて逝く瞬間までをそばに居てくれたらそれでいいのではないかと思います。
☆集団検診の結果通知で「肺ガンの疑い・要再検査」という文字をみた時。
話が変わりますが、40歳無料検診の通知が回覧で回り、記事を読み間違えた私が当時35歳なのも関わらずに保健所に出向いたのも私の強運なのかどうかは分りません。受付で、「¥1500さえ払って頂ければ40歳になっていなくても撮影しますよ」、と言われて撮影して貰った時の話です。
3週間ほど経ってから私の妻宛に1通の葉書が届きました。表からは見えない例のシールドされた葉書に[親展]と書かれているではありませんか。保健所からの通知ですから私には覚えがありますし急な胸騒ぎを感じた私はべリッと剥がして・・見たんです。
「撮影の結果、胸部右側に・・」、それは肺ガンの疑いがあって日赤病院で精密検査を受けるようにと、担当の専門医師の名前まで指示されていました。もう、がーんですよ。
小心者の私は別な病院に行き、再度の撮影をして頂いたのですが、「あー、これだな。結構大きいですよ」、と無情な医師の言葉でした。しかし、不思議に人生を諦める気にはなりませんでした。嫁には保険だけは掛けとけよと告げて、以来20年を生きています。
私には幼少時の大手術の後にも腸の数カ所に癒着が残っていて慢性的な炎症状態が残り、白血球が常時12000~16000近くあるんです。この数値は成人の通常値の3倍から4倍程度でしょうか、常に白血球が臨戦態勢で風邪もひきません。セレニウム、ゲルマニウム・・外国から個人輸入して飲んだ時期がありました。そして、この10年は何にも対処していません。
☆9年に1度の割で不思議な訪問者がやって来る。「如何に生きるか」と彼らが言う。
この話、信じる必要はありません。無理して信じようとすると身体を壊します。私が見た夢という事で読んでください。
夜中にフッと身体が浮き上がる気配を感じて目を覚ませば、背後では烏帽子(えぼし)を被った神官さんが私の背中を支え、足元にはジャランと音のする棒を持った高野山系の修験者の大男が立っています。見るからに力を持つ高僧の雰囲気を感じます。そして、目の前には天女達が宙を舞っています。赤や緑の衣装を纏い、私を励ますように微笑んでいるんです。美しい音楽が聞こえています。
戸惑う私を無視するように修験者は私の上に跨って大きな顔を近づけ、「お前の身体は相当に病んでいる。だが、こことここに重大な疾患がある事をお前は知っていながら悩む事なく闘い力一杯生き抜こうとしている。我々はお前には大願がある事も知っている。だから私達はお前を死なせる訳にはいかない。今日は此処と此処を治してやろう」、と耳元に囁きながら私の胸を大きな指でトントン、トントンと何度も叩き、今度は腹部の癒着したままになっている部分をやはり指で回すようにさするんです。私の身体は熱くなり腹部などはゴロゴロと音さえ聞え始めます。
「いいか、9年経ったらまたお前の様子を見に来る。お前が必死に生きている姿が分れば再び、三度と何度でもお前を救ってやろう」、と言い残して姿を消すんです。私は何故か感謝の気持ちで体中が熱くなり、布団の中で声高に泣いてしまいます。翌朝、トイレでは激しい血便がありますが、何となく信じない訳にはいかないような話ですね。とても不思議な事です。
実は、[金木犀]、[弓削神社にて]という作品に使っているイントロの部分、あれはこの時の夢の中で流れていた旋律の一部を使用しているんです。
ピアノを弾き、音楽では私よりも先輩になる嫁は私の事を、「貴方はイントロ名人」、と言いますが、本来の私には[金木犀]や[弓削神社にて]のようなイントロを作る感性はありません。まさに、生かされている、そして何かを伝えさせられているという気がします。
私が自然や神仏、老いや命という・・、現在の自分が成り得ないもの、自然やそのサイクルみたいなもの、自身では絶対にコントロールできない力のような事、現象に対して畏怖を感じる一番の理由はこうした経験があったからだと思います。そして、世間の皆様は余りにもその事に無関心過ぎるのではないかと思っています。
人の心を察する能力を持つ者の先には必ず新たな何かが見えてきます。自然を称え感謝する者の先に必ず見えてくる何かがあるはず。少なくとも、そうありたいと努力しています。
ある方が私に言われました。「高橋、人生は想いの壺なんだ。決して自分だけで生きてはいなくて、実に多くの人達との縁の中で生かされ、歩かされているんだ」、と。そして、「親から与えられた壺なんて小さなものだ。いろんな人の思いを受止める事のできる人間になりたければ、その壺はお前自身で少しづつ大きくしていく必要があるんだ」、と言われました。
若い頃に私が山に篭り独り暮らした一番の理由はそうした事が切っ掛けでした。食べること、生きる事・・、その全てを両親に依存して生きてきた癖に、この上何を俺は望むつもりなんだ、と思った時、私の中の両親や世間への恨み辛みが少しずつ消え始めたのです。
☆繰返す山籠もりの中で心静かに観察、野犬との食い合いで行動は激しく。
やがて、私はこの山籠もりを幾度となく繰返すようになり、俗世を断って暮らすうちに独自の人間観を作ってしまったのです。山には無数の野犬の集団が居て、私を食料としか見ない犬、以前の飼い主を思いだしてすり寄って来る犬・・、歯を剥き出して威嚇する奴、そんな私を護ろうとする奴。しかし、自然の中では所詮は腹が減ると私に牙を剥ける事を知りました。やがては私も腹が減るでしょう。まるで人間社会と同じだな、と思いました。私は自分をそんな環境に置く事でいろんな事を学びました。泣いてばかりじゃ食われてしまう、と。
川にさえ逃げ込めれば私を追ってくる野犬の数は半減します。せめてリーダーだけでも倒そうと覚悟する私に向かって顔を上に向けてアップアップと泳ぐ事に精一杯のリーダーが私に近づいて来ます。顔を上げて泳ぐ野犬の喉を切るのは簡単な事でした。
私の山籠もりではそうしないと生きていけなかったのです。互いが食料なんです。動物的で本能的で、自然界では何が偉くて、強いのか。何を以て優しさと言えるのか・・。その条件の全てを満たしていて始めて生きて下宿に帰っていたのです。
☆この頃の体験が信念として残っていて、今でも顔を出す倫理観や道徳観。
私のこの当時の体験は時に今でも頭を持上げる事があります。以前にも書きましたが、大雨による地崩れで自宅が傾き、今にも川に引きづり込まれようとする家を見ながら、「腹が減った。役場からの握り飯の配給はないのか?」、とマスコミのインタビューに笑い顔で答える典型的な現代の日本人の姿をTVで見たりすると無性に腹が立ちます。
「今からでも傾いた家に飛び込んで米櫃持って来いよ。火くらい、飯くらい自分で炊けるだろう」、と思ってしまうんです。
☆嫁の冒険心、探求心に癒された時期。
嫁は私の人間観をどう思っているのでしょう。少なくとも、私にとって嫁は天女のような一面があります。これも以前に書いたのですが、私は嫁の声が大好きです。しかし、嫁にはこの天使のような声以外、これこそ世界中の神々から与えられたのではないかと思える程の天性のものがあるのです。詳しくは書けませんが、嫁は神社・仏閣を訪ね回る旅行が大好きなんです。私の場合は近場の朽ち果てたような神社・仏閣を見て昔を回想するのが好きなんですが、開放的な嫁は有名で大きな広い神社仏閣が好みのようです。
写真に撮ってきては、「ほら、凄いでしょう。大きいでしょう」。「ここの廊下は広くて、長くて圧倒されたんだから」。「行って良かった。思っていた以上に偉大だったよ」、といろんな感想を言います。写真で見て描いていたイメージを凌ぐ感動というのは、そこに流れる風や陽の光、影、参拝する人々といったものによってより立体的に伝わるものがあるからだと思います。
どこの土地だったかは忘れましたが、行き当たりばったりで訪ねた古い酒蔵の歴史話を聞いた時には私の頭の中に酒蔵に出入りする監視役の侍や買い付ける商人達の姿が浮かぶのでした。古き日本の様子です。
実は、私の作る音楽の多くは次々と嫁が与えてくれたイメージが元になっている面が多分にあるんです。嫁が訪ね歩き体験する事で、その場所の素晴らしさ、訪ねた土地に住む人の人柄や使う方言などに私まで憧れたり、嫉妬したり・・、そんな日々の中で誕生した作品って多いものです。
このように嫁や母の目で見て、体感したものが会話によって私に伝わり、それをイメージした私が作るというケースも結構あるんです。
例えば、嫁は歌が浦の夜景とその時の母の表情だけを記憶していたとして、私は潮騒の音や母が発した言葉だけを観察記憶していて始めて作れたのが[潮騒の町]という作品だったりするのです。
要介護4になった母の介護が大変な時期なんですが、私にはこんな嫁であって欲しいという理想は今でもあります。嫁は、「私だけがいい思いをして申し訳ない」、と言いますが、この嫁の冒険、探求心は捨てて欲しくありません。夫婦ってどちらかの今際が見えた時、そして召されて逝く瞬間までをそばに居てくれたらそれでいいのではないかと思います。
☆集団検診の結果通知で「肺ガンの疑い・要再検査」という文字をみた時。
話が変わりますが、40歳無料検診の通知が回覧で回り、記事を読み間違えた私が当時35歳なのも関わらずに保健所に出向いたのも私の強運なのかどうかは分りません。受付で、「¥1500さえ払って頂ければ40歳になっていなくても撮影しますよ」、と言われて撮影して貰った時の話です。
3週間ほど経ってから私の妻宛に1通の葉書が届きました。表からは見えない例のシールドされた葉書に[親展]と書かれているではありませんか。保健所からの通知ですから私には覚えがありますし急な胸騒ぎを感じた私はべリッと剥がして・・見たんです。
「撮影の結果、胸部右側に・・」、それは肺ガンの疑いがあって日赤病院で精密検査を受けるようにと、担当の専門医師の名前まで指示されていました。もう、がーんですよ。
小心者の私は別な病院に行き、再度の撮影をして頂いたのですが、「あー、これだな。結構大きいですよ」、と無情な医師の言葉でした。しかし、不思議に人生を諦める気にはなりませんでした。嫁には保険だけは掛けとけよと告げて、以来20年を生きています。
私には幼少時の大手術の後にも腸の数カ所に癒着が残っていて慢性的な炎症状態が残り、白血球が常時12000~16000近くあるんです。この数値は成人の通常値の3倍から4倍程度でしょうか、常に白血球が臨戦態勢で風邪もひきません。セレニウム、ゲルマニウム・・外国から個人輸入して飲んだ時期がありました。そして、この10年は何にも対処していません。
☆9年に1度の割で不思議な訪問者がやって来る。「如何に生きるか」と彼らが言う。
この話、信じる必要はありません。無理して信じようとすると身体を壊します。私が見た夢という事で読んでください。
夜中にフッと身体が浮き上がる気配を感じて目を覚ませば、背後では烏帽子(えぼし)を被った神官さんが私の背中を支え、足元にはジャランと音のする棒を持った高野山系の修験者の大男が立っています。見るからに力を持つ高僧の雰囲気を感じます。そして、目の前には天女達が宙を舞っています。赤や緑の衣装を纏い、私を励ますように微笑んでいるんです。美しい音楽が聞こえています。
戸惑う私を無視するように修験者は私の上に跨って大きな顔を近づけ、「お前の身体は相当に病んでいる。だが、こことここに重大な疾患がある事をお前は知っていながら悩む事なく闘い力一杯生き抜こうとしている。我々はお前には大願がある事も知っている。だから私達はお前を死なせる訳にはいかない。今日は此処と此処を治してやろう」、と耳元に囁きながら私の胸を大きな指でトントン、トントンと何度も叩き、今度は腹部の癒着したままになっている部分をやはり指で回すようにさするんです。私の身体は熱くなり腹部などはゴロゴロと音さえ聞え始めます。
「いいか、9年経ったらまたお前の様子を見に来る。お前が必死に生きている姿が分れば再び、三度と何度でもお前を救ってやろう」、と言い残して姿を消すんです。私は何故か感謝の気持ちで体中が熱くなり、布団の中で声高に泣いてしまいます。翌朝、トイレでは激しい血便がありますが、何となく信じない訳にはいかないような話ですね。とても不思議な事です。
実は、[金木犀]、[弓削神社にて]という作品に使っているイントロの部分、あれはこの時の夢の中で流れていた旋律の一部を使用しているんです。
ピアノを弾き、音楽では私よりも先輩になる嫁は私の事を、「貴方はイントロ名人」、と言いますが、本来の私には[金木犀]や[弓削神社にて]のようなイントロを作る感性はありません。まさに、生かされている、そして何かを伝えさせられているという気がします。
私が自然や神仏、老いや命という・・、現在の自分が成り得ないもの、自然やそのサイクルみたいなもの、自身では絶対にコントロールできない力のような事、現象に対して畏怖を感じる一番の理由はこうした経験があったからだと思います。そして、世間の皆様は余りにもその事に無関心過ぎるのではないかと思っています。
人の心を察する能力を持つ者の先には必ず新たな何かが見えてきます。自然を称え感謝する者の先に必ず見えてくる何かがあるはず。少なくとも、そうありたいと努力しています。
2008年11月18日
・同居記録:54
☆母は我を張る事で自分が生きている証し、自分の存在を探している。認められたいんだ。
同居6年目になっても嫁には辛い瞬間が多いようです。ただ、私の目で見ても嫁にもなかなか進歩がないんです。嫁自体が我が強いし、自分の我を通そう、自分の意見の正当性を母に理解させて、「はい、分りました」、と言わせたいんだと思います。そして、それ以上に亭主である私に自分の頑張りを理解して欲しいのだと感じています。
私は嫁の考え方も意見が正しい事も、それが母の為を思って言っている事、行なっている事も全部分っています。
ただ、嫁が分っていない事が一つだけあります。一つだけなんです。それは、母には[我]しか残っていないんだという事です。
[母が我を通す、我を貫く事は唯一、自分が生きている、自分が存在している証し]なんです。
まだ、少しでも伸びる芽がある者と次々と枝葉を枯らしていくだけの老いいく者との違いを嫁には悟って欲しいと思います。これは、世の多くの嫁に言える事かも知れません。譲るべき、耐えるべきは常に若い側なんです。そこに初めて信頼が生まれるんです。
☆2008.8.12。この時期の母は不思議な事を言い出す。そして、[念]について。
8月旧盆、7月新盆って変なものです。家族によっては7月、8月と両方の実家に行く事もあるのでしょうか。人の都合が人の都合を呼んでしまいます。因みに長崎では旧盆が多いですね。
8月10日は親父の命日。昨年からは高齢の母を気遣う姉と兄は佐世保のお寺さんに出向いて法事を済ませるようにしています。
さて、このお盆の時期になると我家では不思議な事が起きます。それは、母が夜な夜ないろんな方の訪問を受ける事なんです。だから、母は朝食の時に、「夕べのお客さんを早く起こしてきなさい」、と言います。誰かが夢枕に立つんでしょうね。「もう、いいんじゃない。向こうに逝きましょうか」、という暗示を受けたと言うんです。「だから、その前に佐世保に帰って身辺を整理しないといけない」、と母が言います。
私はそうした事を否定はしません。お盆だからとかいうのではなく、意識の世界は絶対に存在していると信じているからです。これは、全然気持ちの悪いことでもありません。
私がよく使う言葉に、[念]というものがあります。互いの思いの事です。
この念こそが意識の世界なんです。念は思い、教え・・、等と置換する事ができます。
親が子を思い、子が親を思う。或いは、教師が遠い昔に卒業した生徒を思い。生徒は、「あの先生は今でもお元気なんだろうな」、と思う心などを言います。決して、互いが存命している、いないの事では無く、「いい先生だったな・・」、「いい父親だったよ・・・」、と既に旅立った人に対する思いだって[念]なんです。
そう考えれば、現世の我々に対する霊界からの[返事の念]だって存在しても不思議ではありません。
私達の周囲を見渡しても、「あの人はいろんな思いを残して亡くなったんだ」、と思えるような方は沢山いるはずです。誰かが誰かに[影響を残す事]だって[念]なんです。
要は、それを我々が感じる能力があるかないか、感じるような環境で暮らしているかいないかの事だと思うのです。
母は5人兄弟の末っ子です。48歳の若さで母親は旅立ち。父親もその5年後くらいに亡くしています。しかし、裕福だった母方の濱野一族の炭坑を引継いで経営に当っていた長男の河内進兄さんや弟の勇兄さんのお陰でお金に困ることはなく、長女のフサ子姉しゃまが母親代わりになり、私の母はこのフサ子さんの嫁ぎ先にまでついていっては、今度は甥や姪の面倒を見て恩返しをしています。母は本当に可愛がられていたんだな、と思います。
そうした母の過去を思った時、母には濱野一族や河内家の方々の様々な[念]が向けられているような気がするんです。
2004年頃の母は、「夜中に母親のライさんが足元に立っていた」、「松若さんが心配そうに私を見ていた」、とよく言ったものです。これ全てが[念]なんです。[念が念を呼ぶ]と言うか、私の母は両親や兄弟への思いをいつも持っています。だから、この時期、特にこうした現象が起きるのだろうと思います。
私の作品に[ホッホ]というのがありますが、これを作った頃は不思議な日が続きました。
「夕べは母ちゃまがニコニコ笑って足元に立っていたよ」、とか、「ここで暮らせて良かったね」、と言っていたと母が言うんです。
実は、今でもこの[ホッホ]という曲を私がコンサートで唄っている時、私は会った事もないライお祖母ちゃんの姿を会場の隅に見る事があるんです。私が歌詞に詰まった時は何かを見た瞬間かも知れません。この【母に生命を返す時】というものを作り始めて以降、ある時期からいろんなものの力を感じるようになったのは事実です。
☆ついでに、私の経験を・・。
私が経験した事でこんな事がありました。行った事もない兵庫県の某お寺の関係者から、熊本の私に電話があって、「やがて、貴方はお腹にメスを入れる事になる。それが貴方の最期になる」、と飛んでもない事を告げられました。普通だとこんな事言われたら怒りますよ。しかし、私はその電話の数ヶ月前から実際に胆嚢に異常があって追跡検査をしていたんですが、ドンドン大きくなっていたんです。
お寺さんからの話が面白いはずがありません。喉に何かが引っ掛かったような毎日を送ってはいけないと思った私は兵庫のそのお寺を訪ね、そうした霊力を持つというお坊さんに会いに行きました。そのお寺は人間の生霊を出してみせるという事で全国から悩み事で訪れる人が多いらしいのですが、こんな話は私は苦手なんです。
丁度、お昼の食事の時間、私はそのお坊さんが座っておられるテーブルに向かい、「ご一緒させて頂きます」、と告げて真向かいの席に着いてお茶を飲みながら話し掛けるタイミングを探していました。そのお坊さんは何度も私と目を合わせるのですが何にも言いません。
そこで、「私の命・・、どの辺まで持つのでしょうか?」、と切り出しました。本当に不思議な経験でした。全くの無表情なお坊さんでしたが、その時の会話を再現してみます。
暫くの間、私を凝視していたお坊さんは、「うん、本来なら貴方は現世にはいない人のようだが貴方は現世、過去世の実に多くの方々からの思いが掛けられていて、その強力な力が貴方をこの世に留めているようです」、と言われたんです。それも、「貴方は現世よりも過去世の方々からの信頼がとても厚く、その上に親族・縁者より全くの赤の他人の多くの霊が貴方を護ってくれていて、貴方は彼らの為に何かをするようになっている」、「早く気づいて欲しい」、と言われるんです。
「貴方は熊本からこのお寺を訪ねてくれました。死なせる訳にはいきません。入信なんかする必要もありません。私も頑張って貴方の延命嘆願をします。そして、貴方が私との幾つかの約束を守ってくれるのであれば、貴方は手術台の上で奇跡に出合う事ができます」、と言われたんです。この時の約束事は書けませんが、その二日後の手術台の上で、そして、院長の特別の配慮で用意された個室のベッドの上で私は凄い光景を見る事になるのです。
「あーっ、人間ってこうして生かされているんだ。現世を生きる我々にはこんな力が加わっているのか」、と思いました。丁度、天に漂う雲のように灰色の無数の霊体が私の目の前に出現していたのです。何か気持ちの悪くなるような表現ですが、そうではなく、それはとても温かいものでした。
同居6年目になっても嫁には辛い瞬間が多いようです。ただ、私の目で見ても嫁にもなかなか進歩がないんです。嫁自体が我が強いし、自分の我を通そう、自分の意見の正当性を母に理解させて、「はい、分りました」、と言わせたいんだと思います。そして、それ以上に亭主である私に自分の頑張りを理解して欲しいのだと感じています。
私は嫁の考え方も意見が正しい事も、それが母の為を思って言っている事、行なっている事も全部分っています。
ただ、嫁が分っていない事が一つだけあります。一つだけなんです。それは、母には[我]しか残っていないんだという事です。
[母が我を通す、我を貫く事は唯一、自分が生きている、自分が存在している証し]なんです。
まだ、少しでも伸びる芽がある者と次々と枝葉を枯らしていくだけの老いいく者との違いを嫁には悟って欲しいと思います。これは、世の多くの嫁に言える事かも知れません。譲るべき、耐えるべきは常に若い側なんです。そこに初めて信頼が生まれるんです。
☆2008.8.12。この時期の母は不思議な事を言い出す。そして、[念]について。
8月旧盆、7月新盆って変なものです。家族によっては7月、8月と両方の実家に行く事もあるのでしょうか。人の都合が人の都合を呼んでしまいます。因みに長崎では旧盆が多いですね。
8月10日は親父の命日。昨年からは高齢の母を気遣う姉と兄は佐世保のお寺さんに出向いて法事を済ませるようにしています。
さて、このお盆の時期になると我家では不思議な事が起きます。それは、母が夜な夜ないろんな方の訪問を受ける事なんです。だから、母は朝食の時に、「夕べのお客さんを早く起こしてきなさい」、と言います。誰かが夢枕に立つんでしょうね。「もう、いいんじゃない。向こうに逝きましょうか」、という暗示を受けたと言うんです。「だから、その前に佐世保に帰って身辺を整理しないといけない」、と母が言います。
私はそうした事を否定はしません。お盆だからとかいうのではなく、意識の世界は絶対に存在していると信じているからです。これは、全然気持ちの悪いことでもありません。
私がよく使う言葉に、[念]というものがあります。互いの思いの事です。
この念こそが意識の世界なんです。念は思い、教え・・、等と置換する事ができます。
親が子を思い、子が親を思う。或いは、教師が遠い昔に卒業した生徒を思い。生徒は、「あの先生は今でもお元気なんだろうな」、と思う心などを言います。決して、互いが存命している、いないの事では無く、「いい先生だったな・・」、「いい父親だったよ・・・」、と既に旅立った人に対する思いだって[念]なんです。
そう考えれば、現世の我々に対する霊界からの[返事の念]だって存在しても不思議ではありません。
私達の周囲を見渡しても、「あの人はいろんな思いを残して亡くなったんだ」、と思えるような方は沢山いるはずです。誰かが誰かに[影響を残す事]だって[念]なんです。
要は、それを我々が感じる能力があるかないか、感じるような環境で暮らしているかいないかの事だと思うのです。
母は5人兄弟の末っ子です。48歳の若さで母親は旅立ち。父親もその5年後くらいに亡くしています。しかし、裕福だった母方の濱野一族の炭坑を引継いで経営に当っていた長男の河内進兄さんや弟の勇兄さんのお陰でお金に困ることはなく、長女のフサ子姉しゃまが母親代わりになり、私の母はこのフサ子さんの嫁ぎ先にまでついていっては、今度は甥や姪の面倒を見て恩返しをしています。母は本当に可愛がられていたんだな、と思います。
そうした母の過去を思った時、母には濱野一族や河内家の方々の様々な[念]が向けられているような気がするんです。
2004年頃の母は、「夜中に母親のライさんが足元に立っていた」、「松若さんが心配そうに私を見ていた」、とよく言ったものです。これ全てが[念]なんです。[念が念を呼ぶ]と言うか、私の母は両親や兄弟への思いをいつも持っています。だから、この時期、特にこうした現象が起きるのだろうと思います。
私の作品に[ホッホ]というのがありますが、これを作った頃は不思議な日が続きました。
「夕べは母ちゃまがニコニコ笑って足元に立っていたよ」、とか、「ここで暮らせて良かったね」、と言っていたと母が言うんです。
実は、今でもこの[ホッホ]という曲を私がコンサートで唄っている時、私は会った事もないライお祖母ちゃんの姿を会場の隅に見る事があるんです。私が歌詞に詰まった時は何かを見た瞬間かも知れません。この【母に生命を返す時】というものを作り始めて以降、ある時期からいろんなものの力を感じるようになったのは事実です。
☆ついでに、私の経験を・・。
私が経験した事でこんな事がありました。行った事もない兵庫県の某お寺の関係者から、熊本の私に電話があって、「やがて、貴方はお腹にメスを入れる事になる。それが貴方の最期になる」、と飛んでもない事を告げられました。普通だとこんな事言われたら怒りますよ。しかし、私はその電話の数ヶ月前から実際に胆嚢に異常があって追跡検査をしていたんですが、ドンドン大きくなっていたんです。
お寺さんからの話が面白いはずがありません。喉に何かが引っ掛かったような毎日を送ってはいけないと思った私は兵庫のそのお寺を訪ね、そうした霊力を持つというお坊さんに会いに行きました。そのお寺は人間の生霊を出してみせるという事で全国から悩み事で訪れる人が多いらしいのですが、こんな話は私は苦手なんです。
丁度、お昼の食事の時間、私はそのお坊さんが座っておられるテーブルに向かい、「ご一緒させて頂きます」、と告げて真向かいの席に着いてお茶を飲みながら話し掛けるタイミングを探していました。そのお坊さんは何度も私と目を合わせるのですが何にも言いません。
そこで、「私の命・・、どの辺まで持つのでしょうか?」、と切り出しました。本当に不思議な経験でした。全くの無表情なお坊さんでしたが、その時の会話を再現してみます。
暫くの間、私を凝視していたお坊さんは、「うん、本来なら貴方は現世にはいない人のようだが貴方は現世、過去世の実に多くの方々からの思いが掛けられていて、その強力な力が貴方をこの世に留めているようです」、と言われたんです。それも、「貴方は現世よりも過去世の方々からの信頼がとても厚く、その上に親族・縁者より全くの赤の他人の多くの霊が貴方を護ってくれていて、貴方は彼らの為に何かをするようになっている」、「早く気づいて欲しい」、と言われるんです。
「貴方は熊本からこのお寺を訪ねてくれました。死なせる訳にはいきません。入信なんかする必要もありません。私も頑張って貴方の延命嘆願をします。そして、貴方が私との幾つかの約束を守ってくれるのであれば、貴方は手術台の上で奇跡に出合う事ができます」、と言われたんです。この時の約束事は書けませんが、その二日後の手術台の上で、そして、院長の特別の配慮で用意された個室のベッドの上で私は凄い光景を見る事になるのです。
「あーっ、人間ってこうして生かされているんだ。現世を生きる我々にはこんな力が加わっているのか」、と思いました。丁度、天に漂う雲のように灰色の無数の霊体が私の目の前に出現していたのです。何か気持ちの悪くなるような表現ですが、そうではなく、それはとても温かいものでした。
2008年11月17日
・同居記録:53
☆2008.8.8寝不足の私、そして、母の食事中の異常行動。
もう、最近は5:30頃には部屋で音がしている。寝不足が蓄積している私の為にはせめて7:00迄は静かにしていて欲しいのだが無理。この時期、骨折の為に仕事を休んで家にいる嫁が母の部屋へ直行して宥めたり、洗顔や着替えをさせてくれるからまだ助かるものの、今度は隣室での二人の会話が気になって眠れない。夜中の2:40、3:30、4:50と母のトイレの世話をした日の朝など、「俺はいつ寝たのかいな」、と思うくらいに朝が来るのが早い。
今朝、母がまたしても異常行動をしました。先に朝食を済ませてお茶を飲んでいた母がテーブルにある私の朝食に突然手を伸ばしてきて手掴みにしたんです。因みに、テーブルには(ご飯、豆腐とほうれん草の入った味噌汁、佃煮、昨夜の残り物の野菜天ぷら)が乗っていました。本当に突然でした。すっと手を伸ばしてきて天ぷらの一つを手に取り、「こんなモノ食べて・・」、と掌で握り潰そうとしたんです。
私は直ぐに取り上げて、「何やっとんの」、と聞きますが、母は私の言葉には返事せず、「へっ」、と嫌な表情をします。
「何をする気だったんだと聞いとるんじゃ」、と強く聞くと、「何をね?」、ともう忘れているんです
☆2008.8.9。言葉が・・、出ない。話し始めると言葉を忘れていて続かない。
この数週間の母は嫁を、「貞子さん」、と呼び、私の事を「イサムさん」、と勘違いしている場面が非常に目立つようになりました。今朝も施設に向かう車の中で私の事を、「兄ちゃま」、と言っていました。
トイレで用を足してもお尻を拭く、手を洗うのを忘れている事が多いく、先日などは着ている普段着を脱ぎ、中敷きを外して紙パンツまで脱いでしまってスッポンポンの丸裸でベッドに転んでた為にベッドのシーツをおしっこで濡らしてしまっていました。
何故、裸になっているんだと聞けば、「着ている服が自分のモノではないし、新しいから勿体ない」、と言います。中敷きと紙パンツを外した理由は。「これからおしっこをするつもりだった」、と言います。
「いつもはそんな事までしておしっこはしていないでしょうよ」、と言えば、「兎に角、部屋が暑かったから」、とようやく最後に返事らしい答えが戻ってきました。
確かに、母の来ていた家庭着の服は一昨日に嫁が買ってきていたものでした。しかし、その夜には母に見せていて、実際に昨日も施設から帰宅した母は着ているのです。この件は単純な物忘れでしょうが、部屋が暑いからと中敷きと紙パンツまでで外してしまうというのは今年になって2度目の出来事でした。
クーラーをつけると、「勿体ない」、と言うんで、「じゃ、床でいいからこの部屋でクーラーつけて寝かせてくれ」、と横になり、ニセいびきを掻いてみせ、母の寝息が聞え始めたのを機にそっと部屋を出ました。介護生活って楽しいもんです。
☆2008.8.10。塩分摂取を巡り嫁を敵視。理解を示さない私を睨む。
夕食はアジの塩焼き、ニンジン・タマネギ・豚肉のすき焼風煮込み、ポテト・トマト・サラダ菜のサラダ、卯の花入り味噌汁。母はいつもだとアジの塩焼きは片側しか食べないが今夜は両面を食べた。しかし、醤油の掛け方が半端ではない。私の4倍、嫁の6倍は醤油を使っている。
「お母さん、駄目でしょう!、醤油の摂り過ぎです」、と嫁が醤油さしを取り上げようとすると、「何をすっとね」。と怒る。
「足が今以上に腫れてしまいますよ」、と言うが、母はもの凄い形相で嫁を睨み返すついでに私の方を見て味方に付けようとする。
「腎臓を悪くして足が腫れて死んだのは誰かいな。ライさんの苦しむ姿を見たろうに」、と私が言えば、「そうしてあんた達はいつも二人で私を悪く言う」、と怒ります。「悪くは言っとらんさ」、と言う私を無視して醤油を次々に継ぎ足しては食べるんです。
最近は母の夕食の時間がとても長くなりました。18:30が夕食開始のの目安なんですが、母が食べ終るのは平均して20:40頃。2時間以上は夕食に掛かります。
「ゆっくり食べていていいですよ」、と言いながら嫁は流しでの洗い物や母の(風呂でのお湯掛け、温タオルでの身体拭き)の準備やベッドメイクと居間を骨折した足を引きずりながら動き回るのだが、母にはどうもそれが目障りに見えるらしい。
「一体、あの人(嫁)は私の部屋に勝手に入ったり出たりして何をしているんだろうね」、と今でも言います。「台所の洗い物は私がするんだし、何を忙しそうに動き回るんだろう。イライラする・、と言います。
いつもの事ではないのですが、母は今でも買物や料理、お風呂沸かしなどの家事の一部は自分がしているんだと思っている瞬間があります。瞬間なんです。
だから、「そこに置いていて下さいよ、そのままにしといてね、私が洗うんだから」、という言葉を発します。結局、食べ終ったらおしっこを催すまでボーっとしているだけなんですけどね。
21:30を目途にベッドに横になって貰うのですが、こんな日には、「尚宏、私の足が腫れていないね。痛いよ」、と言います。「腫れとるさ。だから、塩分の摂り過ぎはいかん言っとるだろ。勝手に醤油を継ぎ足して食べるからさ」、と言えば、「私はそんな食べ方はしていない」、と言います。夕食の話をして説明すると、「先が見えているんだから好きな事してどこが悪いね」、と開き直って言返してきます。
嫁が塩分の事で念を押そうとしますが母の顔は既に引きつっています。私は、母に気づかれないように嫁を制してベッドに横にならせます。こんな光景はどこの家庭にでもあるんでしょうね。
もう、最近は5:30頃には部屋で音がしている。寝不足が蓄積している私の為にはせめて7:00迄は静かにしていて欲しいのだが無理。この時期、骨折の為に仕事を休んで家にいる嫁が母の部屋へ直行して宥めたり、洗顔や着替えをさせてくれるからまだ助かるものの、今度は隣室での二人の会話が気になって眠れない。夜中の2:40、3:30、4:50と母のトイレの世話をした日の朝など、「俺はいつ寝たのかいな」、と思うくらいに朝が来るのが早い。
今朝、母がまたしても異常行動をしました。先に朝食を済ませてお茶を飲んでいた母がテーブルにある私の朝食に突然手を伸ばしてきて手掴みにしたんです。因みに、テーブルには(ご飯、豆腐とほうれん草の入った味噌汁、佃煮、昨夜の残り物の野菜天ぷら)が乗っていました。本当に突然でした。すっと手を伸ばしてきて天ぷらの一つを手に取り、「こんなモノ食べて・・」、と掌で握り潰そうとしたんです。
私は直ぐに取り上げて、「何やっとんの」、と聞きますが、母は私の言葉には返事せず、「へっ」、と嫌な表情をします。
「何をする気だったんだと聞いとるんじゃ」、と強く聞くと、「何をね?」、ともう忘れているんです
☆2008.8.9。言葉が・・、出ない。話し始めると言葉を忘れていて続かない。
この数週間の母は嫁を、「貞子さん」、と呼び、私の事を「イサムさん」、と勘違いしている場面が非常に目立つようになりました。今朝も施設に向かう車の中で私の事を、「兄ちゃま」、と言っていました。
トイレで用を足してもお尻を拭く、手を洗うのを忘れている事が多いく、先日などは着ている普段着を脱ぎ、中敷きを外して紙パンツまで脱いでしまってスッポンポンの丸裸でベッドに転んでた為にベッドのシーツをおしっこで濡らしてしまっていました。
何故、裸になっているんだと聞けば、「着ている服が自分のモノではないし、新しいから勿体ない」、と言います。中敷きと紙パンツを外した理由は。「これからおしっこをするつもりだった」、と言います。
「いつもはそんな事までしておしっこはしていないでしょうよ」、と言えば、「兎に角、部屋が暑かったから」、とようやく最後に返事らしい答えが戻ってきました。
確かに、母の来ていた家庭着の服は一昨日に嫁が買ってきていたものでした。しかし、その夜には母に見せていて、実際に昨日も施設から帰宅した母は着ているのです。この件は単純な物忘れでしょうが、部屋が暑いからと中敷きと紙パンツまでで外してしまうというのは今年になって2度目の出来事でした。
クーラーをつけると、「勿体ない」、と言うんで、「じゃ、床でいいからこの部屋でクーラーつけて寝かせてくれ」、と横になり、ニセいびきを掻いてみせ、母の寝息が聞え始めたのを機にそっと部屋を出ました。介護生活って楽しいもんです。
☆2008.8.10。塩分摂取を巡り嫁を敵視。理解を示さない私を睨む。
夕食はアジの塩焼き、ニンジン・タマネギ・豚肉のすき焼風煮込み、ポテト・トマト・サラダ菜のサラダ、卯の花入り味噌汁。母はいつもだとアジの塩焼きは片側しか食べないが今夜は両面を食べた。しかし、醤油の掛け方が半端ではない。私の4倍、嫁の6倍は醤油を使っている。
「お母さん、駄目でしょう!、醤油の摂り過ぎです」、と嫁が醤油さしを取り上げようとすると、「何をすっとね」。と怒る。
「足が今以上に腫れてしまいますよ」、と言うが、母はもの凄い形相で嫁を睨み返すついでに私の方を見て味方に付けようとする。
「腎臓を悪くして足が腫れて死んだのは誰かいな。ライさんの苦しむ姿を見たろうに」、と私が言えば、「そうしてあんた達はいつも二人で私を悪く言う」、と怒ります。「悪くは言っとらんさ」、と言う私を無視して醤油を次々に継ぎ足しては食べるんです。
最近は母の夕食の時間がとても長くなりました。18:30が夕食開始のの目安なんですが、母が食べ終るのは平均して20:40頃。2時間以上は夕食に掛かります。
「ゆっくり食べていていいですよ」、と言いながら嫁は流しでの洗い物や母の(風呂でのお湯掛け、温タオルでの身体拭き)の準備やベッドメイクと居間を骨折した足を引きずりながら動き回るのだが、母にはどうもそれが目障りに見えるらしい。
「一体、あの人(嫁)は私の部屋に勝手に入ったり出たりして何をしているんだろうね」、と今でも言います。「台所の洗い物は私がするんだし、何を忙しそうに動き回るんだろう。イライラする・、と言います。
いつもの事ではないのですが、母は今でも買物や料理、お風呂沸かしなどの家事の一部は自分がしているんだと思っている瞬間があります。瞬間なんです。
だから、「そこに置いていて下さいよ、そのままにしといてね、私が洗うんだから」、という言葉を発します。結局、食べ終ったらおしっこを催すまでボーっとしているだけなんですけどね。
21:30を目途にベッドに横になって貰うのですが、こんな日には、「尚宏、私の足が腫れていないね。痛いよ」、と言います。「腫れとるさ。だから、塩分の摂り過ぎはいかん言っとるだろ。勝手に醤油を継ぎ足して食べるからさ」、と言えば、「私はそんな食べ方はしていない」、と言います。夕食の話をして説明すると、「先が見えているんだから好きな事してどこが悪いね」、と開き直って言返してきます。
嫁が塩分の事で念を押そうとしますが母の顔は既に引きつっています。私は、母に気づかれないように嫁を制してベッドに横にならせます。こんな光景はどこの家庭にでもあるんでしょうね。
2008年11月16日
・同居記録:52
☆2008.7.31.11歳違いの兄、河内勇さん。7歳上の姉、フサ子さん。母が歌が浦を去る日。
最近作った[母の童歌]や以前作った[蝉しぐれ]にも出てくるイサム兄さんは母とは11歳違いの実兄で、正式には河内勇と言います。母とは一回りも歳が違うために、「イサム兄しゃま」、と呼んだり、「おじちゃん」、と呼んでいたと母は言います。この勇さんは高等師範学校を出た後に数学の教師をしていたのですが、鹿町炭坑を開いた伯父の濱野治八に誘われ、長男の河内進氏と共に鹿町炭坑の経営にあたります。母の母親は腎臓病の為に48歳で没しました。その母親の体質を受継いでいた母は平戸の女学校を出た頃には山口県にある有名な俵山温泉に長期の湯治で滞在していたとか。男2人、女3人の兄弟のなかで歳の離れた末っ子の母は本当に自由気ままな暮らしが許されたんだと思います。この滞在費用は鹿町炭坑の社長になっていた長男の河内進さんが負担してくれています。
やがて、鹿町炭坑から大量の石炭を購入して四国で幅広く塩田業を展開していた方の息子さんとの縁談を父親(河内松若)が強引に勧めるようになります。その塩田業の方は母の事を、「嬢ちゃん、嬢ちゃん」、と可愛がり、高価な指輪をお土産にくれたり、それはとても気に入ってくれていたそうですが、母は、「嫌っ」、だったそうです。
母は歌が浦の町から逃げるように博多へ出て、当時では珍しい英文タイピストの養成学校に通う事になったのです。
☆始めての親友。みね子さんとの出合い。
この博多の町で通った英文タイプの講師を努めていたのが[水無月の頃]の詩に出てくるみね子さんでした。このみね子さんは後に母が取り持った縁談で鹿町町深江免江迎にある砂田旅館へ嫁ぐ事になりますが、タイピストとして就職した母の下宿に押し掛けて来て同居をする程の仲良しになったようです。母とは違って結構な派手好きな方だったらしく、深夜まで遊んで下宿に戻っては潔癖な母と口論になったりする事もあったと母は言います。現在、この砂田みね子さんは佐賀県のグループホームで元気に暮らしておられるようです。
☆2008.8.6。母の食事の変化を観察する日々。
5月に[母の童歌]を作って以降、7月5日の山鹿市でのコンサートの準備、7月21日の益城町でのうらた剛さんのコンサートの手伝いのあって6月、7月は詩作や曲作りが全くできませんでした。この3ヶ月ほどは母の食欲が落ちてきた事があって、どんな料理に箸を伸ばし、具材にしてもどのくらいの硬さならいいのか、どんな色に興味を持つか、皿の形や色も食欲と関係があるのだろうかと、母の食事の傾向をチェックする日が続いています。皆さんのご家庭のお年寄りはどうなんでしょうね。母の食事で気がついた分だけでも書いてみたいと思います。
1. 食べ方として、お吸い物や味噌汁とご飯だけで食べ始め、汁物が終れば次の一品とご飯、それを食べ終れば次の一品とご飯・・、というような食べ方をします。それも小さい皿に盛った料理から食べるようです。例えば、味噌汁とご飯、刺身とご飯、酢の物とご飯・・みたいな食べ方です。結果的に魚料理や肉料理が一品残ったりしますから、それがその日のメイン料理であったりすると満遍なく食べていないから栄養的には偏ってしまいます。
2. 例えば、刺身と天ぷらがあったとします。途中で刺身にソースをつけて食べたり、サラダに添えたマヨネーズをつけたりして食べ始めます。まあ、カルパッチョを食っているんだと思えば何でもない事ですが、そうではありません。醤油とソースの味覚が区別できていないようなんです。
かと言って、母の好きな高野豆腐や卵料理などには口うるさく、「うむ、今日の高野豆腐の味付けには椎茸も入っていて合格」、「この卵料理には日本酒を入れていないから今いちだね」、と言う日があったりして一概には断言できません。
ちょっと汚い事を書きますが、それも従来の母には見られなかった行動です。それは、
私達もよくする事ではありますが、堅くて噛みきれなかったものや魚の骨などの食事中に自分の口から吐き出したモノです。例えば、野菜の堅い繊維の部分などを無理に飲み込まずに味噌汁椀や空になった小皿などに入れる事です。それ自体は問題無いのですが、フッと気づけば今度はそれをおかずだと思って食べ始めているのです。中身の残っている味噌汁椀に捨てている場合、それ自体を味噌汁だと思ってしまって飲み始めています。注意すると・・、「何故に味噌汁を取り上げるんだ」、と怒るんです。「中身は食べかすじゃないか」、と言っても、「そんな事はない」、と言います。
それに、食べ終ったご飯茶碗にお茶を入れ、今度は醤油を入れて飲み始める事があるから私と嫁はうかうかとTVさえ見る事ができません。
異常行動なんですが決して異常者扱いをしてはいけません。我々だって近い将来にはそうなるんです。
最近作った[母の童歌]や以前作った[蝉しぐれ]にも出てくるイサム兄さんは母とは11歳違いの実兄で、正式には河内勇と言います。母とは一回りも歳が違うために、「イサム兄しゃま」、と呼んだり、「おじちゃん」、と呼んでいたと母は言います。この勇さんは高等師範学校を出た後に数学の教師をしていたのですが、鹿町炭坑を開いた伯父の濱野治八に誘われ、長男の河内進氏と共に鹿町炭坑の経営にあたります。母の母親は腎臓病の為に48歳で没しました。その母親の体質を受継いでいた母は平戸の女学校を出た頃には山口県にある有名な俵山温泉に長期の湯治で滞在していたとか。男2人、女3人の兄弟のなかで歳の離れた末っ子の母は本当に自由気ままな暮らしが許されたんだと思います。この滞在費用は鹿町炭坑の社長になっていた長男の河内進さんが負担してくれています。
やがて、鹿町炭坑から大量の石炭を購入して四国で幅広く塩田業を展開していた方の息子さんとの縁談を父親(河内松若)が強引に勧めるようになります。その塩田業の方は母の事を、「嬢ちゃん、嬢ちゃん」、と可愛がり、高価な指輪をお土産にくれたり、それはとても気に入ってくれていたそうですが、母は、「嫌っ」、だったそうです。
母は歌が浦の町から逃げるように博多へ出て、当時では珍しい英文タイピストの養成学校に通う事になったのです。
☆始めての親友。みね子さんとの出合い。
この博多の町で通った英文タイプの講師を努めていたのが[水無月の頃]の詩に出てくるみね子さんでした。このみね子さんは後に母が取り持った縁談で鹿町町深江免江迎にある砂田旅館へ嫁ぐ事になりますが、タイピストとして就職した母の下宿に押し掛けて来て同居をする程の仲良しになったようです。母とは違って結構な派手好きな方だったらしく、深夜まで遊んで下宿に戻っては潔癖な母と口論になったりする事もあったと母は言います。現在、この砂田みね子さんは佐賀県のグループホームで元気に暮らしておられるようです。
☆2008.8.6。母の食事の変化を観察する日々。
5月に[母の童歌]を作って以降、7月5日の山鹿市でのコンサートの準備、7月21日の益城町でのうらた剛さんのコンサートの手伝いのあって6月、7月は詩作や曲作りが全くできませんでした。この3ヶ月ほどは母の食欲が落ちてきた事があって、どんな料理に箸を伸ばし、具材にしてもどのくらいの硬さならいいのか、どんな色に興味を持つか、皿の形や色も食欲と関係があるのだろうかと、母の食事の傾向をチェックする日が続いています。皆さんのご家庭のお年寄りはどうなんでしょうね。母の食事で気がついた分だけでも書いてみたいと思います。
1. 食べ方として、お吸い物や味噌汁とご飯だけで食べ始め、汁物が終れば次の一品とご飯、それを食べ終れば次の一品とご飯・・、というような食べ方をします。それも小さい皿に盛った料理から食べるようです。例えば、味噌汁とご飯、刺身とご飯、酢の物とご飯・・みたいな食べ方です。結果的に魚料理や肉料理が一品残ったりしますから、それがその日のメイン料理であったりすると満遍なく食べていないから栄養的には偏ってしまいます。
2. 例えば、刺身と天ぷらがあったとします。途中で刺身にソースをつけて食べたり、サラダに添えたマヨネーズをつけたりして食べ始めます。まあ、カルパッチョを食っているんだと思えば何でもない事ですが、そうではありません。醤油とソースの味覚が区別できていないようなんです。
かと言って、母の好きな高野豆腐や卵料理などには口うるさく、「うむ、今日の高野豆腐の味付けには椎茸も入っていて合格」、「この卵料理には日本酒を入れていないから今いちだね」、と言う日があったりして一概には断言できません。
ちょっと汚い事を書きますが、それも従来の母には見られなかった行動です。それは、
私達もよくする事ではありますが、堅くて噛みきれなかったものや魚の骨などの食事中に自分の口から吐き出したモノです。例えば、野菜の堅い繊維の部分などを無理に飲み込まずに味噌汁椀や空になった小皿などに入れる事です。それ自体は問題無いのですが、フッと気づけば今度はそれをおかずだと思って食べ始めているのです。中身の残っている味噌汁椀に捨てている場合、それ自体を味噌汁だと思ってしまって飲み始めています。注意すると・・、「何故に味噌汁を取り上げるんだ」、と怒るんです。「中身は食べかすじゃないか」、と言っても、「そんな事はない」、と言います。
それに、食べ終ったご飯茶碗にお茶を入れ、今度は醤油を入れて飲み始める事があるから私と嫁はうかうかとTVさえ見る事ができません。
異常行動なんですが決して異常者扱いをしてはいけません。我々だって近い将来にはそうなるんです。
2008年11月15日
・同居記録:51
☆2008.7.30。作品の数々を振返れば様々な状況を思い出す
思い起こせば、2006年には1年間で13曲を作っています。やはり、母が骨折して入院した事で日常が多忙になり、多忙になるが故に考える事が多くなり書く詩も増え、更に退院後にはリハビリ施設への入所もあり、結果的に詩の作風に変化が生じました。詩が変われば旋律にも影響があって多くの曲を作る事になったのだと思っています。母が入院したのが2005年12月2日。リハビリ施設を退所したのがこの2006年7月です。いろいろと思う事が多くありました。
あの日、2005年の12月2日。例え杖の助けを借りろうが母はこの日を最後に2度と自分の足で歩く事ができなくなったのです。2006年7月、退所後の母の姿を見た時、「もう、母との楽しい出来事ばかりを書く事はできない」、と思いました。そして、8月10日に私達は母が育った北松浦郡の歌が浦を訪ねました。
その8月の後半の2週間で[潮騒の町、老いを嘆かないで、DOLL、水無月の頃、ふる里へ帰ろう]、という5曲を作りました。何と3日で1作品を書くというピッチでした。
私の作風が劇的に変わったのは実は、この2006年の8月からなんです。この2006年に作った13曲は私の失望の日々が書かせたんだと思います。
ただ、学生時代などは一ヶ月で15曲、年に130曲は平気で書いていました。そして、次から次へと忘れてしまうんです。譜面にも丁寧に書くのですが、その譜面をどこに置いたかを忘れてしまうという・・、私の物忘れ、歌詞忘れは今に始まった事ではなく、昔から徹底していたようです。凄く神経質に見られるんですが、私には妙におっとりしたところがあるようです。
☆よく聴かれる声。CDに収録する作品数の問題。その他。
CD:1は13曲、CD:2には14曲を収録しています。「尚宏、1枚のCDにしては曲が多過ぎる」、と長崎の姉は言い続けていました。
最初の頃はCD化などする気もなく、ただただ友人や知人に配っていたんです。野球仲間にも。それは母との同居を始めた事で付合いが薄くなってしまった事に対する言訳でもあったのですが、どうせ言訳するなら1枚のCDにぎゅうぎゅうと沢山の作品を詰め込んでいた方が言い訳になりやすいと判断したからです。
その流れがあってCD:2を作り始めました。このCD:2を作り出した頃の母は骨折入院とリハビリ入所で約7ヶ月間を費やしました。そして、母の心のメンテナンスにと母の故郷を訪ねたりして、母も含めて私達の2005年末から2006年末の間の暮らしは騒々しいものでした。だから、CD:2に対する私の思い入れはとても強いものがありました。母の苦難、私の涙の全てを書いてやろうと思いました。
ただ、1枚目のCD:1に13曲を入れていたが為、CD:2にもそれなりの数の作品を入れなければいけないというトラウマに陥っていました。だから、例えば作品的にはイントロや間奏に8小節欲しいのに4小節で済ませてみたり、1番の後に間奏を使いたいのに使わずに2番を唄い出さないといけないような作り方になった作品が幾つかあります。私は一つの作品を書く時にはイントロや間奏に対しては凄い比重を置きます。路上パフォーマーやTVでもよく見かけますが、イントロ(前奏を)弾かずにジャンジャカジャンとコードストロークだけで唄に入りますね。あれは作品としては未完成であって音楽ではないですね。
話を戻せば、既に、昨年から幾つかのサイトからの打診があって提案されている事ではありますが、
今後にインターネットでのダウンロード配信やCD販売があるとすれば、1枚のCDアルバムは9曲入り程度になり、CD:1、CD:2、CD:3、CD:4のようになるのではないかと思っています。勿論、ワンコーラスだけの現在のネット無料配信は継続し、CDによる現物の短縮試聴版も継続します。今後もいろんなアドバイスを頂きたいと思います。
☆学生時代の仲間によく指摘される[ピエロ]、[人間不信のサンバ]、[君よ星になれ]、等々について。
学生時代につくった作品についていろんな書込みを頂きます。[ピエロ]は正確には[私はピエロ]ですが、恥ずかしい話ですが完全には憶えていないんです。。。
この[私はピエロ]を含め、[君よ星になれ]、その他にも当時にレコード化のお話があった作品が数十曲。断った末に詩曲だけ、詩だけの供給を提案されたのが数十曲あった記憶はありますが、今の私の手元にはその残骸さえ残っていません。
また、数人の方から、「母に生命を返す時」という介護生活模様を語る作品作りとは一線を引いた、私本来の作風を全面に出したロックンロールやバラッドの作品を発表したらどうだ」、という声があるのですが・・、どうなんでしょう。嫁も、「どうせなら貴方の全てを見せて聴かせて頂戴」、と以前から催促していて、私自身も考えた時期はありましたが、この10ヶ月間は母の夜間のトイレタイムのお世話で睡眠不足だし・・、かと言って野球もしたいし考え込みます。恐らく、作るとしたら発表する際には高橋尚宏ではないと思うのです。
☆当たり前の話ですが・・。スランプって自分自身で勝手に作り出すもの。
若い頃の作品作りってテンポが速く、年齢を重ねていくと遅くなります。例えば、詩が書けなくなったプロの作詞家の中には、「スランプだ、俺にはもう詩なんて書けない」、と格好つける人がいると聞きます。こんな考えをする人は既にプロではないんです。私に言わせれば、作詞家はプロである必要なんてないと思っています。
若い頃には経験も観察力も分析力も薄く、それだから素直な詩を書くんです。喜びを喜びのままに表現できます。やがて、悩みが襲いますが、今度はその悩みを素直に書けるんです。若い、経験がない、という事は武器にもなっているんです。
処が、歳を重ねて人生経験を積んでくると、今の自分の感動や驚きを詩に書こうとすると、「そうじゃないだろう」、と思う自分が感動をしている自分を否定するんです。何かに対する感動を書き始めた途端、詩を書く一方でその感動を分析するものだから素直な表現ができなくなり、「あー、馬鹿らしい」、とペンが進まなくなってしまうんです。何かをしようとすると結果が見えるんですね。感動する自分自身をことごとく分析してしまう自分自身が全ての可能性を否定するんです。対象が違えば、環境が変わればやって見ないと、書いてみないと分らないものなのに・・・。
☆その延長で語れば・・。
最近は嫌な事件ばかりが起きます。哀れみようのない事件と言うか変質的な事件ばかりです。「構って欲しかった、目立てばそれで良かった、親に仕返しをしょうと思った」、だと?。気合い入れてやりたくなります。私がJAGUARSという社会人チームと高校・大学生で構成された野武士という2つの草野球チームを持っていた頃の話をします。
よく私はノックの際には打球を回転させたバウンドボールを打っていました。何故、練習のノックくらいでそんなに捕球の難しいボールを打つかと言うと、私なりの理由があったんです。
試合でよくあるボテボテのボールはバットがボールの芯からずれて当って回転しているケースが多く、内野手の直前で大きく跳ねたりしてイレギュラーするんです。守備力のしっかりしたチーム通しの戦いって、一つのイレギュラーバウンドで勝敗が決する事が多いもんです。そうした根拠があって私の行なうノックを受けたくて他のチームの選手までが参加するという評判を買っていたほどです。
処が、この私のノックで突指をした選手がいました。当の本人は、「オッス、大丈夫です」、と言って帰るのですが、この突指は3時間くらいすると腫上がるんです。
「おい、JAGUARSの監督かい、よくもうちの息子に突指をさせてくれたな」、と絡む馬鹿な親が結構いるんです。
「突指をさせたんじゃなく、あんたの息子がしたのさ」、「捕球技術が不十分で下手だから怪我をしたのさ。ほかの奴らは何ともないさ」、と言えば、「この野郎、俺の息子を何と思っとる。某○○高校には特待で呼ばれたんだぞ」、と益々絡んできます。
「そして、半年後にはレギュラーもとれずに白背番のままで、結局は退部して草野球を始めたんだろう・」、と私。とうとう最後には、「来週は息子は休ませてお前がグラウンドに出てこい」、と言ってしまいます。
一時期、この構い過ぎの親が多かったのですが、いつの間にか生きていくだけ、食べていくだけでも難しくなった世の中で親子の触合いまでがなくなってしまったようです。
兄弟でモノを奪い合う、それを親が言い聞かせて仲直りさせては親の権威を示す。母親はそばで微笑んでいる。目の前には大塚のボンカレー?。そんな時代が懐かしいと思いませんか?。
「兄ちゃん」、と弟が兄を見上げれば、「あー、うるさいな」、と兄。その兄は女みたいに眉毛抜きに夢中になり、ピチャピチャと顔を叩いて化粧水をつけ、「ゲーセンで女が待ってる」、と最後にはフェロモン入りのオーデコロンまでつけて出掛けるご時世です。処が、こんな奴でも野球すれば結構上手くて、草でもレギュラーとっている奴はゴロゴロ。監督に至っては鼻ピアスしている奴だっているんです。変な日本になってしまいました。知合いの自衛隊員にも似たような奴がいます。部隊では凛々しい隊員振りですが、自宅に戻れば鼻ピアス、耳ピアスをつけて町に繰り出しています。今や日本中が目立ちたがり屋、構って欲しがり屋の人種ばかりのような気がします。
思い起こせば、2006年には1年間で13曲を作っています。やはり、母が骨折して入院した事で日常が多忙になり、多忙になるが故に考える事が多くなり書く詩も増え、更に退院後にはリハビリ施設への入所もあり、結果的に詩の作風に変化が生じました。詩が変われば旋律にも影響があって多くの曲を作る事になったのだと思っています。母が入院したのが2005年12月2日。リハビリ施設を退所したのがこの2006年7月です。いろいろと思う事が多くありました。
あの日、2005年の12月2日。例え杖の助けを借りろうが母はこの日を最後に2度と自分の足で歩く事ができなくなったのです。2006年7月、退所後の母の姿を見た時、「もう、母との楽しい出来事ばかりを書く事はできない」、と思いました。そして、8月10日に私達は母が育った北松浦郡の歌が浦を訪ねました。
その8月の後半の2週間で[潮騒の町、老いを嘆かないで、DOLL、水無月の頃、ふる里へ帰ろう]、という5曲を作りました。何と3日で1作品を書くというピッチでした。
私の作風が劇的に変わったのは実は、この2006年の8月からなんです。この2006年に作った13曲は私の失望の日々が書かせたんだと思います。
ただ、学生時代などは一ヶ月で15曲、年に130曲は平気で書いていました。そして、次から次へと忘れてしまうんです。譜面にも丁寧に書くのですが、その譜面をどこに置いたかを忘れてしまうという・・、私の物忘れ、歌詞忘れは今に始まった事ではなく、昔から徹底していたようです。凄く神経質に見られるんですが、私には妙におっとりしたところがあるようです。
☆よく聴かれる声。CDに収録する作品数の問題。その他。
CD:1は13曲、CD:2には14曲を収録しています。「尚宏、1枚のCDにしては曲が多過ぎる」、と長崎の姉は言い続けていました。
最初の頃はCD化などする気もなく、ただただ友人や知人に配っていたんです。野球仲間にも。それは母との同居を始めた事で付合いが薄くなってしまった事に対する言訳でもあったのですが、どうせ言訳するなら1枚のCDにぎゅうぎゅうと沢山の作品を詰め込んでいた方が言い訳になりやすいと判断したからです。
その流れがあってCD:2を作り始めました。このCD:2を作り出した頃の母は骨折入院とリハビリ入所で約7ヶ月間を費やしました。そして、母の心のメンテナンスにと母の故郷を訪ねたりして、母も含めて私達の2005年末から2006年末の間の暮らしは騒々しいものでした。だから、CD:2に対する私の思い入れはとても強いものがありました。母の苦難、私の涙の全てを書いてやろうと思いました。
ただ、1枚目のCD:1に13曲を入れていたが為、CD:2にもそれなりの数の作品を入れなければいけないというトラウマに陥っていました。だから、例えば作品的にはイントロや間奏に8小節欲しいのに4小節で済ませてみたり、1番の後に間奏を使いたいのに使わずに2番を唄い出さないといけないような作り方になった作品が幾つかあります。私は一つの作品を書く時にはイントロや間奏に対しては凄い比重を置きます。路上パフォーマーやTVでもよく見かけますが、イントロ(前奏を)弾かずにジャンジャカジャンとコードストロークだけで唄に入りますね。あれは作品としては未完成であって音楽ではないですね。
話を戻せば、既に、昨年から幾つかのサイトからの打診があって提案されている事ではありますが、
今後にインターネットでのダウンロード配信やCD販売があるとすれば、1枚のCDアルバムは9曲入り程度になり、CD:1、CD:2、CD:3、CD:4のようになるのではないかと思っています。勿論、ワンコーラスだけの現在のネット無料配信は継続し、CDによる現物の短縮試聴版も継続します。今後もいろんなアドバイスを頂きたいと思います。
☆学生時代の仲間によく指摘される[ピエロ]、[人間不信のサンバ]、[君よ星になれ]、等々について。
学生時代につくった作品についていろんな書込みを頂きます。[ピエロ]は正確には[私はピエロ]ですが、恥ずかしい話ですが完全には憶えていないんです。。。
この[私はピエロ]を含め、[君よ星になれ]、その他にも当時にレコード化のお話があった作品が数十曲。断った末に詩曲だけ、詩だけの供給を提案されたのが数十曲あった記憶はありますが、今の私の手元にはその残骸さえ残っていません。
また、数人の方から、「母に生命を返す時」という介護生活模様を語る作品作りとは一線を引いた、私本来の作風を全面に出したロックンロールやバラッドの作品を発表したらどうだ」、という声があるのですが・・、どうなんでしょう。嫁も、「どうせなら貴方の全てを見せて聴かせて頂戴」、と以前から催促していて、私自身も考えた時期はありましたが、この10ヶ月間は母の夜間のトイレタイムのお世話で睡眠不足だし・・、かと言って野球もしたいし考え込みます。恐らく、作るとしたら発表する際には高橋尚宏ではないと思うのです。
☆当たり前の話ですが・・。スランプって自分自身で勝手に作り出すもの。
若い頃の作品作りってテンポが速く、年齢を重ねていくと遅くなります。例えば、詩が書けなくなったプロの作詞家の中には、「スランプだ、俺にはもう詩なんて書けない」、と格好つける人がいると聞きます。こんな考えをする人は既にプロではないんです。私に言わせれば、作詞家はプロである必要なんてないと思っています。
若い頃には経験も観察力も分析力も薄く、それだから素直な詩を書くんです。喜びを喜びのままに表現できます。やがて、悩みが襲いますが、今度はその悩みを素直に書けるんです。若い、経験がない、という事は武器にもなっているんです。
処が、歳を重ねて人生経験を積んでくると、今の自分の感動や驚きを詩に書こうとすると、「そうじゃないだろう」、と思う自分が感動をしている自分を否定するんです。何かに対する感動を書き始めた途端、詩を書く一方でその感動を分析するものだから素直な表現ができなくなり、「あー、馬鹿らしい」、とペンが進まなくなってしまうんです。何かをしようとすると結果が見えるんですね。感動する自分自身をことごとく分析してしまう自分自身が全ての可能性を否定するんです。対象が違えば、環境が変わればやって見ないと、書いてみないと分らないものなのに・・・。
☆その延長で語れば・・。
最近は嫌な事件ばかりが起きます。哀れみようのない事件と言うか変質的な事件ばかりです。「構って欲しかった、目立てばそれで良かった、親に仕返しをしょうと思った」、だと?。気合い入れてやりたくなります。私がJAGUARSという社会人チームと高校・大学生で構成された野武士という2つの草野球チームを持っていた頃の話をします。
よく私はノックの際には打球を回転させたバウンドボールを打っていました。何故、練習のノックくらいでそんなに捕球の難しいボールを打つかと言うと、私なりの理由があったんです。
試合でよくあるボテボテのボールはバットがボールの芯からずれて当って回転しているケースが多く、内野手の直前で大きく跳ねたりしてイレギュラーするんです。守備力のしっかりしたチーム通しの戦いって、一つのイレギュラーバウンドで勝敗が決する事が多いもんです。そうした根拠があって私の行なうノックを受けたくて他のチームの選手までが参加するという評判を買っていたほどです。
処が、この私のノックで突指をした選手がいました。当の本人は、「オッス、大丈夫です」、と言って帰るのですが、この突指は3時間くらいすると腫上がるんです。
「おい、JAGUARSの監督かい、よくもうちの息子に突指をさせてくれたな」、と絡む馬鹿な親が結構いるんです。
「突指をさせたんじゃなく、あんたの息子がしたのさ」、「捕球技術が不十分で下手だから怪我をしたのさ。ほかの奴らは何ともないさ」、と言えば、「この野郎、俺の息子を何と思っとる。某○○高校には特待で呼ばれたんだぞ」、と益々絡んできます。
「そして、半年後にはレギュラーもとれずに白背番のままで、結局は退部して草野球を始めたんだろう・」、と私。とうとう最後には、「来週は息子は休ませてお前がグラウンドに出てこい」、と言ってしまいます。
一時期、この構い過ぎの親が多かったのですが、いつの間にか生きていくだけ、食べていくだけでも難しくなった世の中で親子の触合いまでがなくなってしまったようです。
兄弟でモノを奪い合う、それを親が言い聞かせて仲直りさせては親の権威を示す。母親はそばで微笑んでいる。目の前には大塚のボンカレー?。そんな時代が懐かしいと思いませんか?。
「兄ちゃん」、と弟が兄を見上げれば、「あー、うるさいな」、と兄。その兄は女みたいに眉毛抜きに夢中になり、ピチャピチャと顔を叩いて化粧水をつけ、「ゲーセンで女が待ってる」、と最後にはフェロモン入りのオーデコロンまでつけて出掛けるご時世です。処が、こんな奴でも野球すれば結構上手くて、草でもレギュラーとっている奴はゴロゴロ。監督に至っては鼻ピアスしている奴だっているんです。変な日本になってしまいました。知合いの自衛隊員にも似たような奴がいます。部隊では凛々しい隊員振りですが、自宅に戻れば鼻ピアス、耳ピアスをつけて町に繰り出しています。今や日本中が目立ちたがり屋、構って欲しがり屋の人種ばかりのような気がします。
2008年11月14日
・同居記録:50
☆嫁が、「貴方は草野球が生甲斐ではなかったのか・・、」、と。
辛抱は辛いですね。私は夏の暑さが大好きです。この猛暑続きの夏には猛烈に野球の事を考えます。この数年は野球とは絶縁状態とは言え、事情を知らないチームからは試合の申し込みがあったり、事情を知っているチームの監督さん達からでも助っ人依頼の電話がしょっちゅうです。こんな事を考え出すと胸が苦しくなりますね。
一昨日、嫁が、「野球・・、始めなさいよ」、と言いました。もう、監督として一つのチームを持つ事は経済的にも不可能ですが40~58歳までが参加できるシニアクラブには戻る事ができますが、戻れる保証はありません。ショートと捕手の兼任で5番を務めていた私が姿を消して以来、数人からは逆恨みを買っているとも聞いていますからどうなんでしょうか。いっその事、別なチームを探そうかとも思いますが試合で元の仲間と戦うは嫌だし、迷っています。せめて、草野球生活に戻れたら月に1回でもと思いますが、レギュラーとれるのは間違いない事だからそんな参加数だと迷惑を掛けるし、と考え込みます。
母は在宅でも車椅子生活になってしまいましたから、日曜日の6:00~10:00という早朝野球への復帰は不可能でもない気がしています。
☆老いてさえ発揮する母の技術に唖然。
文化の違い、生きた時代の違い、と言ってしまえばそれまでですが、それだけでは済ませられない事が沢山ありますね。日常生活の中で95際になる母を頼る場面はまだまだあります。私は木工や電工、料理、草むしり以外にも廃木の加工も大好きです。猫の首輪作り、ボタン付なども嫌いではありません。人が嫌がる細かい作業が性に合うんです。
先日、今は使っていない2楷の私の部屋から草野球をしていた頃に監督賞として部員に与えていた涼しいメッシュのユニフォームタイプのシャツが4枚出てきたんです。懐かしいJのマークの刺繍が入っています。でも、着ようとしたら少々どころか随分と小さいんです。筋トレとステロイド効果だと思いますが首や肩から腕にかけての筋肉が盛上がってしまってフリーサイズのシャツが着れません。そこで、ボタンの位置を2Cm程ずらそうと思ったのですが、針に糸を通すのはいいのですが糸の末端を丸めてコブを作るのが私は苦手なんです。
「あー、くそ」、「えー、このやろ」、と頑張るのですが、どうもうまく結べません。私の膝元で暑さでダラーっと横になっていた猫のチッチさんがムクっと起き上がって針を持つ私の手をペロッと舐めるから益々苛つきます。
「そこ、どけ。危ないだろうが」、と言う私に、「うふ、貴方はどうしようもないわね」、と言った訳ではありませんが、言っているような、笑っているように見えるから尚更に苛ついてきます。
「あんたは・・、そんな汚い言葉は使うもんじゃないよ。一体、何を苛ついとっとね」、と母が気づきました。「この糸が結べんのさ」、と私。
「どれ、貸してご覧」、と言う母は私から受取った糸の末端を片手で器用に一瞬にして丸めて結ぶのです。
「シャツの色が4色だから糸を選んでよこしなさい」、と母。私は、「むむっ、・・・」、「あれれ、・・・」。
その素早い事。あっという間に母は4本の色違いの糸の末端を丸く結んでくれました。お陰様でシャツを着れるようになり、今では普段着にパジャマの上衣代りにとご機嫌な最近の私です。それにしても母の糸結びの技術の凄さには敬服。95歳だからこそ出来る技でしょうね。
☆2008.7.29。午前、久し振りに喫茶ブリランテへ。
熊本市の健軍電停から益城に向かう所に桜木という町があります。自衛隊OBと言われる石橋さんご夫婦が自宅のそばで経営される喫茶・ブリランテはアマチュア写真家、CGアーテイスト、路上パフォーマーなど多岐に渡る人達が集まる喫茶店で有名な場所で、マスコミ関係者も結構来店するようです。私の場合は約2年前にNHKのデイレクターに連れて行かれたのが通い始めの切っ掛けになりました。しかし、昨年はここの69歳になられるご主人が重度のヘルペスの為に入院されたりしていた時期もあって、それ以来、すっかりご無沙汰気味になっていました。
仕事の振り分け上、今朝は午前中の勤務がなくなった事もあって、母をデイに連れて行った足でそのままブリランテに向かいました。石橋さん、暑い中で麦わら帽子をかぶり、タオルを首に無心に草むしりをされていましたね。目に非常に力があるという表現がピッタリの石橋さんは69歳とは言え骨太で筋骨逞しいがっしりした方です。小柄な方ですが、恐らく腕相撲しても勝てないような気がします。「骨太なのは百姓出身だからね」、と言われますが、武士のような雰囲気を漂わせている方です。営業時間は正午からの為、喫茶店には入らずに立ち話のままでご無沙汰していた無礼を詫び、母の近況をお伝えして35曲入りの短縮版CDを差し上げてお別れしました。
☆CD制作、そして販売、コンサートの事。応援して頂く方々の事。今後の方向など。
2008年5月に[風に吹かれて]、[母の童歌]を書きました。この2008年は既に7作品を書き、快調に飛ばしているようですが、今後の作品作りはペースが落ちるのかなっていう気がしています。仕事の事、母の事、コンサートの事やらいろいろと考える事が増えてきているのは事実です。
私の中では明確に優先順位はあるのですが、例えば、CD制作にしてもコンサート活動にしてもそれぞれに周囲の応援してくれる方々が純粋な気持ちで本気を出してこられているような気がしているんです。
私は体制作りさえできればコンサートもドンドンしたいと思うし、先が見えなくなった本業よりも収入になるような気がしないではありません。
先日ですが、某配信サイトからは、「無料配信とは言え、この半年間のダウンロード数は数十万人を記録していて、普通だと数字が増えるペースが落ち始める時期なのに、逆に上がるピッチが早くなっている。
これは全国の介護家庭に確実に浸透し始めた証拠だと言われ、仮に1曲を有料で¥60くらいにセットし、有料にしたが為にダウンロード数が30%程度に落ちたとしても月に¥○○くらいになり、これにCDの現物販売を加えると・・」、という試算が連絡されました。その数字は私の今の月の収入の3.5倍くらいだったんです。私にも多少の欲がないとは言えませんが、音楽を作る事が身近なだけにそうした発想をする機会がないものだから驚いています。
辛抱は辛いですね。私は夏の暑さが大好きです。この猛暑続きの夏には猛烈に野球の事を考えます。この数年は野球とは絶縁状態とは言え、事情を知らないチームからは試合の申し込みがあったり、事情を知っているチームの監督さん達からでも助っ人依頼の電話がしょっちゅうです。こんな事を考え出すと胸が苦しくなりますね。
一昨日、嫁が、「野球・・、始めなさいよ」、と言いました。もう、監督として一つのチームを持つ事は経済的にも不可能ですが40~58歳までが参加できるシニアクラブには戻る事ができますが、戻れる保証はありません。ショートと捕手の兼任で5番を務めていた私が姿を消して以来、数人からは逆恨みを買っているとも聞いていますからどうなんでしょうか。いっその事、別なチームを探そうかとも思いますが試合で元の仲間と戦うは嫌だし、迷っています。せめて、草野球生活に戻れたら月に1回でもと思いますが、レギュラーとれるのは間違いない事だからそんな参加数だと迷惑を掛けるし、と考え込みます。
母は在宅でも車椅子生活になってしまいましたから、日曜日の6:00~10:00という早朝野球への復帰は不可能でもない気がしています。
☆老いてさえ発揮する母の技術に唖然。
文化の違い、生きた時代の違い、と言ってしまえばそれまでですが、それだけでは済ませられない事が沢山ありますね。日常生活の中で95際になる母を頼る場面はまだまだあります。私は木工や電工、料理、草むしり以外にも廃木の加工も大好きです。猫の首輪作り、ボタン付なども嫌いではありません。人が嫌がる細かい作業が性に合うんです。
先日、今は使っていない2楷の私の部屋から草野球をしていた頃に監督賞として部員に与えていた涼しいメッシュのユニフォームタイプのシャツが4枚出てきたんです。懐かしいJのマークの刺繍が入っています。でも、着ようとしたら少々どころか随分と小さいんです。筋トレとステロイド効果だと思いますが首や肩から腕にかけての筋肉が盛上がってしまってフリーサイズのシャツが着れません。そこで、ボタンの位置を2Cm程ずらそうと思ったのですが、針に糸を通すのはいいのですが糸の末端を丸めてコブを作るのが私は苦手なんです。
「あー、くそ」、「えー、このやろ」、と頑張るのですが、どうもうまく結べません。私の膝元で暑さでダラーっと横になっていた猫のチッチさんがムクっと起き上がって針を持つ私の手をペロッと舐めるから益々苛つきます。
「そこ、どけ。危ないだろうが」、と言う私に、「うふ、貴方はどうしようもないわね」、と言った訳ではありませんが、言っているような、笑っているように見えるから尚更に苛ついてきます。
「あんたは・・、そんな汚い言葉は使うもんじゃないよ。一体、何を苛ついとっとね」、と母が気づきました。「この糸が結べんのさ」、と私。
「どれ、貸してご覧」、と言う母は私から受取った糸の末端を片手で器用に一瞬にして丸めて結ぶのです。
「シャツの色が4色だから糸を選んでよこしなさい」、と母。私は、「むむっ、・・・」、「あれれ、・・・」。
その素早い事。あっという間に母は4本の色違いの糸の末端を丸く結んでくれました。お陰様でシャツを着れるようになり、今では普段着にパジャマの上衣代りにとご機嫌な最近の私です。それにしても母の糸結びの技術の凄さには敬服。95歳だからこそ出来る技でしょうね。
☆2008.7.29。午前、久し振りに喫茶ブリランテへ。
熊本市の健軍電停から益城に向かう所に桜木という町があります。自衛隊OBと言われる石橋さんご夫婦が自宅のそばで経営される喫茶・ブリランテはアマチュア写真家、CGアーテイスト、路上パフォーマーなど多岐に渡る人達が集まる喫茶店で有名な場所で、マスコミ関係者も結構来店するようです。私の場合は約2年前にNHKのデイレクターに連れて行かれたのが通い始めの切っ掛けになりました。しかし、昨年はここの69歳になられるご主人が重度のヘルペスの為に入院されたりしていた時期もあって、それ以来、すっかりご無沙汰気味になっていました。
仕事の振り分け上、今朝は午前中の勤務がなくなった事もあって、母をデイに連れて行った足でそのままブリランテに向かいました。石橋さん、暑い中で麦わら帽子をかぶり、タオルを首に無心に草むしりをされていましたね。目に非常に力があるという表現がピッタリの石橋さんは69歳とは言え骨太で筋骨逞しいがっしりした方です。小柄な方ですが、恐らく腕相撲しても勝てないような気がします。「骨太なのは百姓出身だからね」、と言われますが、武士のような雰囲気を漂わせている方です。営業時間は正午からの為、喫茶店には入らずに立ち話のままでご無沙汰していた無礼を詫び、母の近況をお伝えして35曲入りの短縮版CDを差し上げてお別れしました。
☆CD制作、そして販売、コンサートの事。応援して頂く方々の事。今後の方向など。
2008年5月に[風に吹かれて]、[母の童歌]を書きました。この2008年は既に7作品を書き、快調に飛ばしているようですが、今後の作品作りはペースが落ちるのかなっていう気がしています。仕事の事、母の事、コンサートの事やらいろいろと考える事が増えてきているのは事実です。
私の中では明確に優先順位はあるのですが、例えば、CD制作にしてもコンサート活動にしてもそれぞれに周囲の応援してくれる方々が純粋な気持ちで本気を出してこられているような気がしているんです。
私は体制作りさえできればコンサートもドンドンしたいと思うし、先が見えなくなった本業よりも収入になるような気がしないではありません。
先日ですが、某配信サイトからは、「無料配信とは言え、この半年間のダウンロード数は数十万人を記録していて、普通だと数字が増えるペースが落ち始める時期なのに、逆に上がるピッチが早くなっている。
これは全国の介護家庭に確実に浸透し始めた証拠だと言われ、仮に1曲を有料で¥60くらいにセットし、有料にしたが為にダウンロード数が30%程度に落ちたとしても月に¥○○くらいになり、これにCDの現物販売を加えると・・」、という試算が連絡されました。その数字は私の今の月の収入の3.5倍くらいだったんです。私にも多少の欲がないとは言えませんが、音楽を作る事が身近なだけにそうした発想をする機会がないものだから驚いています。
2008年11月13日
・同居記録:49
☆我家の猫は世話焼き。
「もう・・、貴方達はいつまで起きてるの!早く寝なさい、まったく・」、と我家の猫は大変な世話好きです。ご飯が炊けたよ。風呂の水が満タンになったよ。湧いてるよ。奥さんが帰ってきたから皆で玄関に並びましょ、と何かを感じる度に私をつつきます。どこの猫も同じなんですか?。
嫁が外出した時などは、「うふ、漸く二人きりになれたわね」、と私に言寄ってきて気持ちが悪くなる事もあります。私のCDを鳴らしていると、プレイヤーの前に座ってじっと聴いてくれます。よく観察していると我家のチッチさんは、[頑張れ!お袋]が鳴り始めると、「ちゅちゅっ、ちゅるっちゅ」、と唄うリズムに合わせてシッポを左右に振ります。猫って機嫌が悪い時にもシッポを振るし、子猫をあやす時にも振りますから、もしかすると[頑張れ!お袋]は耳障りなのかも知れません。それとも私をあやしているのかな・・。
☆2008.7.24.早朝、空白の時間にお袋が転倒。
6:20頃、お袋の部屋で、「ぎゃっ」、と言う声がした。「・・また、やったか」。
部屋に駆付けると母が部屋の中の水洗トイレの中で窮屈そうに倒れていた。右手の静脈が切れ、右手から出血がボタボタと床に垂れていて、傷は手首から肘の方にかけて15Cmにも達していた。私は咄嗟に両手で母の傷の部分を強く握って止血処理をし、その出血自体は問題なかったのだが起こそうとする嫁を制して、「そのままにしとけ」、と言うと、「何だと」、と母が私を睨みつける。
睨みつけるほどだから気力の減退もなく倒れた姿勢から頭は打っていないと判断。問題は足首や股関節を痛めていないかだ。兎も角、トイレの中とは言え静かに横にならせ、5分くらいして上半身を起こしてトイレのドアを背もたれにして冷たい水を飲ませて30分程度その姿勢で様子を見た。脈もしっかりしていて、吐き気もないのを確認して床に直に布団をひき寝かせた。ベッドに戻して横にでもしたら大変、再び歩き出そうとするからだ。
我家では夜中のトイレの世話は私の仕事。嫁は6:00には起きて朝食の準備とデイに出掛けるまでの母の世話と決めています。処が、低血圧(そうでもないのですが・・)気味の嫁は一度眠ると夜間に起きるのが辛いんです。それに、朝にも弱い。レスポンスが弱くて暫くボーッとしているんです。
夜間のトイレの世話は何回だろうが大だろうが小だろうが私がして、朝の世話は嫁がすると決めてはいても母はそんな事とは関係なく5:30分前後には必ず目を覚まして何かをしようとするんです。
目を覚ました母は床を這ってでも台所まで行ってご飯を炊こうとしたり、無い歯を磨き、顔を洗ってお化粧をしようとします。だから、私は母のトイレの世話以外にもう1回余分に起きる事になります。それは、目を覚ました母に、「朝飯は7:00からだからもう少しゆっくりと横になっていてくれ。部屋で動き回られると隣の部屋で寝ている俺が目を覚ましてしまうじゃないか」、と母に頼むのです。
そして、その一方で携帯電話を手にして2階に寝ている嫁に、「母が起きたぞ。後は頼むぞ」、と連絡をするんです。私から連絡を受けた嫁は6:00に起きて母の部屋に向かって顔を洗わせ、入歯を填めさせ着替えをさせてから食事の準備に掛かります。
こうして改めて私が起きるのは6:30~7:00です。だから、5:30~6:30が我家の[魔の時間帯]なんです。嫁が、「7:00迄ゆっくりとして下さい」、と母を再び寝かせつけても母には通じません。母は嫁を手伝おうとする目的で再びベッドから歩き出そうとするかも分りません。
この日、嫁は6:00に起きましたが、いつものように母の部屋に向かわずに台所に直行してしまったのです。これが転倒事故の第一原因。そして、母にもいつもとは違う事情がありました。朝から珍しく便意があったのです。これが第2原因でした。母は排便をベッドそばのPトイレにしようとは思わずにクローゼット跡に作った水洗トイレでしようと伝い歩きで歩を進めて転倒したのでした。
「何で歩こうとしたんだ。いつもそれが原因じゃないか」、と私。「歩ける者が歩いてどこが悪い」、と母。
もう、母は2005年暮れから2006年3月4日迄の骨折でN病院に入院していた事など全く憶えてはいませんし、退院後にリハビリの為にK施設にロングステイしていた事なども忘れています。
私の厳しい言葉の連発に、「イサムさんは優しい人だと思っとったのに・・」、と母が呟きました。
☆2008.7.28。母の足腰の各部に痛みが出始める。
嫁の左足骨折も確実に良くなってくれているようですが、母の世話に家事をビッコを曳きながらよく頑張っていると思います。皆様は私の事を、「あのような優しい詩が書けるのは観察力があるからだ」、と言われます。でも、その観察力が裏目に出る事もあるんです。観察力があるが為に口が悪い瞬間があるんです。そして、その犠牲者が嫁なんです。ついつい、言わなくてもいい事まで私は言ってしまっては嫁を傷つけてしまうんです。
さて、昨日から母の身体の各部に痛みが出始めました。転倒の翌日にはデイ施設でも眠っている瞬間があったとか、検査で問題がなくても転倒で頭部が揺れると疲れが出る事をご存知ですか?。脳が揺れると凄い疲労感が出るんです。気圧の変化でも疲労感が生じます。旅客機などでは気圧調整がしてあるから問題はありませんが、スカイダイビングなどで高所から飛び降りて地上に着地するまでの気圧の変化に耐えた後は凄い疲労感を感じます。
デイ施設に着くとトイレに行って母のスラックスを降ろして、液状のインドメタシン系の痛み止めを腰や股関節から大腿骨に繋がる一帯に塗布する(塗り過ぎると食欲が落ちたり胃が痛んだりします)毎日です。
「もう・・、貴方達はいつまで起きてるの!早く寝なさい、まったく・」、と我家の猫は大変な世話好きです。ご飯が炊けたよ。風呂の水が満タンになったよ。湧いてるよ。奥さんが帰ってきたから皆で玄関に並びましょ、と何かを感じる度に私をつつきます。どこの猫も同じなんですか?。
嫁が外出した時などは、「うふ、漸く二人きりになれたわね」、と私に言寄ってきて気持ちが悪くなる事もあります。私のCDを鳴らしていると、プレイヤーの前に座ってじっと聴いてくれます。よく観察していると我家のチッチさんは、[頑張れ!お袋]が鳴り始めると、「ちゅちゅっ、ちゅるっちゅ」、と唄うリズムに合わせてシッポを左右に振ります。猫って機嫌が悪い時にもシッポを振るし、子猫をあやす時にも振りますから、もしかすると[頑張れ!お袋]は耳障りなのかも知れません。それとも私をあやしているのかな・・。
☆2008.7.24.早朝、空白の時間にお袋が転倒。
6:20頃、お袋の部屋で、「ぎゃっ」、と言う声がした。「・・また、やったか」。
部屋に駆付けると母が部屋の中の水洗トイレの中で窮屈そうに倒れていた。右手の静脈が切れ、右手から出血がボタボタと床に垂れていて、傷は手首から肘の方にかけて15Cmにも達していた。私は咄嗟に両手で母の傷の部分を強く握って止血処理をし、その出血自体は問題なかったのだが起こそうとする嫁を制して、「そのままにしとけ」、と言うと、「何だと」、と母が私を睨みつける。
睨みつけるほどだから気力の減退もなく倒れた姿勢から頭は打っていないと判断。問題は足首や股関節を痛めていないかだ。兎も角、トイレの中とは言え静かに横にならせ、5分くらいして上半身を起こしてトイレのドアを背もたれにして冷たい水を飲ませて30分程度その姿勢で様子を見た。脈もしっかりしていて、吐き気もないのを確認して床に直に布団をひき寝かせた。ベッドに戻して横にでもしたら大変、再び歩き出そうとするからだ。
我家では夜中のトイレの世話は私の仕事。嫁は6:00には起きて朝食の準備とデイに出掛けるまでの母の世話と決めています。処が、低血圧(そうでもないのですが・・)気味の嫁は一度眠ると夜間に起きるのが辛いんです。それに、朝にも弱い。レスポンスが弱くて暫くボーッとしているんです。
夜間のトイレの世話は何回だろうが大だろうが小だろうが私がして、朝の世話は嫁がすると決めてはいても母はそんな事とは関係なく5:30分前後には必ず目を覚まして何かをしようとするんです。
目を覚ました母は床を這ってでも台所まで行ってご飯を炊こうとしたり、無い歯を磨き、顔を洗ってお化粧をしようとします。だから、私は母のトイレの世話以外にもう1回余分に起きる事になります。それは、目を覚ました母に、「朝飯は7:00からだからもう少しゆっくりと横になっていてくれ。部屋で動き回られると隣の部屋で寝ている俺が目を覚ましてしまうじゃないか」、と母に頼むのです。
そして、その一方で携帯電話を手にして2階に寝ている嫁に、「母が起きたぞ。後は頼むぞ」、と連絡をするんです。私から連絡を受けた嫁は6:00に起きて母の部屋に向かって顔を洗わせ、入歯を填めさせ着替えをさせてから食事の準備に掛かります。
こうして改めて私が起きるのは6:30~7:00です。だから、5:30~6:30が我家の[魔の時間帯]なんです。嫁が、「7:00迄ゆっくりとして下さい」、と母を再び寝かせつけても母には通じません。母は嫁を手伝おうとする目的で再びベッドから歩き出そうとするかも分りません。
この日、嫁は6:00に起きましたが、いつものように母の部屋に向かわずに台所に直行してしまったのです。これが転倒事故の第一原因。そして、母にもいつもとは違う事情がありました。朝から珍しく便意があったのです。これが第2原因でした。母は排便をベッドそばのPトイレにしようとは思わずにクローゼット跡に作った水洗トイレでしようと伝い歩きで歩を進めて転倒したのでした。
「何で歩こうとしたんだ。いつもそれが原因じゃないか」、と私。「歩ける者が歩いてどこが悪い」、と母。
もう、母は2005年暮れから2006年3月4日迄の骨折でN病院に入院していた事など全く憶えてはいませんし、退院後にリハビリの為にK施設にロングステイしていた事なども忘れています。
私の厳しい言葉の連発に、「イサムさんは優しい人だと思っとったのに・・」、と母が呟きました。
☆2008.7.28。母の足腰の各部に痛みが出始める。
嫁の左足骨折も確実に良くなってくれているようですが、母の世話に家事をビッコを曳きながらよく頑張っていると思います。皆様は私の事を、「あのような優しい詩が書けるのは観察力があるからだ」、と言われます。でも、その観察力が裏目に出る事もあるんです。観察力があるが為に口が悪い瞬間があるんです。そして、その犠牲者が嫁なんです。ついつい、言わなくてもいい事まで私は言ってしまっては嫁を傷つけてしまうんです。
さて、昨日から母の身体の各部に痛みが出始めました。転倒の翌日にはデイ施設でも眠っている瞬間があったとか、検査で問題がなくても転倒で頭部が揺れると疲れが出る事をご存知ですか?。脳が揺れると凄い疲労感が出るんです。気圧の変化でも疲労感が生じます。旅客機などでは気圧調整がしてあるから問題はありませんが、スカイダイビングなどで高所から飛び降りて地上に着地するまでの気圧の変化に耐えた後は凄い疲労感を感じます。
デイ施設に着くとトイレに行って母のスラックスを降ろして、液状のインドメタシン系の痛み止めを腰や股関節から大腿骨に繋がる一帯に塗布する(塗り過ぎると食欲が落ちたり胃が痛んだりします)毎日です。
2008年11月12日
・同居記録:48
☆2008.7.21.コンサートは最高に頑張りました。
出来自体はリハーサルの時の方が良かったかも・・。本番ではハウリングがあったり、唄っている声がオケより大きくてコロバシ(音声モニタースピーカー)の音がよく聞こえなくて大変な舞台になりました。でも、本番に強いというか、今回は浦田さんという大先輩に負けてはいけないという気持ちが心のどこかにあったのだと思います。私の場合はソロコンサートよりも競わせて貰うような立場を作って貰った方がいい結果が出るような気がしました。向井さん、福住さん始め、応援してくれる方々の笑顔を念じて舞台へ向かいました。北朝鮮による松木薫さん拉致問題は私の追い求めるテーマではない為、[薫の約束]という作品を書かれた浦田氏へインタビューをして貰う事で了承して貰いました。
熊本の介護協会?の副会長という方が出番の終わった私の元へ来られ、涙をポトポトと床に落ちるのも
構わずに、「介護生活そのものの貴方の詩に深く感動しました」、と言われましたね・・。兎も角、うらた剛氏のコンサートに少しでも役に立ったのかしらと思っています。さあ、暫く休んでいた作品作りにようやく移行できます。
☆2008.7.22.汗だくでお袋の入浴介助。「どう、少しは勉強になったね」、だと・・。
この処、1年近くは母の入浴介助に復帰していた嫁が前述のように左足を骨折した為、私が母の入浴介助に再び復帰。風呂を改装していて良かったと本当に感じます。使い勝手がよくなりました。でも、今日の熊本市は35.0度の猛暑だから大変。石鹸まみれになると滑って危険だから入浴介助というのは最も危ない介助作業の一つでしょうね。もう、汗だくで頑張りました。母は、「どう、少しは勉強になったね」、だと。いつもしている事じゃないかと言いかけましたがグッと我慢。
処で、母の頭を洗髪していて思うのですが、何だか髪の毛が黒くなっているような気がします。私が最近始めた頭部へのマッサージと無関係ではないような気がします。薄くなった自分の頭にもしてみよう。。。
☆2008.7.23。夢について。
嫁は貴方のCDにメジャーが注目してくれたらいいね、と言います。これは嫁の夢。一方、私はどこかの山小屋の管理人を委託されて自然を相手に畑を作ったりして暮らしたい、というのが夢です。これは今朝の夫婦の会話です。だから、妥協案としては、メジャーに誘われCDが出せて、全国のコンサートツアーを半年、山小屋の管理人を半年できる生活が夫婦の夢でしょうね。
さて、その夢なんですが、夢って10人が10人全員が実現できそうな事は夢じゃありません。どんなに努力しても100人中99人が実現できないものが夢だと思っています。次のような事も言えます。ある看護婦さんは本当は保母さんになるのが夢だったとします。一方、ある保母さんは実は看護婦になるのが夢だったとします。「そんな事くらい今からでも実現できるじゃないか」、と思いますよね。確かに2~3年間頑張れば実現できる可能性が誰にでも100%の確率でありますね。だから、この段階では夢ではなくて不満、或いは今の職業や生活に対する愚痴に過ぎず、熱意も冷めがちですから大して出世も望めません。人生はそうは簡単には歩けないんです。
例え今の職業を捨てて、夜学に通ってでも別な資格を得ようとしても日々の暮らしはどうするんですか?。既に結婚していて子供が2人もいたらどうしますか?。独身だったら尚更です。貴方を誰が支えるんですか。結局、親の存在があって今の自分があるんです。夢って目の前をフワフワと近づいたり遠のいたりしていて、掴もうとしてもなかなか掴めないものではないかと思いますね。
出来自体はリハーサルの時の方が良かったかも・・。本番ではハウリングがあったり、唄っている声がオケより大きくてコロバシ(音声モニタースピーカー)の音がよく聞こえなくて大変な舞台になりました。でも、本番に強いというか、今回は浦田さんという大先輩に負けてはいけないという気持ちが心のどこかにあったのだと思います。私の場合はソロコンサートよりも競わせて貰うような立場を作って貰った方がいい結果が出るような気がしました。向井さん、福住さん始め、応援してくれる方々の笑顔を念じて舞台へ向かいました。北朝鮮による松木薫さん拉致問題は私の追い求めるテーマではない為、[薫の約束]という作品を書かれた浦田氏へインタビューをして貰う事で了承して貰いました。
熊本の介護協会?の副会長という方が出番の終わった私の元へ来られ、涙をポトポトと床に落ちるのも
構わずに、「介護生活そのものの貴方の詩に深く感動しました」、と言われましたね・・。兎も角、うらた剛氏のコンサートに少しでも役に立ったのかしらと思っています。さあ、暫く休んでいた作品作りにようやく移行できます。
☆2008.7.22.汗だくでお袋の入浴介助。「どう、少しは勉強になったね」、だと・・。
この処、1年近くは母の入浴介助に復帰していた嫁が前述のように左足を骨折した為、私が母の入浴介助に再び復帰。風呂を改装していて良かったと本当に感じます。使い勝手がよくなりました。でも、今日の熊本市は35.0度の猛暑だから大変。石鹸まみれになると滑って危険だから入浴介助というのは最も危ない介助作業の一つでしょうね。もう、汗だくで頑張りました。母は、「どう、少しは勉強になったね」、だと。いつもしている事じゃないかと言いかけましたがグッと我慢。
処で、母の頭を洗髪していて思うのですが、何だか髪の毛が黒くなっているような気がします。私が最近始めた頭部へのマッサージと無関係ではないような気がします。薄くなった自分の頭にもしてみよう。。。
☆2008.7.23。夢について。
嫁は貴方のCDにメジャーが注目してくれたらいいね、と言います。これは嫁の夢。一方、私はどこかの山小屋の管理人を委託されて自然を相手に畑を作ったりして暮らしたい、というのが夢です。これは今朝の夫婦の会話です。だから、妥協案としては、メジャーに誘われCDが出せて、全国のコンサートツアーを半年、山小屋の管理人を半年できる生活が夫婦の夢でしょうね。
さて、その夢なんですが、夢って10人が10人全員が実現できそうな事は夢じゃありません。どんなに努力しても100人中99人が実現できないものが夢だと思っています。次のような事も言えます。ある看護婦さんは本当は保母さんになるのが夢だったとします。一方、ある保母さんは実は看護婦になるのが夢だったとします。「そんな事くらい今からでも実現できるじゃないか」、と思いますよね。確かに2~3年間頑張れば実現できる可能性が誰にでも100%の確率でありますね。だから、この段階では夢ではなくて不満、或いは今の職業や生活に対する愚痴に過ぎず、熱意も冷めがちですから大して出世も望めません。人生はそうは簡単には歩けないんです。
例え今の職業を捨てて、夜学に通ってでも別な資格を得ようとしても日々の暮らしはどうするんですか?。既に結婚していて子供が2人もいたらどうしますか?。独身だったら尚更です。貴方を誰が支えるんですか。結局、親の存在があって今の自分があるんです。夢って目の前をフワフワと近づいたり遠のいたりしていて、掴もうとしてもなかなか掴めないものではないかと思いますね。
2008年11月11日
♪:同居記録:47
☆2008.7.18。うらた剛氏のコンサート、いよいよ3日後。スイカ、ラーメンの話でも・・。
浦田剛氏のミュージックボランテイア300回達成記念、というのが正式呼称。実際には350回を越えるという。元プロミュージッシャンの不動産屋さんですが、景気はよくないはずです。何して食ってんだろうと思いますが年金があるとの事。時折、奥様がパートに行ったりされているようです。因みに私の今年のスイカの初食いはこの浦田さんの家でした。5月でしたか、浦田さんに呼ばれていった際、「暑かったろう」、「そうですね。こんな日に食べるスイカは美味いでしょうね」、と言っている最中に奥さんが、「ただ今帰りました」、と言ってスイカをぶら下げて玄関に立っておられたんです。
先日、7月13日にこのコンサートの打ち合せが終って、「帰りに豚骨こってりのラーメンでも食って帰りましょ」、と思ったその瞬間、司会進行を担当される高田さんが、「浦っさん、皆でラーメンでも食って帰りましょうよ」、と・・・、この現象って何なんでしょうネ。ついでに書くと、我家の買物だってそうなんです。
「あー、あれとあれを取合わせてあれを作って食いたいな」、と思っている通りの材料をパチンと嫁が買って帰るんです。
☆2008.7.19.「膝が痛い・・」、久し振りに母の膝痛が出る。「母ちゃん、午後には長崎から紘子がくるよ」。
「さあ、お母さん。学校(デイ)に出掛けますよ」、「芸子さん、私ゃここが痛いよ」。母が膝が痛いと言うのは2年半振り。梅雨が戻ったかのようなこの2、3日の雨と雨上がりの今日の高温による湿気が関節に痛みを呼び込んだようです。私の放置したままの腰椎分離骨折の場所にも多少の痛みがあります。今朝は経皮鎮痛消炎剤のボルタレン・ゲルを母の膝に塗布して家を出ましたが、暫く様子を見た後に鍼を打ってみようと思っています。鍼を打てば4日は収まるんです。
デイに行くいつもの北バイパスで、「あの何きゃ?(長崎の鹿町弁)・・ほら、・・」、と言う母の指さす方に立っている鉄塔。「どのくらいあっときゃ?」。「高さの事ね」、と私。「かかさって何ね」、と母。「かかさちゃ言うとらんよ、高ささ、長さを聞いとるんだろ?」、と私。「は・・、あんたは何の話をしたいのかが分からん」、と母は最初の質問の事をすっかり忘れているかと思えば、「いち、にー、さん、しー・・」、と数を数え始める。「何を数えとっとね」、と私。母はこの季節、春から梅雨を経て夏を迎える頃の熊本の緑が大好きです。北バイパスの左右に植えられた赤芝や桜の木などの数を数えながらデイ施設に向かいます。
最初のうちは相当の数まで数えていましたが、最近は10までが限度。悲しい事です。「何本あったね」、と私が聞くと10本以上は、「10本」、と答えます。こんな時に母の老いを感じます。こんな会話をしながらデイに向かううち、最近の私はその時の母がどの時代に居るのかが何となく分るようになりました。
「午後からは紘子が来るよ」、と私。「紘子?・・平戸から帰って来るとね」。「長崎の紘子さ」、と私。
母は、「…」、と暫しの沈黙後、「あのさ、私の子供は何人ね」、と言う。
☆2008.7.20.さあ、明日はうらた剛氏のゲストで30分のミニミニコンサート。
さあ、いよいよです。医療や介護関連の集まりの中で唄うという限られた条件下で開催された過去の私のコンサートですが、今回はいつもとは違う緊張感があって、それがピークに達しています。ただ、過去にも熊本のパラダイスガラージュや別府市の大塚博堂記念館で一般客を対象に唄いました。その印象で言えば介護問題は専門職を対象とするのもいいのですが、介護家族や一般客を対象とした場合には日常の切実さがより深く伝わるような気がしないでもありません。例えば、[DOLL]みたいな曲は介護現場で働く方々には容易に受容れられ、[潮騒の町]、[金木犀]のような曲は介護家族や一般客に受ける傾向にあります。[ホッホ]などは介護家族は泣きながら聴いてくれます、
さて、北朝鮮による拉致問題を扱ったうらた剛氏の[薫の約束]ですが、拉致されている松木薫さんのお姉さんが来場されるとか・・。司会者の高田氏が私のコメントを求める場面を作るという連絡を頂きましたが、どのように対処したらいいものか考え込んでしまいます。
浦田剛氏のミュージックボランテイア300回達成記念、というのが正式呼称。実際には350回を越えるという。元プロミュージッシャンの不動産屋さんですが、景気はよくないはずです。何して食ってんだろうと思いますが年金があるとの事。時折、奥様がパートに行ったりされているようです。因みに私の今年のスイカの初食いはこの浦田さんの家でした。5月でしたか、浦田さんに呼ばれていった際、「暑かったろう」、「そうですね。こんな日に食べるスイカは美味いでしょうね」、と言っている最中に奥さんが、「ただ今帰りました」、と言ってスイカをぶら下げて玄関に立っておられたんです。
先日、7月13日にこのコンサートの打ち合せが終って、「帰りに豚骨こってりのラーメンでも食って帰りましょ」、と思ったその瞬間、司会進行を担当される高田さんが、「浦っさん、皆でラーメンでも食って帰りましょうよ」、と・・・、この現象って何なんでしょうネ。ついでに書くと、我家の買物だってそうなんです。
「あー、あれとあれを取合わせてあれを作って食いたいな」、と思っている通りの材料をパチンと嫁が買って帰るんです。
☆2008.7.19.「膝が痛い・・」、久し振りに母の膝痛が出る。「母ちゃん、午後には長崎から紘子がくるよ」。
「さあ、お母さん。学校(デイ)に出掛けますよ」、「芸子さん、私ゃここが痛いよ」。母が膝が痛いと言うのは2年半振り。梅雨が戻ったかのようなこの2、3日の雨と雨上がりの今日の高温による湿気が関節に痛みを呼び込んだようです。私の放置したままの腰椎分離骨折の場所にも多少の痛みがあります。今朝は経皮鎮痛消炎剤のボルタレン・ゲルを母の膝に塗布して家を出ましたが、暫く様子を見た後に鍼を打ってみようと思っています。鍼を打てば4日は収まるんです。
デイに行くいつもの北バイパスで、「あの何きゃ?(長崎の鹿町弁)・・ほら、・・」、と言う母の指さす方に立っている鉄塔。「どのくらいあっときゃ?」。「高さの事ね」、と私。「かかさって何ね」、と母。「かかさちゃ言うとらんよ、高ささ、長さを聞いとるんだろ?」、と私。「は・・、あんたは何の話をしたいのかが分からん」、と母は最初の質問の事をすっかり忘れているかと思えば、「いち、にー、さん、しー・・」、と数を数え始める。「何を数えとっとね」、と私。母はこの季節、春から梅雨を経て夏を迎える頃の熊本の緑が大好きです。北バイパスの左右に植えられた赤芝や桜の木などの数を数えながらデイ施設に向かいます。
最初のうちは相当の数まで数えていましたが、最近は10までが限度。悲しい事です。「何本あったね」、と私が聞くと10本以上は、「10本」、と答えます。こんな時に母の老いを感じます。こんな会話をしながらデイに向かううち、最近の私はその時の母がどの時代に居るのかが何となく分るようになりました。
「午後からは紘子が来るよ」、と私。「紘子?・・平戸から帰って来るとね」。「長崎の紘子さ」、と私。
母は、「…」、と暫しの沈黙後、「あのさ、私の子供は何人ね」、と言う。
☆2008.7.20.さあ、明日はうらた剛氏のゲストで30分のミニミニコンサート。
さあ、いよいよです。医療や介護関連の集まりの中で唄うという限られた条件下で開催された過去の私のコンサートですが、今回はいつもとは違う緊張感があって、それがピークに達しています。ただ、過去にも熊本のパラダイスガラージュや別府市の大塚博堂記念館で一般客を対象に唄いました。その印象で言えば介護問題は専門職を対象とするのもいいのですが、介護家族や一般客を対象とした場合には日常の切実さがより深く伝わるような気がしないでもありません。例えば、[DOLL]みたいな曲は介護現場で働く方々には容易に受容れられ、[潮騒の町]、[金木犀]のような曲は介護家族や一般客に受ける傾向にあります。[ホッホ]などは介護家族は泣きながら聴いてくれます、
さて、北朝鮮による拉致問題を扱ったうらた剛氏の[薫の約束]ですが、拉致されている松木薫さんのお姉さんが来場されるとか・・。司会者の高田氏が私のコメントを求める場面を作るという連絡を頂きましたが、どのように対処したらいいものか考え込んでしまいます。
2008年11月10日
・同居記録:46
☆2008.7,17飢えた社会に生きる飢えた人間達。そこは境界のない動物園の檻の中。
先日、処刑が実行された宮崎勤って憶えています? 女性を10数年もの間監禁していた男の事は憶えていますか? 見知らぬ人を駅の構内から衝動的に線路に突き落とした馬鹿野郎なんて何人も居ますよね。佐世保の猟銃乱射事件、秋葉原の不特定連続殺人事件・・・、国土交通省の現役局長が絡む官制談合事件・・、決して大分県だけの話ではないはずの教育委員会ぐるみでの不正な教員採用・人事、校長・教頭採用試験・・、まるでTV映画のタイトルのような出来事が日常的に当たり前のように繰返されるようになりました。全ての事件が、「構って欲しかった」、「分らないだろうと思った」、と答えていますね。構って欲しいから目立つように大衆の面前で殺人事件を起こしてみたかったってか? そんな理屈は通らない。構って欲しいのなら、自分の額に[誰か私を構って下さい]と張り紙でもして、交差点の真ん中で自分の腹でも切ってみろと言いたいですね。
年金問題にしても、この熊本県の例を思い出せば、「戦後のある時期からの全県庁職員の厚生年金の天引き分(掛け金)を熊本県が別予算を設けて負担していた・・、この事件を憶えていますか? この不正の中で既に退職した人達は納める事のなかった不正な年金を不正受給し続けて悠々自適の暮らしをしている訳ですが、この事実が発覚した後の実態調査も何も公表されていないようです。
この日本という島国にはそうした慣習が至る所に残っています。特定郵便局があった頃は必ず息子が後を継いでいたし、警察官の子供はどんなに体格が劣っていても警察官になれる確率が高かった。だから、途中で辞める子供も沢山居ました。県庁マンなどは採用試験の結果に関係なく今でも6割は縁故採用だと聞きます。「あいつは誰の後押し、私は誰の口利きでした」、と現役県庁マンが言うんですからね。
昨今の事件がそうした縁故関係を証明しているんだから否定する事は出来ません。決して、結果ではなく原因が必ずあるんです。事件ではありませんが、政治の世界なんて養子縁組をさせてでも議席を確保しようと策を練ります。根本を断たない限り、今後もこのような事は続発します。不正を不正の温床の警察が取り調べる事も何か変ですね。警察ほど古い体質を維持している組織はないからです。日本の体質なんです。動物園には種類によって境界が設けられていますが、人間社会ってまるで境界(モラル)のない動物園だと思いませんか。一番、野蛮で汚い世界です。
☆一体、何に飢えているんだ?。神か・・?、それは違う。まずは心だ。
コンクリートジャングルに暮らしていると神の存在など考えなくなります。暑かろう寒かろうがエアコンスイッチを押せば快適な室温にしてくれます。暑いのは嫌だ、寒いのも嫌だ。季節なんて必要ないと考えます。腹が減ればコンビニに走ります。否、ピザの宅配だってあります。そこには優しい母親や弟思いの姉の存在も忘れさせる文化が既に蔓延ってしまっています。
戦後64年の今、ほぼ60歳代以下の者はそうして環境で育ってしまっているのです。神の存在、自然の怒りなど考える事などないままに生きてきたのです。既に神は様々な現象で私達の前に怒りの姿を見せているというのに・・・。
私の母は長女が送ってくれた[世界の列車の旅]のビデオが大好きです。それに嫁が与える[季節の花や樹木]を大きな写真で紹介した本を見る事も・・。こんな時の母はとても穏やかな表情で、「あれはエベレストかい、この花の匂いが漂ってくるようだね」、とまるで自分が本の中に入り込んだかのような反応を示します。こんな時、神が母のソバに来ているのが私には分ります。母が生まれ育った時代にはそのような光景が日本中に溢れていたのです。神々が日本中に溢れていました。
若い頃の私が山中深くに住まいを求めた理由もそうでした。嫁が今でも古き神社仏閣を訪ね回る理由もそうかも知れません。貴方の隣の家の金ピかブレスレットおばさんが南の島ツアーに毎年出掛ける理由だって同じかも知れません。現在の日本から姿を隠しつつある神の存在を探して、何かを得ようと出掛けているかも知れないのです。或いは、そうした衝動を神が与えて呼び寄せているのかも知れないのです。選ばれた者とはそうした人達を指すのだろうと思います。
「構って欲しかったから人を殺そうと思った」、「汚職だとは思ったが、組織ぐるみであれば一連託生だ。代々、皆でやってきた事だから。前例に従うとはそうした事だ」、程度にしか理解できない連中のそばには神などは存在しません。
季節がなくなる、心が消えていく、とはそうした事ではないかと思います。暑いと思えば阿蘇の山中に湧出る冷たい清水を思い、腹が減ったと感じれば故郷の母の手料理を思う・・、そんな人達が確実に減っている気がします。
♪:四畳半の檻の中で
先日、処刑が実行された宮崎勤って憶えています? 女性を10数年もの間監禁していた男の事は憶えていますか? 見知らぬ人を駅の構内から衝動的に線路に突き落とした馬鹿野郎なんて何人も居ますよね。佐世保の猟銃乱射事件、秋葉原の不特定連続殺人事件・・・、国土交通省の現役局長が絡む官制談合事件・・、決して大分県だけの話ではないはずの教育委員会ぐるみでの不正な教員採用・人事、校長・教頭採用試験・・、まるでTV映画のタイトルのような出来事が日常的に当たり前のように繰返されるようになりました。全ての事件が、「構って欲しかった」、「分らないだろうと思った」、と答えていますね。構って欲しいから目立つように大衆の面前で殺人事件を起こしてみたかったってか? そんな理屈は通らない。構って欲しいのなら、自分の額に[誰か私を構って下さい]と張り紙でもして、交差点の真ん中で自分の腹でも切ってみろと言いたいですね。
年金問題にしても、この熊本県の例を思い出せば、「戦後のある時期からの全県庁職員の厚生年金の天引き分(掛け金)を熊本県が別予算を設けて負担していた・・、この事件を憶えていますか? この不正の中で既に退職した人達は納める事のなかった不正な年金を不正受給し続けて悠々自適の暮らしをしている訳ですが、この事実が発覚した後の実態調査も何も公表されていないようです。
この日本という島国にはそうした慣習が至る所に残っています。特定郵便局があった頃は必ず息子が後を継いでいたし、警察官の子供はどんなに体格が劣っていても警察官になれる確率が高かった。だから、途中で辞める子供も沢山居ました。県庁マンなどは採用試験の結果に関係なく今でも6割は縁故採用だと聞きます。「あいつは誰の後押し、私は誰の口利きでした」、と現役県庁マンが言うんですからね。
昨今の事件がそうした縁故関係を証明しているんだから否定する事は出来ません。決して、結果ではなく原因が必ずあるんです。事件ではありませんが、政治の世界なんて養子縁組をさせてでも議席を確保しようと策を練ります。根本を断たない限り、今後もこのような事は続発します。不正を不正の温床の警察が取り調べる事も何か変ですね。警察ほど古い体質を維持している組織はないからです。日本の体質なんです。動物園には種類によって境界が設けられていますが、人間社会ってまるで境界(モラル)のない動物園だと思いませんか。一番、野蛮で汚い世界です。
☆一体、何に飢えているんだ?。神か・・?、それは違う。まずは心だ。
コンクリートジャングルに暮らしていると神の存在など考えなくなります。暑かろう寒かろうがエアコンスイッチを押せば快適な室温にしてくれます。暑いのは嫌だ、寒いのも嫌だ。季節なんて必要ないと考えます。腹が減ればコンビニに走ります。否、ピザの宅配だってあります。そこには優しい母親や弟思いの姉の存在も忘れさせる文化が既に蔓延ってしまっています。
戦後64年の今、ほぼ60歳代以下の者はそうして環境で育ってしまっているのです。神の存在、自然の怒りなど考える事などないままに生きてきたのです。既に神は様々な現象で私達の前に怒りの姿を見せているというのに・・・。
私の母は長女が送ってくれた[世界の列車の旅]のビデオが大好きです。それに嫁が与える[季節の花や樹木]を大きな写真で紹介した本を見る事も・・。こんな時の母はとても穏やかな表情で、「あれはエベレストかい、この花の匂いが漂ってくるようだね」、とまるで自分が本の中に入り込んだかのような反応を示します。こんな時、神が母のソバに来ているのが私には分ります。母が生まれ育った時代にはそのような光景が日本中に溢れていたのです。神々が日本中に溢れていました。
若い頃の私が山中深くに住まいを求めた理由もそうでした。嫁が今でも古き神社仏閣を訪ね回る理由もそうかも知れません。貴方の隣の家の金ピかブレスレットおばさんが南の島ツアーに毎年出掛ける理由だって同じかも知れません。現在の日本から姿を隠しつつある神の存在を探して、何かを得ようと出掛けているかも知れないのです。或いは、そうした衝動を神が与えて呼び寄せているのかも知れないのです。選ばれた者とはそうした人達を指すのだろうと思います。
「構って欲しかったから人を殺そうと思った」、「汚職だとは思ったが、組織ぐるみであれば一連託生だ。代々、皆でやってきた事だから。前例に従うとはそうした事だ」、程度にしか理解できない連中のそばには神などは存在しません。
季節がなくなる、心が消えていく、とはそうした事ではないかと思います。暑いと思えば阿蘇の山中に湧出る冷たい清水を思い、腹が減ったと感じれば故郷の母の手料理を思う・・、そんな人達が確実に減っている気がします。
♪:四畳半の檻の中で
2008年11月09日
・同居記録:45
☆2008.7.15。母がおしっこに1時間10分を要する。
深夜の2時00分、母の動く気配で目を覚まして母の部屋に行く。センサー部には幅があって踏まずに動くと鳴らない事もある。「眠い眠い」、という母をポータブルトイレに座らせるがオシッコが出ない。出ないというより睡魔の方が勝っていておしっこをしようとしないのだ。暫く様子を見るがなかなか出そうとせずウトウトと眠り出す始末。2時半、私は母に尿意を促そうと台所で氷水を作って母に飲ませるが、「美味しい」、と言う一方で眠り始める。。。。そして、3時、まだしない。
「もう、中敷に出ていたから出らんのよ」、と言い、私は母を一旦ベッドに戻すが、ベッドに戻した途端に「おしっこ・・」。
結局、3時10分過ぎに僅かの排尿をして眠りに就いた。今度はこっちが眠れない・・。最近はこうした傾向が強い。今朝の私は寝不足で身体全体が浮腫んでいるような気がします。
☆2008.7.16。7月21日の選曲に変更。
うらた剛氏のコンサートで唄う①:母の童歌、②:花ミズキ、③:籠の鳥、④:風に吹かれて、の4曲の中でラストに予定していた[風に吹かれて]を[施設にて]に変更して貰う事になった。介護生活の模様がより伝わりやすい曲をと見直した結果です。最後の4曲目の曲にしては重くはないかな、という
気持ちもありましたが、「施設にての方が日々のリアル感があっていいよ」、と嫁も言っています。
今回の浦田氏のコンサートとの縁は「ポスターやチケット配りでも手伝える事があれば言って下さい」、と口にした事から始まった。「じゃ、ギャラは出ないが出て貰ってもいいかい?」、でした。
浦田氏のミュージックボランテイアは文字通りに手弁当での自主コンサート。声が掛かればどこにでもワゴン車に音響機材を積んで出発。CDだってプレゼントするんです。熊本~鹿児島を日帰りでコンサートなんか日常的だとか・・。
この出前コンサートを開始した頃には移動用のワゴン車やら楽器に音響機材の購入やら、恐らく数百万の資金が必要だったと思います。彼の場合は作った曲を簡単に録音した後は専門業者に任せますから1つの作品を作り、そのCDオケを持ち歩くだけでも相当な経費がかかります。プレゼント用のCDの焼き増しだけはご夫婦で頑張ってコピーされるとしても時間だってかなり掛かるはずです。録音機材にしても私のようにデジタルレコーダーを持ってはおられるのですが、そのデジタル何とやらが苦手みたいなんです。これが私との歳の差なんでしょうか?。」。
私の場合には下手なりに彼よりも弾ける楽器の種類が多いし、録音も自分でする分だけ次々と作品を形にできるんだと思います。彼は、「俺は高橋君より相当に遅れている」、と言います。そうなんです。ブログの話をしても、「・・ああ」、「フラッシュプレイヤーという奴を張り付けて、それで作った作品をネットで配信すれば数百枚ものサンプルCDを焼いたり郵送する必要もないのに・・」、と言えば、「ああ・・ああ・・」、とこんな人です。
私は痩せ型で彼は肥満型。私は用意周到タイプですが追求タイプでは無く、対して彼はとことん追求タイプ。私はマイマイクなどは持ってはいませんが彼は数本のマイマイクを使い分ける程に音に関してはすごく神経質です。舞台でも自分で音響機器の調整を行ないながらの熱演です。他人に音質や音量の調整を任せきれないと彼は言います。
根っからの音楽好き、人前で唄うのが大好きな人なんでしょうか。3度ほどですが、母の通うデイ施設に来て唄って貰うように私が取り持った事があります。聴いた事がある人であれば異論はないと思いますが、唄がとてもお上手です。ロックンロールから演歌、童謡とお年寄りが喜ばれるような楽曲なら何でも唄われ、母などは感激して涙を流して聴き入っていたと嫁が言います。さあ、そんなこんなで7月21日が確実に近づいています。
今は仕事上がりの職場で書いています。施設に母を迎えに行くには少し早い。今日の夕食は何を作ろうかな・・、昨日買っていた刺身用の安い羽カツオをたたきにして酢醤油ではなくオイル酢味噌で和えて一品、お袋からようやく認められた高野豆腐とニンジンの別煮込み料理で二品目、千切りキュウリと乾燥小エビと素麺を使ったサラダに輪切りトマト1個を添えて3品目、それにゴ汁でも作ります。痛みかけた山芋をどうしよう・・。これから職場に持ってきているアミノ酸のBCAAを飲んで筋トレしよっと。
深夜の2時00分、母の動く気配で目を覚まして母の部屋に行く。センサー部には幅があって踏まずに動くと鳴らない事もある。「眠い眠い」、という母をポータブルトイレに座らせるがオシッコが出ない。出ないというより睡魔の方が勝っていておしっこをしようとしないのだ。暫く様子を見るがなかなか出そうとせずウトウトと眠り出す始末。2時半、私は母に尿意を促そうと台所で氷水を作って母に飲ませるが、「美味しい」、と言う一方で眠り始める。。。。そして、3時、まだしない。
「もう、中敷に出ていたから出らんのよ」、と言い、私は母を一旦ベッドに戻すが、ベッドに戻した途端に「おしっこ・・」。
結局、3時10分過ぎに僅かの排尿をして眠りに就いた。今度はこっちが眠れない・・。最近はこうした傾向が強い。今朝の私は寝不足で身体全体が浮腫んでいるような気がします。
☆2008.7.16。7月21日の選曲に変更。
うらた剛氏のコンサートで唄う①:母の童歌、②:花ミズキ、③:籠の鳥、④:風に吹かれて、の4曲の中でラストに予定していた[風に吹かれて]を[施設にて]に変更して貰う事になった。介護生活の模様がより伝わりやすい曲をと見直した結果です。最後の4曲目の曲にしては重くはないかな、という
気持ちもありましたが、「施設にての方が日々のリアル感があっていいよ」、と嫁も言っています。
今回の浦田氏のコンサートとの縁は「ポスターやチケット配りでも手伝える事があれば言って下さい」、と口にした事から始まった。「じゃ、ギャラは出ないが出て貰ってもいいかい?」、でした。
浦田氏のミュージックボランテイアは文字通りに手弁当での自主コンサート。声が掛かればどこにでもワゴン車に音響機材を積んで出発。CDだってプレゼントするんです。熊本~鹿児島を日帰りでコンサートなんか日常的だとか・・。
この出前コンサートを開始した頃には移動用のワゴン車やら楽器に音響機材の購入やら、恐らく数百万の資金が必要だったと思います。彼の場合は作った曲を簡単に録音した後は専門業者に任せますから1つの作品を作り、そのCDオケを持ち歩くだけでも相当な経費がかかります。プレゼント用のCDの焼き増しだけはご夫婦で頑張ってコピーされるとしても時間だってかなり掛かるはずです。録音機材にしても私のようにデジタルレコーダーを持ってはおられるのですが、そのデジタル何とやらが苦手みたいなんです。これが私との歳の差なんでしょうか?。」。
私の場合には下手なりに彼よりも弾ける楽器の種類が多いし、録音も自分でする分だけ次々と作品を形にできるんだと思います。彼は、「俺は高橋君より相当に遅れている」、と言います。そうなんです。ブログの話をしても、「・・ああ」、「フラッシュプレイヤーという奴を張り付けて、それで作った作品をネットで配信すれば数百枚ものサンプルCDを焼いたり郵送する必要もないのに・・」、と言えば、「ああ・・ああ・・」、とこんな人です。
私は痩せ型で彼は肥満型。私は用意周到タイプですが追求タイプでは無く、対して彼はとことん追求タイプ。私はマイマイクなどは持ってはいませんが彼は数本のマイマイクを使い分ける程に音に関してはすごく神経質です。舞台でも自分で音響機器の調整を行ないながらの熱演です。他人に音質や音量の調整を任せきれないと彼は言います。
根っからの音楽好き、人前で唄うのが大好きな人なんでしょうか。3度ほどですが、母の通うデイ施設に来て唄って貰うように私が取り持った事があります。聴いた事がある人であれば異論はないと思いますが、唄がとてもお上手です。ロックンロールから演歌、童謡とお年寄りが喜ばれるような楽曲なら何でも唄われ、母などは感激して涙を流して聴き入っていたと嫁が言います。さあ、そんなこんなで7月21日が確実に近づいています。
今は仕事上がりの職場で書いています。施設に母を迎えに行くには少し早い。今日の夕食は何を作ろうかな・・、昨日買っていた刺身用の安い羽カツオをたたきにして酢醤油ではなくオイル酢味噌で和えて一品、お袋からようやく認められた高野豆腐とニンジンの別煮込み料理で二品目、千切りキュウリと乾燥小エビと素麺を使ったサラダに輪切りトマト1個を添えて3品目、それにゴ汁でも作ります。痛みかけた山芋をどうしよう・・。これから職場に持ってきているアミノ酸のBCAAを飲んで筋トレしよっと。
2008年11月08日
・同居記録:44
☆2008.7,14。嫁が転倒して骨折。
14日早朝、母の部屋に設置している徘徊検知器が作動し、ブザーに飛び起きた嫁が母の部屋に急ぐあまりに居間で電気の延長コードに足を取られて転倒、左膝の皿を痛めた。検査の結果は骨折だった。どっちかといわなくても普段からボーっとしたタイプだから、「何かをする時には必ず眼鏡を掛けて動け。そろそろ、俺達にも何かがある頃だから注意しろ」」、と言っているのですが、その注意さえもボーっとして聞くタイプだからしょうがない。昨年は私の心筋梗塞と追突事故、そして、「地獄で暮らせ」、と言わんばかりの契約更改。骨折が治るまでは嫁の出来る事には限度が生じるから私の負担が重くなるようだ。
☆予知力、それは与えられた運命を切り裂き、新しい人生を切開く一本のナイフ。
人はある一定の摂理の中で生かされていると私は思っています。身近な例がこの嫁の骨折です。一定の自然の摂理には二つの要素があります。今、目の前にある現象と目には見えない現象です。言い換えると、意図的に繰返している日常の生活とその中に含まれる予期できない不本意な出来事。このバランスの中で私達は暮らしているんです。
予知する能力や判断、予知した行動があればこのような不本意な事故は起き辛くなってきます。つまり、苦労をしない人は予知力に優れていて、苦労をする人は予知力で劣っているが為に不本意な出来事が多く生じてくると言う事が出来るのです。自分が願ってもいない事故や周囲からの非難などです。
☆捻れのない人生、捻れた人生。
例えばここに細いテープが2本あったとします。1本はストレートに両端をくっつけてあり、2本目のテープは1回捻りで両端が張り合わせてあります。苦労の少ない人の人生は陽当りのいいストレートな歩みなんですが、苦労の多い人の人生には陽の当らない道が必ずあって、捻れ部分を脱して再び陽を浴びるには歩いて来た同じ道のりを歩かないと辿り着けません。
予知力のない人の人生は折角築き上げたものが必ずどこかで帳消しになるんです。つまり、人生に進歩がない人だと言えます。25歳までに人生を終える人は2回捻れの道を歩いていた人だとも言えます。
☆捻れはどこで見分けるのか。
ストレートな道なのか、捻れが入った道なのかは様々な要素が絡んできます。それは、幼年期の親から受けた子育ての違いや受けた教育などがあります。代表的な例で言えば長男偏重主義を持つ親の下で育った次男、三男にはほぼ間違いなく幼い頃から捻れ道が待っていて、その事に気づかないままに次男・三男の気楽さを語っている内に間違いなく捻れ道で確実に歩を進めているんです。
「苦労は買ってでもせよ」、と言いますが、あれは方便であって、親も本人も苦労を好むはずがありません。
私は次男や三男という境遇に生まれた者ほど、若くしての親離れや自立を勧めます。一日でも早く生まれながらの捻れた道を棄ててストレートな道に乗り換えるべきだと思います。人生って与えられるものではなくて自分で作っていくものだと言われますが、それは多くは親から自立して社会に出てからの話で合って、高校・大学に通わせて貰っている時期まではまだ子供なんです。
☆穏やかな暮らしだけではない、周囲への優しさだって予知能力を高める努力があってこそ。
私の幼い頃は親を絶対視せず、親の欠点や弱点を探す子供でした。私の独立心はそこから生まれているんです。
英字の新聞を読み、独語さえ喋る親父の凄さを認め、俺だってと思っていた処に韓国の友人が一杯できて韓国語が分かるようになっていました。
経営していた炭坑が買収され、住んだ家を解体される時の親父の涙を見た11歳の私は、「何だ家くらい、ボクが立派な家を建ててみせるさ」、と親父を励まし、約束から1年半遅れとは言え、私は親父の没した半年後に27歳で1軒目の家を建てたんです。
刀の鞘を作る親父を見て、「俺だって」、と思っているうちにいつの間にか私は木工名人になっていました。
やがて、老いの進んだ父が「尚宏、台風にやられた外壁の高い危険な所だけはお前が板を打付けてくれんか?、屋根も頼むよ」、と頼むようになっていました。
兄貴と私を両腕にぶら下げて見せる親父を見ていて、「俺だって」、と思っていた親父の背中がいつの間にか曲り始めていました。
「熊本から佐世保まで3時間半はかかったか?」、と聞いた父が、「熊本から佐世保まで3時間半はかかったか?」、と再び三度と10分置きに繰返すようにようになっていた事に深い悲しみを感じる私になっていました。母との思い出もいっぱいあります。
痛みを訴える母の腰が痛まないようにと、7歳くらいだった私は必死になって1回座っただけで壊れてしまう椅子を何度も作りました。
買物かごが重くならないようにと幼い私はキュウリや茄子を畑で育てては母の喜ぶ顔を見て嬉しくて堪りませんでした。この全てが私の予知行動の始まりだったのです。
私は父が48歳、母が37歳の時の子供。私が幼くして両親の欠点や弱点を知るのは容易な事でした。このままだとこうなってしまうし、その為にはこうするか、ああするかの二通りくらいの選択肢しか残っていない・・、その為に今の自分が出来る事を更に二通りくらいを考えて普段の生活の中で変えられるものを変えて備えておく・・、というのが今でも続く私の生活心情なんです。
☆早く家を飛び出したいと思った理由。
私が中学から高校と暮らした佐世保の大和町は長い坂道の町でした。この長い坂道をやがては70歳にもなろうかとする父が白いハンカチを右手に汗を拭き、フラフラとヨロヨロと歩いて登る姿を見たのは私が高校2年も終わりの頃。必死に家族を支える明治生まれの律儀で不器用な父親の老い果てた姿でした。
「せめて長男だけは」、と公言しては私の将来を無視するかのような父ではあったのですが、この父の姿を見た時には父に対する私の思いが180度変化していました。「せめて長男だけは」、と言う父の言葉の意味が十分に理解できたのです。俺の事はいい、せめて兄貴だけは大学をキチンと出て欲しい・・、私もそう思いました。
☆そして、米軍基地に入り浸りの私。
私が米軍基地に出入りを始めたのはこの頃でした。貰ったギャラを基地内で換金せずに高校でドル札をレート以上で売ったり、米国から直送された煙草を基地内の自動販売機で買って校内で売ったりして学校でも相当に問題視された事もあったりして退学寸前の話になるのですが、「高橋は本当は真面目で文才のある生徒だ」、と国文や英語などの一部の教師達が必ず庇ってくれるんです。「授業が嫌いな奴は俺について来い」、とか言いながら教師に詰め寄っては生徒達を連れて近所の山で遊んだりするのですが、不思議にお咎めがないんです。この佐世保時代の私の話はこの辺でやめときますが、私が家を早く飛び出したかったのは老いた父の姿を見るのが辛かったのからでした。つまり、老いた両親、次男坊という持って生まれた捻れた人生を自分の力で早く修正したかったのです。
14日早朝、母の部屋に設置している徘徊検知器が作動し、ブザーに飛び起きた嫁が母の部屋に急ぐあまりに居間で電気の延長コードに足を取られて転倒、左膝の皿を痛めた。検査の結果は骨折だった。どっちかといわなくても普段からボーっとしたタイプだから、「何かをする時には必ず眼鏡を掛けて動け。そろそろ、俺達にも何かがある頃だから注意しろ」」、と言っているのですが、その注意さえもボーっとして聞くタイプだからしょうがない。昨年は私の心筋梗塞と追突事故、そして、「地獄で暮らせ」、と言わんばかりの契約更改。骨折が治るまでは嫁の出来る事には限度が生じるから私の負担が重くなるようだ。
☆予知力、それは与えられた運命を切り裂き、新しい人生を切開く一本のナイフ。
人はある一定の摂理の中で生かされていると私は思っています。身近な例がこの嫁の骨折です。一定の自然の摂理には二つの要素があります。今、目の前にある現象と目には見えない現象です。言い換えると、意図的に繰返している日常の生活とその中に含まれる予期できない不本意な出来事。このバランスの中で私達は暮らしているんです。
予知する能力や判断、予知した行動があればこのような不本意な事故は起き辛くなってきます。つまり、苦労をしない人は予知力に優れていて、苦労をする人は予知力で劣っているが為に不本意な出来事が多く生じてくると言う事が出来るのです。自分が願ってもいない事故や周囲からの非難などです。
☆捻れのない人生、捻れた人生。
例えばここに細いテープが2本あったとします。1本はストレートに両端をくっつけてあり、2本目のテープは1回捻りで両端が張り合わせてあります。苦労の少ない人の人生は陽当りのいいストレートな歩みなんですが、苦労の多い人の人生には陽の当らない道が必ずあって、捻れ部分を脱して再び陽を浴びるには歩いて来た同じ道のりを歩かないと辿り着けません。
予知力のない人の人生は折角築き上げたものが必ずどこかで帳消しになるんです。つまり、人生に進歩がない人だと言えます。25歳までに人生を終える人は2回捻れの道を歩いていた人だとも言えます。
☆捻れはどこで見分けるのか。
ストレートな道なのか、捻れが入った道なのかは様々な要素が絡んできます。それは、幼年期の親から受けた子育ての違いや受けた教育などがあります。代表的な例で言えば長男偏重主義を持つ親の下で育った次男、三男にはほぼ間違いなく幼い頃から捻れ道が待っていて、その事に気づかないままに次男・三男の気楽さを語っている内に間違いなく捻れ道で確実に歩を進めているんです。
「苦労は買ってでもせよ」、と言いますが、あれは方便であって、親も本人も苦労を好むはずがありません。
私は次男や三男という境遇に生まれた者ほど、若くしての親離れや自立を勧めます。一日でも早く生まれながらの捻れた道を棄ててストレートな道に乗り換えるべきだと思います。人生って与えられるものではなくて自分で作っていくものだと言われますが、それは多くは親から自立して社会に出てからの話で合って、高校・大学に通わせて貰っている時期まではまだ子供なんです。
☆穏やかな暮らしだけではない、周囲への優しさだって予知能力を高める努力があってこそ。
私の幼い頃は親を絶対視せず、親の欠点や弱点を探す子供でした。私の独立心はそこから生まれているんです。
英字の新聞を読み、独語さえ喋る親父の凄さを認め、俺だってと思っていた処に韓国の友人が一杯できて韓国語が分かるようになっていました。
経営していた炭坑が買収され、住んだ家を解体される時の親父の涙を見た11歳の私は、「何だ家くらい、ボクが立派な家を建ててみせるさ」、と親父を励まし、約束から1年半遅れとは言え、私は親父の没した半年後に27歳で1軒目の家を建てたんです。
刀の鞘を作る親父を見て、「俺だって」、と思っているうちにいつの間にか私は木工名人になっていました。
やがて、老いの進んだ父が「尚宏、台風にやられた外壁の高い危険な所だけはお前が板を打付けてくれんか?、屋根も頼むよ」、と頼むようになっていました。
兄貴と私を両腕にぶら下げて見せる親父を見ていて、「俺だって」、と思っていた親父の背中がいつの間にか曲り始めていました。
「熊本から佐世保まで3時間半はかかったか?」、と聞いた父が、「熊本から佐世保まで3時間半はかかったか?」、と再び三度と10分置きに繰返すようにようになっていた事に深い悲しみを感じる私になっていました。母との思い出もいっぱいあります。
痛みを訴える母の腰が痛まないようにと、7歳くらいだった私は必死になって1回座っただけで壊れてしまう椅子を何度も作りました。
買物かごが重くならないようにと幼い私はキュウリや茄子を畑で育てては母の喜ぶ顔を見て嬉しくて堪りませんでした。この全てが私の予知行動の始まりだったのです。
私は父が48歳、母が37歳の時の子供。私が幼くして両親の欠点や弱点を知るのは容易な事でした。このままだとこうなってしまうし、その為にはこうするか、ああするかの二通りくらいの選択肢しか残っていない・・、その為に今の自分が出来る事を更に二通りくらいを考えて普段の生活の中で変えられるものを変えて備えておく・・、というのが今でも続く私の生活心情なんです。
☆早く家を飛び出したいと思った理由。
私が中学から高校と暮らした佐世保の大和町は長い坂道の町でした。この長い坂道をやがては70歳にもなろうかとする父が白いハンカチを右手に汗を拭き、フラフラとヨロヨロと歩いて登る姿を見たのは私が高校2年も終わりの頃。必死に家族を支える明治生まれの律儀で不器用な父親の老い果てた姿でした。
「せめて長男だけは」、と公言しては私の将来を無視するかのような父ではあったのですが、この父の姿を見た時には父に対する私の思いが180度変化していました。「せめて長男だけは」、と言う父の言葉の意味が十分に理解できたのです。俺の事はいい、せめて兄貴だけは大学をキチンと出て欲しい・・、私もそう思いました。
☆そして、米軍基地に入り浸りの私。
私が米軍基地に出入りを始めたのはこの頃でした。貰ったギャラを基地内で換金せずに高校でドル札をレート以上で売ったり、米国から直送された煙草を基地内の自動販売機で買って校内で売ったりして学校でも相当に問題視された事もあったりして退学寸前の話になるのですが、「高橋は本当は真面目で文才のある生徒だ」、と国文や英語などの一部の教師達が必ず庇ってくれるんです。「授業が嫌いな奴は俺について来い」、とか言いながら教師に詰め寄っては生徒達を連れて近所の山で遊んだりするのですが、不思議にお咎めがないんです。この佐世保時代の私の話はこの辺でやめときますが、私が家を早く飛び出したかったのは老いた父の姿を見るのが辛かったのからでした。つまり、老いた両親、次男坊という持って生まれた捻れた人生を自分の力で早く修正したかったのです。
2008年11月07日
・同居記録:43
☆驚くべき体内時計。そして、絶対に忘れない料理への本能。
デイ施設に母を迎えに行った私は真っ直ぐに自宅に向かう日が多いのですが、時には帰宅途中で食料品を買ったり、木材センターへ向かい大好きな木の匂いを嗅いだり、ホームセンターに立寄っては木工道具を見たりします。だから、帰宅して母をベッドに横にならせるのは平均して15:00~15:40頃。しかし、どんな日であろうが母はピタッと17:00になると居間に向かおうとベッドの上で騒ぎ始めます。
「尚宏、居るね?・・何か畳む物(洗濯物)はあるね?、コメは研いだね、ご飯でも炊こうかね」、と言い出すのです。
「ご飯なら電気が勝手に炊いてるよ」、と私。「あは?・・、そうかそうか」。この会話が365日の17:00に必ず交わされる会話です。もう、驚くべき体内時計です。
朝もそうなんです。5:24~40分になるとピタッと目を覚まし、「朝ご飯の仕度でもせにゃ・・」、と。
☆2008.7.11。今朝の母から学んだ事。ヒトの老いの究極の姿かも・・。
母は本当に飛行機が好きだ。それだけではない。歌が浦に暮らした頃には沖合に停泊するタンカーを見ている事が多かったようだ。タンカーといってもそんなに大きなものではないのだが、この歌が浦の港は遠浅になっていて港からは小さな船が次々と石炭を積んで沖合に待つタンカーに運び、そこから八幡製鉄所に運ばれていたらしい。それに母は鳥が好きなようだ。例え親子であっても兄弟であっても一緒に暮らしてみないと気づく事が出来ない事が沢山あったんだと思います。
母の場合、自然風景とその中で特に動くものに関心が強い気がします。飛行機、船、飛ぶ鳥、流れる雲、沈む夕陽、揺れる木の葉、切り立った岸壁にうち寄せ泡立つ波・・、そんな物を見た時の母は必ず感想を口にします。
今朝の母は車の助手席に座り、車のハンドルの動きに合わせるように右上に左上に首がねじ切れるほどに空を見ていました。「あっ、あれ飛行機」、「うわっ、鳥。ほら、鳥・・」。私には珍しくも何ともないのですがお年寄りに共通するあの自然風景への感動は何なのだろうと私はずっと思っていましたが、今朝になってその答えらしいものに気づいたんです。それは簡単な理屈でした。
☆知識だって汚れの一つ。全ての衣を脱ぎ捨て始めた母。
ヒトは教育や宗教、思想・・、例え、それぞれの人生の歩みの中で専門としようがしまいが、年齢を重ね認知が進んでいく中で結局はありとあらゆるものを忘却の彼方へ追いやりしまい込み、自然とだけしか対峙しないようになるのだと思います。
どんな両親の元で生まれ、どんな教育を受け育ち、どんな学歴を身につけてどんな職業に就き、どこに留学しどんなものを世の中に残そうが、・・・やがて、ヒトはそんな事は全くなかったかのように[素に戻る]のではないかと確信しました。結局、知識一つを例にとってもある意味では[ヒトを変えてしまう汚れ]なんです。知識は汚れ、ヒトとヒトとの触合いもある時期からは汚れに変化していくんです。
95歳になった母の心からは両親や兄弟、そして嫁いだ男性の事をも、そして、産んだ子供達の事も孫や曾孫の事も母の友人達の事も、その存在自体さえ母の心の中で占める比重が確実に狭くなっていっています。本当に、母が意図的に記憶から消し去り、天に召される為の汚れ(ヒトとしての存在感や知識)を捨て去ろうとしているかのようです。
しかし、その95歳になる母の心に今でも居残り影響を与え続けているものは、[フルサトの自然]なんです。そして、その故郷から広がっているこの熊本の自然なんです。
だから、「ほらっ、空」、「あっ、尚宏、あそこ・・、雲」、「あっ、木が揺れて・葉っぱが・」、と母は私に老いていくヒトの最後の姿を教えてくれているのではないかと思います。
「欲も見栄もいいが・・、結局、ヒトの最後って私のようにこうして全てを捨て去って自然と向き合うようになるのさ」、と。教えてくれているような気がするのです。そう思った時、実は母は今が一番輝いているのではないかと思うのです。
遠い昔、木の実や竹の根や若葉を囓り、川に仕掛けた罠に集まった虫や小魚を焼いては岩塩から抽出した塩を振りかけて食しながら自然の中に暮らし、鳥や獣と会話をし食い物を分け合い、水や雲の流れを彼らと一緒に追っかけた事があった私ですが、今の母の心はまるでその頃の私ではないか、と思う事があります。
☆2008.7.13。7月21日のうらた剛氏のコンサートの件で打ち合せ。
母には何の為に出かけるかを説明し、母の世話を嫁に頼み10:00からの益城文化会館での打ち合せに家を出る。私の出番は2部の始まる17:11~17:41の30分間が振分けられていた。ここで①:母の童歌、②:花ミズキ、③:籠の鳥、④:風に吹かれて、の4曲を唄う事になった。候補曲としては蝉しぐれや命、施設にて、などもあったが限られた時間の中ではギターの持ち替えが少ない曲の組合せがいいだろうという事が選曲のポイントになった。その他にどの曲でどの色のスポット照明を使うかなど・・、マイクは何本必要か、ギターの音はラインで引くかマイクで拾うだけでいいか・・、等々。普段は私自身がやっている仕事なのですが、こんな経験をするのもいい勉強になるもんだと感じました。利用する側の立場に立つ経験なんて滅多にありません。結局、「全てお任せします」、という事でお願いしました。
私とうらた氏の大きな違いは、お年寄りを介護する家族を主な対象とする私に対し、うらた氏はお年寄りに直接的に唄い掛けるタイプだという事。だから、うらた氏のレパートリーは凄く広い。美空ひばり、村田英雄、フランク永井、高倉健からオリジナルソングを含めて600曲を越えるという・・。何だか、違う世界の人というか芸能人・・、という感じがする。音楽に対する姿勢の話になるとバリバリのプロの顔つきになり、上手さがあってのシンガーだと強調される。メジャー志向がない人だけに凄い信念を感じます。
このうらた氏、実は最近になって「薫の約束」という作品を発表してNHKで全国放送されて話題になった人なんです。北朝鮮に拉致された松木薫さんの帰国を待つお姉さまの斉藤さんの心情を唄ったこの作品。コンサート当日は斉藤さんも来られ、NHKやTKU、熊日などもメディアも取材に来るようです。既に400名を越すチケットが売れていて当日までには楽に500名は越えるだろうと主催者の一人が言われていました。打ち合せの途中、「高橋さんが親子の情というものを唄ってくれて、うらたの作品が生きて来るんです。期待していますよ」、と言われ、胸がどきっとしました。500名を越えるような人前で唄った事などないのに・・。でも、帰りの車中、音楽ホールとしての設備の充実した益城文化会館で500名を前に唄う自分の姿をイメージしてみました。この経験は自分にとっての凄い一歩になるのかも知れないと思います。明日から・・、筋トレ・だ!。
デイ施設に母を迎えに行った私は真っ直ぐに自宅に向かう日が多いのですが、時には帰宅途中で食料品を買ったり、木材センターへ向かい大好きな木の匂いを嗅いだり、ホームセンターに立寄っては木工道具を見たりします。だから、帰宅して母をベッドに横にならせるのは平均して15:00~15:40頃。しかし、どんな日であろうが母はピタッと17:00になると居間に向かおうとベッドの上で騒ぎ始めます。
「尚宏、居るね?・・何か畳む物(洗濯物)はあるね?、コメは研いだね、ご飯でも炊こうかね」、と言い出すのです。
「ご飯なら電気が勝手に炊いてるよ」、と私。「あは?・・、そうかそうか」。この会話が365日の17:00に必ず交わされる会話です。もう、驚くべき体内時計です。
朝もそうなんです。5:24~40分になるとピタッと目を覚まし、「朝ご飯の仕度でもせにゃ・・」、と。
☆2008.7.11。今朝の母から学んだ事。ヒトの老いの究極の姿かも・・。
母は本当に飛行機が好きだ。それだけではない。歌が浦に暮らした頃には沖合に停泊するタンカーを見ている事が多かったようだ。タンカーといってもそんなに大きなものではないのだが、この歌が浦の港は遠浅になっていて港からは小さな船が次々と石炭を積んで沖合に待つタンカーに運び、そこから八幡製鉄所に運ばれていたらしい。それに母は鳥が好きなようだ。例え親子であっても兄弟であっても一緒に暮らしてみないと気づく事が出来ない事が沢山あったんだと思います。
母の場合、自然風景とその中で特に動くものに関心が強い気がします。飛行機、船、飛ぶ鳥、流れる雲、沈む夕陽、揺れる木の葉、切り立った岸壁にうち寄せ泡立つ波・・、そんな物を見た時の母は必ず感想を口にします。
今朝の母は車の助手席に座り、車のハンドルの動きに合わせるように右上に左上に首がねじ切れるほどに空を見ていました。「あっ、あれ飛行機」、「うわっ、鳥。ほら、鳥・・」。私には珍しくも何ともないのですがお年寄りに共通するあの自然風景への感動は何なのだろうと私はずっと思っていましたが、今朝になってその答えらしいものに気づいたんです。それは簡単な理屈でした。
☆知識だって汚れの一つ。全ての衣を脱ぎ捨て始めた母。
ヒトは教育や宗教、思想・・、例え、それぞれの人生の歩みの中で専門としようがしまいが、年齢を重ね認知が進んでいく中で結局はありとあらゆるものを忘却の彼方へ追いやりしまい込み、自然とだけしか対峙しないようになるのだと思います。
どんな両親の元で生まれ、どんな教育を受け育ち、どんな学歴を身につけてどんな職業に就き、どこに留学しどんなものを世の中に残そうが、・・・やがて、ヒトはそんな事は全くなかったかのように[素に戻る]のではないかと確信しました。結局、知識一つを例にとってもある意味では[ヒトを変えてしまう汚れ]なんです。知識は汚れ、ヒトとヒトとの触合いもある時期からは汚れに変化していくんです。
95歳になった母の心からは両親や兄弟、そして嫁いだ男性の事をも、そして、産んだ子供達の事も孫や曾孫の事も母の友人達の事も、その存在自体さえ母の心の中で占める比重が確実に狭くなっていっています。本当に、母が意図的に記憶から消し去り、天に召される為の汚れ(ヒトとしての存在感や知識)を捨て去ろうとしているかのようです。
しかし、その95歳になる母の心に今でも居残り影響を与え続けているものは、[フルサトの自然]なんです。そして、その故郷から広がっているこの熊本の自然なんです。
だから、「ほらっ、空」、「あっ、尚宏、あそこ・・、雲」、「あっ、木が揺れて・葉っぱが・」、と母は私に老いていくヒトの最後の姿を教えてくれているのではないかと思います。
「欲も見栄もいいが・・、結局、ヒトの最後って私のようにこうして全てを捨て去って自然と向き合うようになるのさ」、と。教えてくれているような気がするのです。そう思った時、実は母は今が一番輝いているのではないかと思うのです。
遠い昔、木の実や竹の根や若葉を囓り、川に仕掛けた罠に集まった虫や小魚を焼いては岩塩から抽出した塩を振りかけて食しながら自然の中に暮らし、鳥や獣と会話をし食い物を分け合い、水や雲の流れを彼らと一緒に追っかけた事があった私ですが、今の母の心はまるでその頃の私ではないか、と思う事があります。
☆2008.7.13。7月21日のうらた剛氏のコンサートの件で打ち合せ。
母には何の為に出かけるかを説明し、母の世話を嫁に頼み10:00からの益城文化会館での打ち合せに家を出る。私の出番は2部の始まる17:11~17:41の30分間が振分けられていた。ここで①:母の童歌、②:花ミズキ、③:籠の鳥、④:風に吹かれて、の4曲を唄う事になった。候補曲としては蝉しぐれや命、施設にて、などもあったが限られた時間の中ではギターの持ち替えが少ない曲の組合せがいいだろうという事が選曲のポイントになった。その他にどの曲でどの色のスポット照明を使うかなど・・、マイクは何本必要か、ギターの音はラインで引くかマイクで拾うだけでいいか・・、等々。普段は私自身がやっている仕事なのですが、こんな経験をするのもいい勉強になるもんだと感じました。利用する側の立場に立つ経験なんて滅多にありません。結局、「全てお任せします」、という事でお願いしました。
私とうらた氏の大きな違いは、お年寄りを介護する家族を主な対象とする私に対し、うらた氏はお年寄りに直接的に唄い掛けるタイプだという事。だから、うらた氏のレパートリーは凄く広い。美空ひばり、村田英雄、フランク永井、高倉健からオリジナルソングを含めて600曲を越えるという・・。何だか、違う世界の人というか芸能人・・、という感じがする。音楽に対する姿勢の話になるとバリバリのプロの顔つきになり、上手さがあってのシンガーだと強調される。メジャー志向がない人だけに凄い信念を感じます。
このうらた氏、実は最近になって「薫の約束」という作品を発表してNHKで全国放送されて話題になった人なんです。北朝鮮に拉致された松木薫さんの帰国を待つお姉さまの斉藤さんの心情を唄ったこの作品。コンサート当日は斉藤さんも来られ、NHKやTKU、熊日などもメディアも取材に来るようです。既に400名を越すチケットが売れていて当日までには楽に500名は越えるだろうと主催者の一人が言われていました。打ち合せの途中、「高橋さんが親子の情というものを唄ってくれて、うらたの作品が生きて来るんです。期待していますよ」、と言われ、胸がどきっとしました。500名を越えるような人前で唄った事などないのに・・。でも、帰りの車中、音楽ホールとしての設備の充実した益城文化会館で500名を前に唄う自分の姿をイメージしてみました。この経験は自分にとっての凄い一歩になるのかも知れないと思います。明日から・・、筋トレ・だ!。
2008年11月06日
♪:同居記録:42
☆7月5日、さあ、本番。
控室に音響担当の上原氏が奥さんを連れてやって来ました。奥さんが、「あらっ、高橋さん、太りましたよね?、身体が大きくなっている。顔色もいいし」、と言うんです。この言葉は私を調子つけてくれました。本番を前に、「痩せましたね。顔色も悪いし・・」、なんて言われたら一気にテンション下がりますからね。
さあ、これから本番です。会場の垂れ看板の文字が「母に命を返す時」となっているのが多少は気になりますが・・、そう思っている処へ福住さんのお知り合いの奈良からのお客様が面会に来られ、「今日は期待していますからね」、と心付けを渡されました。
いつものように、舞台に軽く会釈して般若心経本をモニタースピーカ裏に立て掛けてマイクに向かいました。同居6年目の母が95歳になった事。要介護度が4になった事。日常の全てに介助が必要になった事。私の事を一回り上だったイサム兄さんと勘違いしてオジちゃんと呼ぶ瞬間がある事。そして、一番最新の作品の[♪母の童歌]を唄い始めました。
[♪母の童歌]の詩は自分でもよく書けたなと思います。もう、今の母は来熊時に語っていた話さえなかなか思い出せません。私は必死に当時の母の話を思いだし、姉に嫁に確認しながら書きました。この作品は母と一緒に代継神社や宇留毛神社に通ううちに母の故郷にある[姫神社]の事を私自身が思い描いた事から詩が浮かび始めたのです。どこの神社でもそうですが、祠に相当するような穴が敷地の至る所にあります。
皆さん、鳥居の語源をご存知ですか?。文字通りに昔は季節の鳥が住んだり、獣が住んだ穴ぐらだったり、大きな石が転がり抜けた跡だったり、清水の湧出る穴だったりした場所なんです。遠い昔にはそうした場所を聖なる場所として近所に住む方々が木や石で作った小さな鳥居を飾ったりしたものなんです。
「この穴から歌が浦の姫神社に行けたらいいね」、と私が言えば、「ああ、行きたいね。母ちゃまにアンタを会わせて自慢したいよ」、と母が言ったのです。私は母のこの一言でこの5年間の暮らしを納得しました。
私はこの山鹿コンサートに掛けるものは十分に在りました。この[母の童歌]を人様に聴いて欲しかったのです。こうして、この日は、「母がピエロになっていく」、をラスト曲として全16曲を2時間で唄い切りました。お陰さまでCDも40枚を買って頂いて感謝します。
☆失語症、そしてその前兆・・母の場合
最近、本当に母の言葉が減りました。7月5日の山鹿コンサートの会場でも言ったように、モノの名前、それを形容する言葉を忘れているから心で感じてもそれを表現できないでいるような気がします。
花、皿、水、お茶、箸、コップ、車・・等々の日常的に使う言葉は割と大丈夫なんです。処が、花瓶、取り皿、真水、塩水、急須、ほうじ茶、グラス、電柱、電線、コンセント、ポット、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、炊飯器、クーラー・・、といったモノの名前を忘れているんです。
「ほら、・・花の入ったアレ(花瓶)に・・水を入れてやりなさい」、「あそこのアレ(電柱)に留まった黒いアレ(カラス)は何ネ、アレ(鳩)ね・・どっちね。
実は、この失語というのはお年寄りが老いを強く意識する瞬間なんです。自分が感じる感動や疑問を周囲の誰かに伝えたいという意識は強くあるのにそれが表現出来ない、という、思い出せない事よりも周囲に伝えられない苦しさ、・・これはとても辛い事だと思います。
日本語しか喋れない私達が突然に異国の地に放り出されたような感覚ではないでしょうか。
☆喋りには聴覚が関係するはず。
失礼な言い方ですが聴覚に異常のある方は喋りにも異常がありますね。母の耳は昔から遠い方だったんですが、徐々に、そしてここ最近は特に聞こえが悪くなっています。
2003年に我家に来た頃の母は我家のダイナミックな性格の嫁がいい加減に絞めた8mほど離れた台所のピチャッ、・・ピチャッという水道の蛇口から滴る水の音を気にするほどの聴覚をした母でした。この失語症が出始めてからの母は夜中にCDを低めに鳴らしても全く気づかないくらいになっています。失語症には聴覚が関係するようです。
「つやサンはもの静かでニコニコと聞き上手です」、とデイ施設のヘルパーさんが言いますが、そうではないですね。聞こえてないから返事ができない。会話にならないだけなんです。
例えば、母と一緒にデイから帰る途中の赤信号で私達が停車していて、「今日は車が多いね。黄色信号でも次から次にドンドンと交差点に入って来やがって・・この野郎」、と私が言い言いながら右折してくる車を睨みつけている時など、「へーっ、この近くに黄色いうどんを食べさせる所があるのかい」、と言ったりします。母は私の言葉の中から、「黄色、ドンドン」、という言葉だけを聴きとって話を作り上げているんです。聞こえないから覚えられない。覚えられなくて忘れる一方。忘れる一方だから徐々にもの静かになっていくんですね。よく喋る姉や嫁には少しは母のマネして欲しいのですが・・。
☆早口と長い話は御法度。お年寄りには簡単、明瞭にゆっくりと耳元で語り掛けよう。
お年寄りには早口で話し掛けるのは酷ですね。ゆっくりと端的に必要な事だけを一人一人に語り掛ける気持ちで接したいですね。早口で喋っても結局は、「はあ?」、ですから2度3度と同じ言葉を喋る事になるよりも、ゆっくり目に話掛けて1度で理解して貰った方が疲れもないと思うんです。
「うわーっ、お義母さん見てっ。これなんだろう、これなんだろう、お義母さん知っています?。この花の名前」。こんな話し掛けなんかは(愚の骨頂)です。
恐らく、母の耳には「わんこソバ粉がモンゴルで作られていた事知っています?」、くらいにしか聞こえていないはずです。
「へーっ、わんこソバって何だい。モンゴルって朝青龍の生まれた国さ。そのくらいは知っとるよ」。
控室に音響担当の上原氏が奥さんを連れてやって来ました。奥さんが、「あらっ、高橋さん、太りましたよね?、身体が大きくなっている。顔色もいいし」、と言うんです。この言葉は私を調子つけてくれました。本番を前に、「痩せましたね。顔色も悪いし・・」、なんて言われたら一気にテンション下がりますからね。
さあ、これから本番です。会場の垂れ看板の文字が「母に命を返す時」となっているのが多少は気になりますが・・、そう思っている処へ福住さんのお知り合いの奈良からのお客様が面会に来られ、「今日は期待していますからね」、と心付けを渡されました。
いつものように、舞台に軽く会釈して般若心経本をモニタースピーカ裏に立て掛けてマイクに向かいました。同居6年目の母が95歳になった事。要介護度が4になった事。日常の全てに介助が必要になった事。私の事を一回り上だったイサム兄さんと勘違いしてオジちゃんと呼ぶ瞬間がある事。そして、一番最新の作品の[♪母の童歌]を唄い始めました。
[♪母の童歌]の詩は自分でもよく書けたなと思います。もう、今の母は来熊時に語っていた話さえなかなか思い出せません。私は必死に当時の母の話を思いだし、姉に嫁に確認しながら書きました。この作品は母と一緒に代継神社や宇留毛神社に通ううちに母の故郷にある[姫神社]の事を私自身が思い描いた事から詩が浮かび始めたのです。どこの神社でもそうですが、祠に相当するような穴が敷地の至る所にあります。
皆さん、鳥居の語源をご存知ですか?。文字通りに昔は季節の鳥が住んだり、獣が住んだ穴ぐらだったり、大きな石が転がり抜けた跡だったり、清水の湧出る穴だったりした場所なんです。遠い昔にはそうした場所を聖なる場所として近所に住む方々が木や石で作った小さな鳥居を飾ったりしたものなんです。
「この穴から歌が浦の姫神社に行けたらいいね」、と私が言えば、「ああ、行きたいね。母ちゃまにアンタを会わせて自慢したいよ」、と母が言ったのです。私は母のこの一言でこの5年間の暮らしを納得しました。
私はこの山鹿コンサートに掛けるものは十分に在りました。この[母の童歌]を人様に聴いて欲しかったのです。こうして、この日は、「母がピエロになっていく」、をラスト曲として全16曲を2時間で唄い切りました。お陰さまでCDも40枚を買って頂いて感謝します。
☆失語症、そしてその前兆・・母の場合
最近、本当に母の言葉が減りました。7月5日の山鹿コンサートの会場でも言ったように、モノの名前、それを形容する言葉を忘れているから心で感じてもそれを表現できないでいるような気がします。
花、皿、水、お茶、箸、コップ、車・・等々の日常的に使う言葉は割と大丈夫なんです。処が、花瓶、取り皿、真水、塩水、急須、ほうじ茶、グラス、電柱、電線、コンセント、ポット、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、炊飯器、クーラー・・、といったモノの名前を忘れているんです。
「ほら、・・花の入ったアレ(花瓶)に・・水を入れてやりなさい」、「あそこのアレ(電柱)に留まった黒いアレ(カラス)は何ネ、アレ(鳩)ね・・どっちね。
実は、この失語というのはお年寄りが老いを強く意識する瞬間なんです。自分が感じる感動や疑問を周囲の誰かに伝えたいという意識は強くあるのにそれが表現出来ない、という、思い出せない事よりも周囲に伝えられない苦しさ、・・これはとても辛い事だと思います。
日本語しか喋れない私達が突然に異国の地に放り出されたような感覚ではないでしょうか。
☆喋りには聴覚が関係するはず。
失礼な言い方ですが聴覚に異常のある方は喋りにも異常がありますね。母の耳は昔から遠い方だったんですが、徐々に、そしてここ最近は特に聞こえが悪くなっています。
2003年に我家に来た頃の母は我家のダイナミックな性格の嫁がいい加減に絞めた8mほど離れた台所のピチャッ、・・ピチャッという水道の蛇口から滴る水の音を気にするほどの聴覚をした母でした。この失語症が出始めてからの母は夜中にCDを低めに鳴らしても全く気づかないくらいになっています。失語症には聴覚が関係するようです。
「つやサンはもの静かでニコニコと聞き上手です」、とデイ施設のヘルパーさんが言いますが、そうではないですね。聞こえてないから返事ができない。会話にならないだけなんです。
例えば、母と一緒にデイから帰る途中の赤信号で私達が停車していて、「今日は車が多いね。黄色信号でも次から次にドンドンと交差点に入って来やがって・・この野郎」、と私が言い言いながら右折してくる車を睨みつけている時など、「へーっ、この近くに黄色いうどんを食べさせる所があるのかい」、と言ったりします。母は私の言葉の中から、「黄色、ドンドン」、という言葉だけを聴きとって話を作り上げているんです。聞こえないから覚えられない。覚えられなくて忘れる一方。忘れる一方だから徐々にもの静かになっていくんですね。よく喋る姉や嫁には少しは母のマネして欲しいのですが・・。
☆早口と長い話は御法度。お年寄りには簡単、明瞭にゆっくりと耳元で語り掛けよう。
お年寄りには早口で話し掛けるのは酷ですね。ゆっくりと端的に必要な事だけを一人一人に語り掛ける気持ちで接したいですね。早口で喋っても結局は、「はあ?」、ですから2度3度と同じ言葉を喋る事になるよりも、ゆっくり目に話掛けて1度で理解して貰った方が疲れもないと思うんです。
「うわーっ、お義母さん見てっ。これなんだろう、これなんだろう、お義母さん知っています?。この花の名前」。こんな話し掛けなんかは(愚の骨頂)です。
恐らく、母の耳には「わんこソバ粉がモンゴルで作られていた事知っています?」、くらいにしか聞こえていないはずです。
「へーっ、わんこソバって何だい。モンゴルって朝青龍の生まれた国さ。そのくらいは知っとるよ」。
2008年11月05日
♪:同居記録:41
☆6.21。深夜の1:45。母の夜間トイレの1回目。
ピコピコと私の布団の中のブザーが鳴った。隣室でモソモソと動く母の気配がします。私が母の部屋に入り、Pトイレに座らせた時には中敷き一杯がグッショリでした。腹筋も弱った母はベッドから自分の上体を起こすだけでも大変なんです。母の部屋に入ってきた私の姿を見た安心感でジョーッなのかも知れませんね。だから、Pトイレに座らせた時には出てしまっている時の方が多いんです。
☆同6.21/7.05の山鹿コンサートの仕掛け人、元看護婦長の福住さんから連絡。
正午近く、「お母様はどうですか?」。「コンサートへの心準備は?」、と電話を頂く。介護トークは兎も角、選曲が日によって違うから自身でも困る。私の作品は短いものでも4分50秒、長いものだと8分。平均しての6分30秒だから、120分間の中でトークを1分として発表できるのは16作品程度。しかし、過去のコンサートでは13曲が限度だから、1分のトークのつもりでいても実際には3分も喋っている事になる。この辺の調整が鍵です。
☆6.28、4月末から本格的に始めていた体力強化トレーニングで体重が劇的に増加。
3月23日の豊後大野市でのコンサートでは6曲目くらいで息が上がるという不完全燃焼でした。周囲はそうは感じなかったよ、とは言いますが、私に言わせればアップアップの脂汗状態で唄っていたのは間違いありません。
この3月23日の夜には別府市に移動して大塚博堂記念館でも1時間のライブを行なうという予定を入れていて、豊後大野市には一日前に入って周到な心積もりをしていたはずでした。しかし、旅館の我々と同じ階にどこかの会社の研修組の団体が宿泊していて深夜遅くまでボソボソと話し声が聞こえてくるんです。
翌朝、「夕べはうるさかったよな」、と嫁に聴けば、「????」。音響担当の上原氏は1階の一人部屋で熟睡。結局、私一人が眠れずに当日の本番を迎える事になり、結果は息が上がってしまうという失態を晒してしまったのでした。そして、その映像がJCN熊本によって4月、5月と放映されたのです。
前述したように、体力不足を感じて飲み始めたステロイド剤。本格的に飲み始めたのは豊後大野市のコンサート後です。そして、4月末からは腕立て伏せスクワット、左右で20Kgのダンベルを振り回したり、長年の草野球生活で培ったトレーニングを時間を見つけては始めていました。その成果?と言えるのでしょうか、この6月末の時点で首周りが3cm、体重が約7kg増加するという変化がありました。そして、何よりも2001年の腰椎分離骨折による痛みまで軽減しているのです。
理由は分かっているんです。ステロイドと筋トレの成果なんです。何かしら身体も精神もパワフルになった気がしています。この勢いで7月5日の山鹿コンサートを迎えればこれまでとは何かが違う2時間になるような気がしてなりません。
☆6.30、さあ、やってやるぞ。家で、職場で時間を見つけてはオケを流してリハーサル。
今回は21曲をピックアップ。インターネットでの評価を参考にして、最新の[母の童歌]を含む16曲が唄えればと思っています。家でも職場でも時間を見つけてはヘッドフォンを頭に歌詞を確認しています。ギターの和音を忘れているのには困ります。唄う回数よりも作るテンポが速く、作っては録音し、録音を終了しては次の作品作りに取り掛かるから今作り終えたばかりの曲を忘れてしまうのです。「へー、こんな曲を作っていたのか?」、といった感じです。結構、無責任ですよね。でも、詩を書く時だけは集中しています。[宇留毛神社の春]、[施設にて]や[籠の鳥]、[秋:夕暮れ]、[ホッホ]、[弥生の頃]などはかなりの難産だったんです。
☆7.3、仕事場へ向かう車中で2曲ほどでかい声出して唄ってみる。出辛い声が出ている。
母をデイ施設で降ろし、お茶を貰って飲みながら母や周囲のお年寄りと談笑した後で職場へ向かうのが私の朝の日課です。一人になった車の中で[飛んでけ悲しみ]と[弓削神社にて]のオケを鳴らし、大きな声で唄ってみました。今回は何かが違います。声が楽々と出ていますね。[老い、そして俺達]などはサビの音程が高くてなかなか唄えないんですが、「老いってそんなもんだよ、悲しいけどね・・」、の部分が軽く出るんです。明らかに心肺能力が上がっているようです。痩せてはいるんですが普段の私は肺活量が4800くらいあるんです。それが昨年の心筋梗塞をやって以来、ずっと調子が上がらずに悩んでいましたが、今回は声が出そうな気がしています。いい事なのか悪い事なのか、これもステロイド効果なんでしょうね。
☆ 7.4,明日の本番を前に機材搬入とリハーサル
会場の利用状況の都合で当日の音響機材の設営ができない為、1日早い設営に行きました。そして、リハーサルを約90分。1番だけでもと全く休憩を挟まずに19曲を唄ってみました。息切れもなく声が十分に思うように丁寧に唄えたんです。音響を担当する上原氏も、「たかっさん、今日はいつもの感じと全然違って唄が前面に出ていてうまく聞こえるよ」、と言うんです。
ピコピコと私の布団の中のブザーが鳴った。隣室でモソモソと動く母の気配がします。私が母の部屋に入り、Pトイレに座らせた時には中敷き一杯がグッショリでした。腹筋も弱った母はベッドから自分の上体を起こすだけでも大変なんです。母の部屋に入ってきた私の姿を見た安心感でジョーッなのかも知れませんね。だから、Pトイレに座らせた時には出てしまっている時の方が多いんです。
☆同6.21/7.05の山鹿コンサートの仕掛け人、元看護婦長の福住さんから連絡。
正午近く、「お母様はどうですか?」。「コンサートへの心準備は?」、と電話を頂く。介護トークは兎も角、選曲が日によって違うから自身でも困る。私の作品は短いものでも4分50秒、長いものだと8分。平均しての6分30秒だから、120分間の中でトークを1分として発表できるのは16作品程度。しかし、過去のコンサートでは13曲が限度だから、1分のトークのつもりでいても実際には3分も喋っている事になる。この辺の調整が鍵です。
☆6.28、4月末から本格的に始めていた体力強化トレーニングで体重が劇的に増加。
3月23日の豊後大野市でのコンサートでは6曲目くらいで息が上がるという不完全燃焼でした。周囲はそうは感じなかったよ、とは言いますが、私に言わせればアップアップの脂汗状態で唄っていたのは間違いありません。
この3月23日の夜には別府市に移動して大塚博堂記念館でも1時間のライブを行なうという予定を入れていて、豊後大野市には一日前に入って周到な心積もりをしていたはずでした。しかし、旅館の我々と同じ階にどこかの会社の研修組の団体が宿泊していて深夜遅くまでボソボソと話し声が聞こえてくるんです。
翌朝、「夕べはうるさかったよな」、と嫁に聴けば、「????」。音響担当の上原氏は1階の一人部屋で熟睡。結局、私一人が眠れずに当日の本番を迎える事になり、結果は息が上がってしまうという失態を晒してしまったのでした。そして、その映像がJCN熊本によって4月、5月と放映されたのです。
前述したように、体力不足を感じて飲み始めたステロイド剤。本格的に飲み始めたのは豊後大野市のコンサート後です。そして、4月末からは腕立て伏せスクワット、左右で20Kgのダンベルを振り回したり、長年の草野球生活で培ったトレーニングを時間を見つけては始めていました。その成果?と言えるのでしょうか、この6月末の時点で首周りが3cm、体重が約7kg増加するという変化がありました。そして、何よりも2001年の腰椎分離骨折による痛みまで軽減しているのです。
理由は分かっているんです。ステロイドと筋トレの成果なんです。何かしら身体も精神もパワフルになった気がしています。この勢いで7月5日の山鹿コンサートを迎えればこれまでとは何かが違う2時間になるような気がしてなりません。
☆6.30、さあ、やってやるぞ。家で、職場で時間を見つけてはオケを流してリハーサル。
今回は21曲をピックアップ。インターネットでの評価を参考にして、最新の[母の童歌]を含む16曲が唄えればと思っています。家でも職場でも時間を見つけてはヘッドフォンを頭に歌詞を確認しています。ギターの和音を忘れているのには困ります。唄う回数よりも作るテンポが速く、作っては録音し、録音を終了しては次の作品作りに取り掛かるから今作り終えたばかりの曲を忘れてしまうのです。「へー、こんな曲を作っていたのか?」、といった感じです。結構、無責任ですよね。でも、詩を書く時だけは集中しています。[宇留毛神社の春]、[施設にて]や[籠の鳥]、[秋:夕暮れ]、[ホッホ]、[弥生の頃]などはかなりの難産だったんです。
☆7.3、仕事場へ向かう車中で2曲ほどでかい声出して唄ってみる。出辛い声が出ている。
母をデイ施設で降ろし、お茶を貰って飲みながら母や周囲のお年寄りと談笑した後で職場へ向かうのが私の朝の日課です。一人になった車の中で[飛んでけ悲しみ]と[弓削神社にて]のオケを鳴らし、大きな声で唄ってみました。今回は何かが違います。声が楽々と出ていますね。[老い、そして俺達]などはサビの音程が高くてなかなか唄えないんですが、「老いってそんなもんだよ、悲しいけどね・・」、の部分が軽く出るんです。明らかに心肺能力が上がっているようです。痩せてはいるんですが普段の私は肺活量が4800くらいあるんです。それが昨年の心筋梗塞をやって以来、ずっと調子が上がらずに悩んでいましたが、今回は声が出そうな気がしています。いい事なのか悪い事なのか、これもステロイド効果なんでしょうね。
☆ 7.4,明日の本番を前に機材搬入とリハーサル
会場の利用状況の都合で当日の音響機材の設営ができない為、1日早い設営に行きました。そして、リハーサルを約90分。1番だけでもと全く休憩を挟まずに19曲を唄ってみました。息切れもなく声が十分に思うように丁寧に唄えたんです。音響を担当する上原氏も、「たかっさん、今日はいつもの感じと全然違って唄が前面に出ていてうまく聞こえるよ」、と言うんです。
2008年11月04日
♪:同居記録:40
☆2008.6.17。今日の母は人格に異常。車イスは必ず背中側に体重を掛けさせて移動させる事。
「何をしよっとね。注意せんね」。まるで世話をさせているような母の口調。背もたれにどっかと座らせ車椅子で移動中、突然、「これは何ね」、と身を乗出させて顔を柱の方に近づけたものだから体重が移動しててしまい、母は顔をガツーンと見事に柱にぶつけてしまった。咄嗟の出来事だから防ぎようがない。「わざとしたね。そんなに私が面倒くさいとね」。
これまでにもコーナーを回転する際に「これは何ね」、と床のフローリングのつなぎ目か何かを指で触ろうとして身を乗出させた母が車椅子から飛び出して転倒した事が何度もある。体重が前に移動すると危険なんです。
車椅子で移動する時には注意するようにその度に言うのですが、「ハイハイ」、というだけで、実は何も聞いてはいないのです。つまり、母には聞く姿勢がないのだです。
これは、耳が聞こえる聞こえない、ものが見える見えないというレベルの話ではなく、母が若い頃から持つ、周囲を小馬鹿にする悪い癖の名残りなんです。
「倒れたんじゃなく、横になっている」、「立てないのではなく、床に座り込みたかった」、と言う母の言葉にもサッパリ真意が分からない時があるんです。何故なら、暑い日の母は本当に、「床に直寝も気持ちいいよ」、と横になる事があるからです。
☆久し振りに胃の痛みが続くので薬局へ。「JCN熊本の10chを見ましたよ」、と。
今日、母を施設に向かえに行った帰路、知合いの薬剤師さんを訪ねて時々に顔を出す十二指腸潰瘍の治療薬を買い求めました。ゼリア製薬の[Uチーフ]という薬は胃痛にはとても効きます。
「10Chかな、偶然にケーブルTV見ましたよ」、と。「詩を改めて聴いていると、貴方は大変な日々を送っていると思いますよ」、と言われました。
「何にも分からない、知らない、というのは世の中の最大の罪悪だと思います」、とも言われていました。「もう、相手は母親じゃなく、ある意味では人間性もない不思議な生物のはずだから正常な精神性はない。どこかで切り離した生活をしたがいいんじゃないですか」、とも。厳しい表情で断言されました。
「私にとって、貴方のお母さんはどうでもいい事。高橋さんが元気に元の暮らしに戻る事の方が余程大事ですよ。お姉さん、お兄さんはそこが分かっているんですよ」、と言われました。私にはすごく重い先輩の言葉を聞いて帰宅した直後の母の異常性出現だったので今はすっかり考え込んでいます。結局、考え方と生活の違いかな。私は、「子供も作ってやれなかった嫁には何を残せるのだろうか」、という事と。「母の命は俺の命より重い」、といつも考えているのは間違いありません。
☆2008.6.19。もう、ほぼ2週間後に山鹿市コンサートが迫る。選曲とトークの原稿書きでも・。
昨日、いつものように母をデイ施設に迎えに行って一緒に帰宅した際、郵便ポストに山鹿市からの[出演依頼書]が入っていました。いつもの事ですが、[シンガー・高橋尚宏様]と書かれた宛名書きを見ると独特の気持ちになります。背筋がブルブルっと何か変なんです。普通のおじさんのつもりなんですが・・、この文字を見た途端にテンションが上がり始めるんです。今回は医療関係者が多いとか・・。母が骨折して入院して頃の話や、その頃に感じていた施設への不満。ここがこう変わって欲しい・・、そんな注文を患者の家族側の意見として伝えて欲しいとも言われています。しかし、山鹿保健センターの方からは、「作品の詩の中にはそうしたものへのメッセージも十分に含まれているから、トークよりも1曲でも多くの作品を唄って欲しい」、との電話も頂いていて、どうしたものか。今朝早くから職場の事務所の机でずっと考えています。2時間をどのような作品で埋めていくか、途中のギターの持替えやキーボードを弾くか弾かないかで迷っている事。トークの流れに沿った選曲をと、考えています。
☆6.20。山鹿保健センターの小林氏から。会場への機材搬入とリハーサルについて電話を頂く。
コンサート当日のお袋の事、会場への道順、機材搬入とリハーサルの件。一つのコンサートを行なうにはいろんな人達の力を借りる必要がある。だからこそ感動的な作品を作って恩返しをしなくてはいけない。そろそろ、酒も抑えて体調を上げていかないと、と思います。
「何をしよっとね。注意せんね」。まるで世話をさせているような母の口調。背もたれにどっかと座らせ車椅子で移動中、突然、「これは何ね」、と身を乗出させて顔を柱の方に近づけたものだから体重が移動しててしまい、母は顔をガツーンと見事に柱にぶつけてしまった。咄嗟の出来事だから防ぎようがない。「わざとしたね。そんなに私が面倒くさいとね」。
これまでにもコーナーを回転する際に「これは何ね」、と床のフローリングのつなぎ目か何かを指で触ろうとして身を乗出させた母が車椅子から飛び出して転倒した事が何度もある。体重が前に移動すると危険なんです。
車椅子で移動する時には注意するようにその度に言うのですが、「ハイハイ」、というだけで、実は何も聞いてはいないのです。つまり、母には聞く姿勢がないのだです。
これは、耳が聞こえる聞こえない、ものが見える見えないというレベルの話ではなく、母が若い頃から持つ、周囲を小馬鹿にする悪い癖の名残りなんです。
「倒れたんじゃなく、横になっている」、「立てないのではなく、床に座り込みたかった」、と言う母の言葉にもサッパリ真意が分からない時があるんです。何故なら、暑い日の母は本当に、「床に直寝も気持ちいいよ」、と横になる事があるからです。
☆久し振りに胃の痛みが続くので薬局へ。「JCN熊本の10chを見ましたよ」、と。
今日、母を施設に向かえに行った帰路、知合いの薬剤師さんを訪ねて時々に顔を出す十二指腸潰瘍の治療薬を買い求めました。ゼリア製薬の[Uチーフ]という薬は胃痛にはとても効きます。
「10Chかな、偶然にケーブルTV見ましたよ」、と。「詩を改めて聴いていると、貴方は大変な日々を送っていると思いますよ」、と言われました。
「何にも分からない、知らない、というのは世の中の最大の罪悪だと思います」、とも言われていました。「もう、相手は母親じゃなく、ある意味では人間性もない不思議な生物のはずだから正常な精神性はない。どこかで切り離した生活をしたがいいんじゃないですか」、とも。厳しい表情で断言されました。
「私にとって、貴方のお母さんはどうでもいい事。高橋さんが元気に元の暮らしに戻る事の方が余程大事ですよ。お姉さん、お兄さんはそこが分かっているんですよ」、と言われました。私にはすごく重い先輩の言葉を聞いて帰宅した直後の母の異常性出現だったので今はすっかり考え込んでいます。結局、考え方と生活の違いかな。私は、「子供も作ってやれなかった嫁には何を残せるのだろうか」、という事と。「母の命は俺の命より重い」、といつも考えているのは間違いありません。
☆2008.6.19。もう、ほぼ2週間後に山鹿市コンサートが迫る。選曲とトークの原稿書きでも・。
昨日、いつものように母をデイ施設に迎えに行って一緒に帰宅した際、郵便ポストに山鹿市からの[出演依頼書]が入っていました。いつもの事ですが、[シンガー・高橋尚宏様]と書かれた宛名書きを見ると独特の気持ちになります。背筋がブルブルっと何か変なんです。普通のおじさんのつもりなんですが・・、この文字を見た途端にテンションが上がり始めるんです。今回は医療関係者が多いとか・・。母が骨折して入院して頃の話や、その頃に感じていた施設への不満。ここがこう変わって欲しい・・、そんな注文を患者の家族側の意見として伝えて欲しいとも言われています。しかし、山鹿保健センターの方からは、「作品の詩の中にはそうしたものへのメッセージも十分に含まれているから、トークよりも1曲でも多くの作品を唄って欲しい」、との電話も頂いていて、どうしたものか。今朝早くから職場の事務所の机でずっと考えています。2時間をどのような作品で埋めていくか、途中のギターの持替えやキーボードを弾くか弾かないかで迷っている事。トークの流れに沿った選曲をと、考えています。
☆6.20。山鹿保健センターの小林氏から。会場への機材搬入とリハーサルについて電話を頂く。
コンサート当日のお袋の事、会場への道順、機材搬入とリハーサルの件。一つのコンサートを行なうにはいろんな人達の力を借りる必要がある。だからこそ感動的な作品を作って恩返しをしなくてはいけない。そろそろ、酒も抑えて体調を上げていかないと、と思います。
2008年11月03日
♪:同居記録:39
☆母の部屋はタイムカプセル
ついさっき(2008年6月15日の0時50分)の事です。私の布団の中のブザーがピコピコと鳴りました。母のトイレタイムです。布団からオシッコに起きようとしているのをセンサーが知らせてくれたのです。
私は眠い目をこすりながら、「入るよ」、「手伝うよ」、等と言いながら部屋のドアを開けるのですが、今夜のさっきの母は大正10年、8歳くらいの頃に戻っている時でした。
幼い表情で、「まだ・・、起きてござったと?」。母は私を父の河内松若か兄の勇さんくらいに勘違いをしているのです。「うん、いろいろと考え事があってね」、と言いながら私は母の背中に左手を、右手を両足の下に入れて抱き抱えるようにして起こしてベッドに座らせ、今度は両脇の下に手を入れて立たせてポータブルトイレに何とか座らせます。
「はよう、部屋にお戻りまっせ」、母は独りではPトイレから立てないのですが、8歳の頃に戻っている母はオシッコをする姿を父や兄には見られたくないのか座るだけでなかなかオシッコをしようとはしません。こんな時の私はベッドの横にある蓋のついたお茶飲みコップを咄嗟に掴み冷たい氷を入れに台所へ向かいます。部屋に戻って冷たいお茶を飲ませたりすると、「ああ、あんたネ。まだ、起きとったね」、と2008年6月15日の母に戻ります。
[母の部屋はタイムカプセル]って、いい表現だと思いませんか?。
次にセンサーで起こされて母の部屋に入る時は一体、いつの時代の母だろうか、と思うだけでも夜の楽しみ?がそれなりに出来るものなんですよ。朝の食事で母と向かい合う時など、「母チャン、歳をとるって羨ましいよ。毎晩、旅行ができて・・さ」、と言うと、「私にゃ、あんたの言っとる事がさっぱり分からん。早う、ご飯食べなさいよ」。皆さんのご家庭でもよくある光景ではありませんか?。
☆2008.6.16。久し振りの照明オペレート。
職場の同僚が法事の為に3日連休の里帰り。この為、ホールの14,15日のイベントでは私が照明を担当する事になり、6月はハードな月になっている。しかし、14日も15もパートの女性に15:30の緊急出勤をお願いして16:00以降の照明オペレートを引継いで頂いたお陰で16:20には自宅に戻る事が出来た。
それでも、15日の日曜の母は、「おじちゃんはどこ」、「尚宏の姿が見えないね」、と繰返していたらしい。
☆母の「えーと・・、あんたは誰だったかね」、に気分屋の兄貴が見事に反応。
昨日の夕方、兄嫁が佐世保の実家の庭で穫ったミカンケース一杯の枇杷の実を送ってくれていた為、そのお礼を言おうと電話したのだが、何とも見苦しい会話になってしまい、兄嫁には辛い思いをさせる結果になった。
母と兄嫁が仲良く会話した後で兄と代わったのだが、「えーと・、あんたは誰だったかね」、という母の言葉に対し、「分からんならそれでいい」、とプツンと電話を切ってしまったのだ。これが長男の口から出る言葉か、実に哀れな親子の会話を目撃しました。「さっきのは誰ね」、と聞く母に、「兄貴さ、我家の長男さ」、と言うと母は、「・・・」、呆然として考え込んでいました。幾つになろうがあいつは駄目。あんたは何の為に、誰の事を念じて仏壇に手を合わせているんだ・・。生活に矛盾のある者、気分屋(多重人格)は私が一番苦手とする人種なんです。
☆山鹿市保健センターから7.05コンサートに関した確認の電話と挨拶
14:00~16:00の2時間と決定。13:00からが総会があり、その後にコンサートを設定しているとの事。今回は看護師さんを始めとした病院関係者や施設関係者が多く、研修会形式で一般客は少ないとの事。
私の作品には介護家族の思いが綴られていて、唄そのものがメッセージソングだから介護話よりも作品を一つでも多く発表して欲しいという事でした。コンサートは19日後ですから早いものです。
今回はインターネットでも評判がいい♪[母の童歌]は外せないと思っています。
☆最近、凝っている[洋風お好み焼き]が我家で評判。
この春先から母の食欲が落ちている事は既述しました。だから、食卓に[たこ焼き]を追加して見たのですが、タコは歯茎を痛めるし高い食材でもあるから止めました。そこで登場したのが[洋風お好み焼き]です。
まだまだ、研究の余地だらけのようですが嫁は、「美味い」、と言う日が増えて母も日増しに食べる確率が増えているようです。残れば残ったで翌日の私と嫁の昼の弁当になりますからね。
中力粉と薄力粉を混ぜて水でトロトロの薄目の状態にしておきます。摺り下ろした山芋をいれてもいいし、牛乳で練ってもいいですね。千切りキャベツ、千切りニンジン、千切りカボチャ、千切りジャガイモ、モヤシやタマネギ、茄子に挽肉や乾燥小エビ、日によってはツナやトウモロコシなどを、また、ピザ風に仕上げたい場合にはトマトやセロリ、パセリを強調します。しゃぶしゃぶ用の豚肉もいいですね。フライパンで超弱火で蓋をして焼きます。野菜などに火が通ったら一皿ずつに盛り分けて家族が食卓に揃うまでスタンバイ。家族が揃ったら最後にとろけるチーズを乗せてオーブンに皿ごと入れて強火で一気に加熱し、チーズの表面に焦げ目が確認できたら完成です。魚粉と青のりをまぶし、マヨネーズ、市販のお好み焼きソースを掛けて食べます。我家では豚カツソースをベースにした手作りソースを使います。料理の過程で、シチューの素、カレー粉、デミグラスソースや意外に味噌等を使ってアレンジを加えても面白いです。メリケン粉を多く、堅めに練った奴を使うととんでもない結果になります。薄すぎるくらいの液状に薄く溶く事がポイントです。
ついさっき(2008年6月15日の0時50分)の事です。私の布団の中のブザーがピコピコと鳴りました。母のトイレタイムです。布団からオシッコに起きようとしているのをセンサーが知らせてくれたのです。
私は眠い目をこすりながら、「入るよ」、「手伝うよ」、等と言いながら部屋のドアを開けるのですが、今夜のさっきの母は大正10年、8歳くらいの頃に戻っている時でした。
幼い表情で、「まだ・・、起きてござったと?」。母は私を父の河内松若か兄の勇さんくらいに勘違いをしているのです。「うん、いろいろと考え事があってね」、と言いながら私は母の背中に左手を、右手を両足の下に入れて抱き抱えるようにして起こしてベッドに座らせ、今度は両脇の下に手を入れて立たせてポータブルトイレに何とか座らせます。
「はよう、部屋にお戻りまっせ」、母は独りではPトイレから立てないのですが、8歳の頃に戻っている母はオシッコをする姿を父や兄には見られたくないのか座るだけでなかなかオシッコをしようとはしません。こんな時の私はベッドの横にある蓋のついたお茶飲みコップを咄嗟に掴み冷たい氷を入れに台所へ向かいます。部屋に戻って冷たいお茶を飲ませたりすると、「ああ、あんたネ。まだ、起きとったね」、と2008年6月15日の母に戻ります。
[母の部屋はタイムカプセル]って、いい表現だと思いませんか?。
次にセンサーで起こされて母の部屋に入る時は一体、いつの時代の母だろうか、と思うだけでも夜の楽しみ?がそれなりに出来るものなんですよ。朝の食事で母と向かい合う時など、「母チャン、歳をとるって羨ましいよ。毎晩、旅行ができて・・さ」、と言うと、「私にゃ、あんたの言っとる事がさっぱり分からん。早う、ご飯食べなさいよ」。皆さんのご家庭でもよくある光景ではありませんか?。
☆2008.6.16。久し振りの照明オペレート。
職場の同僚が法事の為に3日連休の里帰り。この為、ホールの14,15日のイベントでは私が照明を担当する事になり、6月はハードな月になっている。しかし、14日も15もパートの女性に15:30の緊急出勤をお願いして16:00以降の照明オペレートを引継いで頂いたお陰で16:20には自宅に戻る事が出来た。
それでも、15日の日曜の母は、「おじちゃんはどこ」、「尚宏の姿が見えないね」、と繰返していたらしい。
☆母の「えーと・・、あんたは誰だったかね」、に気分屋の兄貴が見事に反応。
昨日の夕方、兄嫁が佐世保の実家の庭で穫ったミカンケース一杯の枇杷の実を送ってくれていた為、そのお礼を言おうと電話したのだが、何とも見苦しい会話になってしまい、兄嫁には辛い思いをさせる結果になった。
母と兄嫁が仲良く会話した後で兄と代わったのだが、「えーと・、あんたは誰だったかね」、という母の言葉に対し、「分からんならそれでいい」、とプツンと電話を切ってしまったのだ。これが長男の口から出る言葉か、実に哀れな親子の会話を目撃しました。「さっきのは誰ね」、と聞く母に、「兄貴さ、我家の長男さ」、と言うと母は、「・・・」、呆然として考え込んでいました。幾つになろうがあいつは駄目。あんたは何の為に、誰の事を念じて仏壇に手を合わせているんだ・・。生活に矛盾のある者、気分屋(多重人格)は私が一番苦手とする人種なんです。
☆山鹿市保健センターから7.05コンサートに関した確認の電話と挨拶
14:00~16:00の2時間と決定。13:00からが総会があり、その後にコンサートを設定しているとの事。今回は看護師さんを始めとした病院関係者や施設関係者が多く、研修会形式で一般客は少ないとの事。
私の作品には介護家族の思いが綴られていて、唄そのものがメッセージソングだから介護話よりも作品を一つでも多く発表して欲しいという事でした。コンサートは19日後ですから早いものです。
今回はインターネットでも評判がいい♪[母の童歌]は外せないと思っています。
☆最近、凝っている[洋風お好み焼き]が我家で評判。
この春先から母の食欲が落ちている事は既述しました。だから、食卓に[たこ焼き]を追加して見たのですが、タコは歯茎を痛めるし高い食材でもあるから止めました。そこで登場したのが[洋風お好み焼き]です。
まだまだ、研究の余地だらけのようですが嫁は、「美味い」、と言う日が増えて母も日増しに食べる確率が増えているようです。残れば残ったで翌日の私と嫁の昼の弁当になりますからね。
中力粉と薄力粉を混ぜて水でトロトロの薄目の状態にしておきます。摺り下ろした山芋をいれてもいいし、牛乳で練ってもいいですね。千切りキャベツ、千切りニンジン、千切りカボチャ、千切りジャガイモ、モヤシやタマネギ、茄子に挽肉や乾燥小エビ、日によってはツナやトウモロコシなどを、また、ピザ風に仕上げたい場合にはトマトやセロリ、パセリを強調します。しゃぶしゃぶ用の豚肉もいいですね。フライパンで超弱火で蓋をして焼きます。野菜などに火が通ったら一皿ずつに盛り分けて家族が食卓に揃うまでスタンバイ。家族が揃ったら最後にとろけるチーズを乗せてオーブンに皿ごと入れて強火で一気に加熱し、チーズの表面に焦げ目が確認できたら完成です。魚粉と青のりをまぶし、マヨネーズ、市販のお好み焼きソースを掛けて食べます。我家では豚カツソースをベースにした手作りソースを使います。料理の過程で、シチューの素、カレー粉、デミグラスソースや意外に味噌等を使ってアレンジを加えても面白いです。メリケン粉を多く、堅めに練った奴を使うととんでもない結果になります。薄すぎるくらいの液状に薄く溶く事がポイントです。
2008年11月02日
♪:同居記録:38
☆「どこにも行かせんよ。どこにもやらんよ」、「俺の命が尽きても護ってやるよ」。
「私をタライ回しにしないで・・」、私と暮らし始めた頃の母がよく言っていました。同居4年目を迎えた春、「私はここでずっと暮らすよ」、と言いました。「どこにも行かせんよ。どこにもやらんよ」、と私は母と自分自身に改めて誓いました。
どんなに貧乏しようが持続こそが私流の正義なんです。今の母なら朽ちた私の屍のそばにだって眠るはずです。
もう、母はもの静かな心象世界に移り住み始めています。やがて母の住む世界が私が一度訪ねたあの紫の世界であれば、私は簡単に母を探しあてる事ができる気がしています。その時、【母に生命を返す時】も完結するのです。
♪:弥生の頃
☆介護家庭の皆様へ
今日現在、老いた父親や母親と苦労を共にされる人達に言いたい。「父を、或いは母を最期まで看取ろう」、という自分への誓い、その誓いの持続こそが正義だと思います。
父母の老いという、どうしようもなく崩れ、薄れいく人生の終焉期。流れ始めた水を止める事に一度失敗した者達はどんな事でも言います。「今なら世話できる」、「今度こそ優しくできる」、と。それは身勝手な話です。
私の母の場合、私達が母に与えた和室の畳の上で、老いた自分の身体から流れ出す臭い便を最初に手の平に受けた私を選んだのです。
誰かの為に何かをしようと思うなら棄てる事も同時に考えねばいけません。好きな事して、果てぬ夢追う片手間で、ビール片手に老いていく一方の父母の話はして欲しくない、そう思います。
兄弟間の似たような問題はどこの介護家庭でもよく聞かれる事です。今回、これまではためらっていた部分までを書いてしまいました。もう、綺麗事の文章は止めます。介護って臭いし、汚いし、疲れます。でも、95歳にもなる母親と暮らせる事って素晴らしくて幸せ事なんです。
☆2008年6月10日、7月21日の浦田剛コンサートの件で打ち合わせ。
2008年7月21日にはまだ遠いのですが、仕事場に浦田剛氏が訪ねて来られました。この浦田氏は今は不動産屋さんですが、彼の横浜時代にはゴールデンカップスなどと張り合うグループの一員だったとか。実力的には熊本NO1のシンガーだと思います。7月21日のこの浦田氏のコンサートのゲストとして私が招待されている為、その打合せだったのです。益城文化会館という豪華なコンサートホールで800名は収容できるとか・・。ちょっと、ビビッています。2週間後に照明の打ち合わせ、その2週間後に最終打ち合わせ、本番日の午前中がリハーサルという事です。4,5曲を準備しておけとの事。「籠の鳥」、「母の童唄」、「花ミズキ」、「風に吹かれて」、をメインに、「母のクーデター」を予備曲にと考えています。これだと、ギター2本の持替えで済むし・・。
☆その前に、2008.07.05の山鹿市でのコンサートを頑張ろう。
ただ、先ずはその前の7月5日に予定されている山鹿市での私のコンサートを成功させないといけません。今回は看護協会絡みだそうで、介護家庭からみた病院への希望などもトークの中に入れるような指示がある為、そろそろ選曲と原稿書きをしようと思います。
☆2008年6月11日、「母ちゃん来月は山鹿市でコンサートさ」、「えっ、山田市?」。
母の聴覚というか言葉の認識みたいなものが更におかしくなってきた最近です。
「母ちゃん、後1ヵ月後に山鹿市で俺のコンサートが開かれるよ」、と言えば、「えっ、山田市でかい」、「違うさ、ヤマガシさ」、「山田市だろう?」。「違う、ダではなくてホシガキのガのヤマガさ」、と言えば、「ホシガシってかい?」、といった感じでさっぱり要領が得ません。
例えば、「ほら、チョウチョが飛んでいるよ」、と言えば、最初は、「キョウキョ?」、と聞こえるようですが、「♪チョウチョ♪チョウチョのチョウチョさ」、と唄いながら言えば、「あー、チョウチョね」、と話が通じる処をみると、記憶に残っている言葉であれば通じるようです。その証拠に猫と言えば、最初は「テコ」、と聞こえても、「にゃんにゃんの猫さ」、と言えば、「ああ、猫ね」、と答えて、その後の話に入れます。
☆めっきり認知が進んだ最近の母
もう、テレビの会話やストーリーなどは全く理解せず、画面の中のタレントやキャスターを見て、「あは、ご覧よ、あのだらしないヒゲ」、とか、「頭の上が薄くて・・、情けないね・・」、みたいな事ばかり言っています。認知が進んだ母の最近です。
「私をタライ回しにしないで・・」、私と暮らし始めた頃の母がよく言っていました。同居4年目を迎えた春、「私はここでずっと暮らすよ」、と言いました。「どこにも行かせんよ。どこにもやらんよ」、と私は母と自分自身に改めて誓いました。
どんなに貧乏しようが持続こそが私流の正義なんです。今の母なら朽ちた私の屍のそばにだって眠るはずです。
もう、母はもの静かな心象世界に移り住み始めています。やがて母の住む世界が私が一度訪ねたあの紫の世界であれば、私は簡単に母を探しあてる事ができる気がしています。その時、【母に生命を返す時】も完結するのです。
♪:弥生の頃
☆介護家庭の皆様へ
今日現在、老いた父親や母親と苦労を共にされる人達に言いたい。「父を、或いは母を最期まで看取ろう」、という自分への誓い、その誓いの持続こそが正義だと思います。
父母の老いという、どうしようもなく崩れ、薄れいく人生の終焉期。流れ始めた水を止める事に一度失敗した者達はどんな事でも言います。「今なら世話できる」、「今度こそ優しくできる」、と。それは身勝手な話です。
私の母の場合、私達が母に与えた和室の畳の上で、老いた自分の身体から流れ出す臭い便を最初に手の平に受けた私を選んだのです。
誰かの為に何かをしようと思うなら棄てる事も同時に考えねばいけません。好きな事して、果てぬ夢追う片手間で、ビール片手に老いていく一方の父母の話はして欲しくない、そう思います。
兄弟間の似たような問題はどこの介護家庭でもよく聞かれる事です。今回、これまではためらっていた部分までを書いてしまいました。もう、綺麗事の文章は止めます。介護って臭いし、汚いし、疲れます。でも、95歳にもなる母親と暮らせる事って素晴らしくて幸せ事なんです。
☆2008年6月10日、7月21日の浦田剛コンサートの件で打ち合わせ。
2008年7月21日にはまだ遠いのですが、仕事場に浦田剛氏が訪ねて来られました。この浦田氏は今は不動産屋さんですが、彼の横浜時代にはゴールデンカップスなどと張り合うグループの一員だったとか。実力的には熊本NO1のシンガーだと思います。7月21日のこの浦田氏のコンサートのゲストとして私が招待されている為、その打合せだったのです。益城文化会館という豪華なコンサートホールで800名は収容できるとか・・。ちょっと、ビビッています。2週間後に照明の打ち合わせ、その2週間後に最終打ち合わせ、本番日の午前中がリハーサルという事です。4,5曲を準備しておけとの事。「籠の鳥」、「母の童唄」、「花ミズキ」、「風に吹かれて」、をメインに、「母のクーデター」を予備曲にと考えています。これだと、ギター2本の持替えで済むし・・。
☆その前に、2008.07.05の山鹿市でのコンサートを頑張ろう。
ただ、先ずはその前の7月5日に予定されている山鹿市での私のコンサートを成功させないといけません。今回は看護協会絡みだそうで、介護家庭からみた病院への希望などもトークの中に入れるような指示がある為、そろそろ選曲と原稿書きをしようと思います。
☆2008年6月11日、「母ちゃん来月は山鹿市でコンサートさ」、「えっ、山田市?」。
母の聴覚というか言葉の認識みたいなものが更におかしくなってきた最近です。
「母ちゃん、後1ヵ月後に山鹿市で俺のコンサートが開かれるよ」、と言えば、「えっ、山田市でかい」、「違うさ、ヤマガシさ」、「山田市だろう?」。「違う、ダではなくてホシガキのガのヤマガさ」、と言えば、「ホシガシってかい?」、といった感じでさっぱり要領が得ません。
例えば、「ほら、チョウチョが飛んでいるよ」、と言えば、最初は、「キョウキョ?」、と聞こえるようですが、「♪チョウチョ♪チョウチョのチョウチョさ」、と唄いながら言えば、「あー、チョウチョね」、と話が通じる処をみると、記憶に残っている言葉であれば通じるようです。その証拠に猫と言えば、最初は「テコ」、と聞こえても、「にゃんにゃんの猫さ」、と言えば、「ああ、猫ね」、と答えて、その後の話に入れます。
☆めっきり認知が進んだ最近の母
もう、テレビの会話やストーリーなどは全く理解せず、画面の中のタレントやキャスターを見て、「あは、ご覧よ、あのだらしないヒゲ」、とか、「頭の上が薄くて・・、情けないね・・」、みたいな事ばかり言っています。認知が進んだ母の最近です。
2008年11月01日
同居記録:37
☆介護同居、どこの家庭でもある親のお金の使い方。
例えば、長男が母の世話をしている頃は認知が出ていた日の母が言ったかも知れない、「私がお金を出してあげるから車を買い換えなさいよ」、という言葉だけで車を買って貰ったりしているくせに、その母が弟の家に移ってから同じような事を言って弟が新車に買い換えたりした途端、長男が、「お前は母の認知をいい事に好き放題に母の財布を開けて・・」、と。こんな落語みたいな話はどこの家庭でもあるようです。
断っておきますが、この話は私の兄弟の遣り取りではありませんし、私には車の趣味などはありません。でも、似たような問題は我家にもあるんです。だから、私の家庭に置き換えて書いてみたいと思います。これも、介護家庭の皆様の家ではよくある話だと思うからです。
☆この5月、姉の来熊で多少話題になった事について。
先日、姉が来熊した際、「貴方達は親のお金をどう思っているの?」、と私に言ったのです。こうした兄弟間の話題はいい事だと思います。母のお金は母のもの。手をつけずにおくのが理想ですが、貯めてばかりでもどうしようもありません。要は母の最期を看取る費用分だけがあれば、生きている間の母が喜ぶような事に使って構わないと思っています。
自分がお世話している頃にはそんなには使ってはいなかった・・、というのは現状認識が足りません。衣食住には価値観の違いがあり、どの部分にどのくらいの比重を掛けろなんて話もおかしい。母が服が好きなら服代に、高価な花が好きならその花代に。食事の費用に、と何に使ってあげてもいいじゃありませんか。また、今現在の私達の経済状態の中で果たせる母の役割というものがあってもそれは当然の事です。私の暮らしが苦しくなれば母の預金を取り崩すしかありません。
☆少しだけ皮肉。私達夫婦は姉・兄夫婦の生活さえ守っている。「これで安心」、だと日常に胡座を組むのは止めてくれ。
母との同居が6年目を迎えたからこそ言っても許される事があっていいと思います。私達夫婦の頑張りのお陰で母が無事に暮らせ、長女の娘は無事に出産を終え、長女自身の術後の頭痛も治ってこの1年で2回の海外旅行が楽しめているんです。長男夫婦にしても、あれ程に熱心だった母との同居をいつの間にか疎ましい感じて放棄し、母を長崎へ。兄嫁の過呼吸も治った事でしょう。そして、後を引受けた姉も3ヶ月で母との同居を断念。言葉では幾らでも理由を補えます。しかし、老いを重ねる人間の現実をもっと見て欲しい。そして、その老いを支えている者の姿を考えて欲しい。
現実から逃げるのも構わないが、現実と闘う姿勢をもっと示すべきだと思います。これは、全ての家庭に言いたい事です。よく考えて欲しいのは、母だけではなく、今の母をお世話している私や嫁が倒れただけでも姉夫婦や兄夫婦の困窮が再び、三度と始まるのは事実なんです。実は、その事が私の姉兄はよく分かっていないような気がします。すっかり、我欲の世界に浸りきっているような気がします。
俺だって苦しいさ。やりたい事ならあんたらより若い分だけあるさ。でも、それらの殆ど全部を棄てての毎日なんだと。もう、棄てるものなら命くらいしか俺にはないんだ、と言わせて欲しい。
☆仏壇に手を合わせても、そこには魂なんて存在しない。
日本人の大きな間違いの一つです。神前、仏壇に手を合わせるのは己の気が安らかになる儀式に過ぎません。
儀式によって心安らかになれた者は行ないが改まり、病気や怪我とも縁が薄くなり、人生を安らかに成就できるのです。考えを変えて日常を変え、生き方を変えてこそ、神仏に手を合わせた意味があるのです。
考えや行ないが変わらない限り、神仏に手を合わせる意味がないんです。そんな時間があれば、一日1回の電話、2ヶ月に1度でも母の手を握ってやる事の方が大切なんです。日本人の宗教観って心を誤魔化したり、周囲の目を誤魔化す手段にしかなっていないケースが多いですよね。
「あんたの目の前には神仏はいないよ」。我家では神仏に一番縁がある私が言うんだから間違いありません。
☆存命する親に対する行ないこそが全て。自分に対する違和感。悔いている者ほど神仏を語る。
孝行というのは存命している親に対してする事。母親に背を向けて仏壇に手を合わせる者の目の前に仏などいません。それはかの地に行ってみた者にしか分かりません。自分が喜んで迎えられる世界かそうではないか。
すべてが現世での行ないの結果次第で住む世界が違っているんです。かの地に住む者の多くは暗黒の世界に住み、功徳を積んだ者に対してのみ、少しずつ光が与えられていくんです。
☆[目があるばかりに欲しくなり]、[耳があるばかりに知りたくなり]、[口があるばかりに災いを呼ぶ]。
動物の中で、多少なりとも知恵を持つ動物は[後ずさり]、[振返り]という行動がとれます。しかし、時間を戻したり、後悔したりできるのは人間だけなんです。生活を意図的に変える事がという意味なんですが、・・、本来はそれが人間の特徴なんですが、これを出来ない人間ばかりが増えてきているんです。
☆既に要介護度4の母を姉や兄はどのようにとらえているか・・。
長男や長女と暮らしていた頃の母は要介護度1~2の頃です。オムツや中敷きだって汚す事も少なかった頃。
現在の母は既に要介護度4です。
「尚宏、おしっこ」、と私や嫁に告げた時には既に中敷きはグッショリで便器に座らせた時にはチンとも出ないくらいに中敷きにおしっこを出してしまった後なんです。デイ施設にいる時間の約5時間の交換回数は分かりませんが、この冬から秋の時期の起床してからデイに行くまで、デイから帰った後の就寝するまで、就寝して翌朝までの在宅時間帯の中敷き交換回数は平均して12回。多い日は22回の交換をしています。頻尿の症状が出ている時などは20分に1回交換します。恐らく、デイ時間帯の5時間でも2回は交換しているはずです。それに、私や嫁が気づかない間に中敷きを水洗便器に流してしまい、パイプクリーニングを1ヶ月に2回もした月がありますが、私が手をこじ入れて掴みだした事など何回もあります。このパイプ詰まりは1回で¥25,000も掛かります。
☆既に母は要介護度4。物象世界から心象世界に移り住み始めている。親孝行の在り方を考え直そう。
今の私達夫婦の過ごす時間と姉や兄夫婦が過ごす時間自体が全く異質の時間だという事を理解して欲しいのです。
私達夫婦は母と共に人生を過ごしているんだという事です。そこには疎ましさや頭痛を言訳にする隙間などありません。私にだって母を疎ましいと思う瞬間、頭痛がある日はあります。でも、次の瞬間には、「母の言葉、仕草に反応するなっ、細っていく命だけを愛しいと思え。お前が耐える分だけお前も母親の人格も上がるんだ」、と囁くもう一人の私が言うんです。・・やっぱり、弟かしら・・。
母が私と暮らす事で私の兄弟は元の暮らしに戻れました。俗世と言い、欲世とも言います。我欲を求める者は物質生活を好み、それはそれで一般的な人間らしい姿ですから構わないのですが、長男には疎ましく思われ、長女と暮らせば体調を崩させてしまい、知らぬ間に実家に戻されて半ば天に召されかけた母の場合、終の住屋として私のそばを神に与えられたのです。
「一体、真に心弱く、実体弱き者は誰だったのか」、と私は思っています。同居6年目を迎えた私達夫婦の頑張りを海外旅行の宿泊先で、仏壇の前で想像するだけの日々なのかと・・。
この同居記録の冒頭に、「父が紘子に受話器を握らせている気がした」、と私は書きました。それは今日の日の事を父は知っていたからだと思います。母は私の住む熊本へやって来て本当に良かったと思います。
例えば、長男が母の世話をしている頃は認知が出ていた日の母が言ったかも知れない、「私がお金を出してあげるから車を買い換えなさいよ」、という言葉だけで車を買って貰ったりしているくせに、その母が弟の家に移ってから同じような事を言って弟が新車に買い換えたりした途端、長男が、「お前は母の認知をいい事に好き放題に母の財布を開けて・・」、と。こんな落語みたいな話はどこの家庭でもあるようです。
断っておきますが、この話は私の兄弟の遣り取りではありませんし、私には車の趣味などはありません。でも、似たような問題は我家にもあるんです。だから、私の家庭に置き換えて書いてみたいと思います。これも、介護家庭の皆様の家ではよくある話だと思うからです。
☆この5月、姉の来熊で多少話題になった事について。
先日、姉が来熊した際、「貴方達は親のお金をどう思っているの?」、と私に言ったのです。こうした兄弟間の話題はいい事だと思います。母のお金は母のもの。手をつけずにおくのが理想ですが、貯めてばかりでもどうしようもありません。要は母の最期を看取る費用分だけがあれば、生きている間の母が喜ぶような事に使って構わないと思っています。
自分がお世話している頃にはそんなには使ってはいなかった・・、というのは現状認識が足りません。衣食住には価値観の違いがあり、どの部分にどのくらいの比重を掛けろなんて話もおかしい。母が服が好きなら服代に、高価な花が好きならその花代に。食事の費用に、と何に使ってあげてもいいじゃありませんか。また、今現在の私達の経済状態の中で果たせる母の役割というものがあってもそれは当然の事です。私の暮らしが苦しくなれば母の預金を取り崩すしかありません。
☆少しだけ皮肉。私達夫婦は姉・兄夫婦の生活さえ守っている。「これで安心」、だと日常に胡座を組むのは止めてくれ。
母との同居が6年目を迎えたからこそ言っても許される事があっていいと思います。私達夫婦の頑張りのお陰で母が無事に暮らせ、長女の娘は無事に出産を終え、長女自身の術後の頭痛も治ってこの1年で2回の海外旅行が楽しめているんです。長男夫婦にしても、あれ程に熱心だった母との同居をいつの間にか疎ましい感じて放棄し、母を長崎へ。兄嫁の過呼吸も治った事でしょう。そして、後を引受けた姉も3ヶ月で母との同居を断念。言葉では幾らでも理由を補えます。しかし、老いを重ねる人間の現実をもっと見て欲しい。そして、その老いを支えている者の姿を考えて欲しい。
現実から逃げるのも構わないが、現実と闘う姿勢をもっと示すべきだと思います。これは、全ての家庭に言いたい事です。よく考えて欲しいのは、母だけではなく、今の母をお世話している私や嫁が倒れただけでも姉夫婦や兄夫婦の困窮が再び、三度と始まるのは事実なんです。実は、その事が私の姉兄はよく分かっていないような気がします。すっかり、我欲の世界に浸りきっているような気がします。
俺だって苦しいさ。やりたい事ならあんたらより若い分だけあるさ。でも、それらの殆ど全部を棄てての毎日なんだと。もう、棄てるものなら命くらいしか俺にはないんだ、と言わせて欲しい。
☆仏壇に手を合わせても、そこには魂なんて存在しない。
日本人の大きな間違いの一つです。神前、仏壇に手を合わせるのは己の気が安らかになる儀式に過ぎません。
儀式によって心安らかになれた者は行ないが改まり、病気や怪我とも縁が薄くなり、人生を安らかに成就できるのです。考えを変えて日常を変え、生き方を変えてこそ、神仏に手を合わせた意味があるのです。
考えや行ないが変わらない限り、神仏に手を合わせる意味がないんです。そんな時間があれば、一日1回の電話、2ヶ月に1度でも母の手を握ってやる事の方が大切なんです。日本人の宗教観って心を誤魔化したり、周囲の目を誤魔化す手段にしかなっていないケースが多いですよね。
「あんたの目の前には神仏はいないよ」。我家では神仏に一番縁がある私が言うんだから間違いありません。
☆存命する親に対する行ないこそが全て。自分に対する違和感。悔いている者ほど神仏を語る。
孝行というのは存命している親に対してする事。母親に背を向けて仏壇に手を合わせる者の目の前に仏などいません。それはかの地に行ってみた者にしか分かりません。自分が喜んで迎えられる世界かそうではないか。
すべてが現世での行ないの結果次第で住む世界が違っているんです。かの地に住む者の多くは暗黒の世界に住み、功徳を積んだ者に対してのみ、少しずつ光が与えられていくんです。
☆[目があるばかりに欲しくなり]、[耳があるばかりに知りたくなり]、[口があるばかりに災いを呼ぶ]。
動物の中で、多少なりとも知恵を持つ動物は[後ずさり]、[振返り]という行動がとれます。しかし、時間を戻したり、後悔したりできるのは人間だけなんです。生活を意図的に変える事がという意味なんですが、・・、本来はそれが人間の特徴なんですが、これを出来ない人間ばかりが増えてきているんです。
☆既に要介護度4の母を姉や兄はどのようにとらえているか・・。
長男や長女と暮らしていた頃の母は要介護度1~2の頃です。オムツや中敷きだって汚す事も少なかった頃。
現在の母は既に要介護度4です。
「尚宏、おしっこ」、と私や嫁に告げた時には既に中敷きはグッショリで便器に座らせた時にはチンとも出ないくらいに中敷きにおしっこを出してしまった後なんです。デイ施設にいる時間の約5時間の交換回数は分かりませんが、この冬から秋の時期の起床してからデイに行くまで、デイから帰った後の就寝するまで、就寝して翌朝までの在宅時間帯の中敷き交換回数は平均して12回。多い日は22回の交換をしています。頻尿の症状が出ている時などは20分に1回交換します。恐らく、デイ時間帯の5時間でも2回は交換しているはずです。それに、私や嫁が気づかない間に中敷きを水洗便器に流してしまい、パイプクリーニングを1ヶ月に2回もした月がありますが、私が手をこじ入れて掴みだした事など何回もあります。このパイプ詰まりは1回で¥25,000も掛かります。
☆既に母は要介護度4。物象世界から心象世界に移り住み始めている。親孝行の在り方を考え直そう。
今の私達夫婦の過ごす時間と姉や兄夫婦が過ごす時間自体が全く異質の時間だという事を理解して欲しいのです。
私達夫婦は母と共に人生を過ごしているんだという事です。そこには疎ましさや頭痛を言訳にする隙間などありません。私にだって母を疎ましいと思う瞬間、頭痛がある日はあります。でも、次の瞬間には、「母の言葉、仕草に反応するなっ、細っていく命だけを愛しいと思え。お前が耐える分だけお前も母親の人格も上がるんだ」、と囁くもう一人の私が言うんです。・・やっぱり、弟かしら・・。
母が私と暮らす事で私の兄弟は元の暮らしに戻れました。俗世と言い、欲世とも言います。我欲を求める者は物質生活を好み、それはそれで一般的な人間らしい姿ですから構わないのですが、長男には疎ましく思われ、長女と暮らせば体調を崩させてしまい、知らぬ間に実家に戻されて半ば天に召されかけた母の場合、終の住屋として私のそばを神に与えられたのです。
「一体、真に心弱く、実体弱き者は誰だったのか」、と私は思っています。同居6年目を迎えた私達夫婦の頑張りを海外旅行の宿泊先で、仏壇の前で想像するだけの日々なのかと・・。
この同居記録の冒頭に、「父が紘子に受話器を握らせている気がした」、と私は書きました。それは今日の日の事を父は知っていたからだと思います。母は私の住む熊本へやって来て本当に良かったと思います。

