2008年09月30日

同居記録:6


☆:老いの汚さは見なくていい。命だけを見たい。

佐世保へ向かう車中で考えました。切っ掛けは母の為を思ってとは言え、老いていくだけの母に対し、兄も姉も・・。勿論、蚊帳の外に置かれていた私自身を含め、俺達兄弟は一体何をしているのか分かっていない。尊厳も何もない所業だと思いました。結果だけを見れば、「母をタライ回しにしているだけではないか」、と。

母を哀れと思い、暮らしてみて無理だと思えば,「やはり、同居は無理だ」、と決心を簡単に翻す・・。
確かに、母との共存よりも自分の家族の生活を優先する事は当然です。人の老いは難しい問題です。日本全国の介護家庭でも私の姉や兄夫婦が繰り返したような出来事が多いのだと思います。

元気だと思っていた父や母に突然の変化があり、驚き嘆き、どうにかしようとして状況判断を誤り、中途半端なままで同居生活に入る。やがて、同居適わずに施設へ送る・・。

☆:生活のBGM、BGVに配慮を。

母の場合、実家のそばを流れる川のせせらぎや鳥の声。東の空から射す朝日や西空に沈む夕日・・、様々なものへの愛着もあったのでしょうか?。生活BGM、老いいく過程でのBGM・・、そんなモノがあるんだと思います。老いを考える時。老いた父母との同居を考える時にはそうした事への配慮も
必要かも知れません。

多分、兄や姉が母の独居の日々に不安を感じ始めたのは姉が30歳代、兄にしてもまだ30歳の頃。切っ掛けは母の高血圧や心臓機能に対する不安だったはずです。しかし、やがては認知が目立つようになる母。その母に振り回される日々。刻々と母から消えていく母性・・。そんな現実を否定したい兄や姉・・。そして、認知に対する理解が浅い故の失望・・。大変な葛藤の日々だったと思います。

☆:何かを棄てる覚悟で母との同居を決めたのか?。

でも、老いて認知も進んだ母親に対してこそ与えるべきものがまだまだあったのではないかと思っています。前述したように、在宅での介護って介護する側が一つ二つと何かを棄てる覚悟がないと難しいんです。介護する側がそれまでの生活の全てをそのまま維持できるはずがありません。
それまでの自分達の生活基準を維持しながら介護生活に入る・・、そこに無理が生じてくるんです。

兎も角、こうした経緯があって行き場知らずになってしまった母を私が迎えに行ったのでした。


☆:「毎日、仏前に手を合わせお袋の無事を祈っている」、ってか?。

姉は言います。「兄ちゃんは母親の無事を祈って、毎日仏壇に向かっているよ」、と。
自分の命を削りながら私達兄弟を育ててくれた母です。そんな母の老いた姿を哀れみ刹那的に涙を流したり、手を合わせて先祖に祈る?、冗談じゃない。母は生きているのに。
仏前に手を合わせて何を祈るんだ。そんな事では片付かないものがあるんだと思いました。母は今もこれからも俺と生きていくんだ、と。

薄れいく母の命を哀れみ涙を流すのか?。芋虫のように転がる母に手さえ差伸べず、仏壇に手を合わせて何になるんだと思います。母は存命しているよ!。今は祈る時じゃない、行動する時なんだと言いたい。

☆:認知の初期は不安感や怒り、沈黙。多分、母の認知は60歳代半ばから・・。

厳しい話になりますが、若い頃の姉は証券会社に勤めていて、世間の例に漏れずに友人や実家への勧誘もしていました。父亡き後に既に独居中の母は戦後の混乱期から夫婦で買い集めていた電力株を姉に委ねた事がありましたが、母は心のどこかに預ける事への不安や怒りがあったのでしょう。その後の約2年間に渡って、「株券がない、どこに置いたんだろう」、「・・そう言えば、紘子が来て株券の話をしていた。紘子が持って帰ったのだろうか。そんな事をする子じゃない・・」、と熊本の私に毎晩のように電話をした時期があります。

私が母に説明すれば、「・そうだったのか。紘子もいろいろと考えてくれているんだね」、と納得するのですが、翌日になると、再び、「株券が・・」、と騒ぎ出すのです。
無理もありません。戦後の混乱期に電力株を買い求めた者には特別な高配当をなされた時期があって、その後も特別株主として一般売出し価格よりも安く買えるという優遇された株券だったからです。

☆私が母の行動に疑問を感じ始めた出来事。

この母の、「・・らしくない行動」は他にもあります。私と二人で行った父の墓参の帰りに肉を買って帰ろうと立寄ったスーパーでの出来事です。

母は弱った視力(後に白内障で手術)の為か、末っ子可愛いさの為か価格を気にせずに牛も豚肉もチキンも構わずにパックを次々と買物かごに入れるのですが、私はどうも母の様子が変な事に気づきました。母は既に買った同じ肉のパックを次々と籠に入れているのです。

「こんなに肉を買ってどうするんだ?」、と私が聞けば、「・・あれっ、こんなには肉は要らんのに・・、お前が篭に入れたのか」、と聞くのです。

悲しいかな、この頃の私は上の二人の姉兄と同様、「母らしくないな、慌て者の母らしいな」、程度にしか理解していませんでした。

今思えばこそですが、既に日常生活のいろんな場面で母には局所的に認知が始まっていたのだろうと思います。これは母が68歳の頃の出来事でしたが、この後にも訪問販売の勧誘に負けて様々な生活品を簡単に購入してしまうなど、次々と自分を見失うケースが多発し始めたようでした。
  

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2008年09月27日

同居記録:5

☆:2009年3月現在でさえ、「誰の世話にもならずに生きていける」、と言う母・。

確かに、母自身は兄夫婦や姉夫婦の世話になる度、「あれが無くなった、これはこうじゃなかった」、「私は誰の世話にもならずに生きていける」、と気丈夫な言葉を繰返していたのだと思います。

これは96歳になった2009年3月現在の母であっても不機嫌な日には必ず発する言葉なんです。
車椅子生活であってさえ、「今日はデイには歩いて行った」、と言うくらいですから母は現状をよく理解できていません。この日常への自覚がない、というのは認知の典型的な症状です。

2003年3月の段階での母は心臓の不安定に加えて高血圧、左股関節には何本もの亀裂が入り、長崎では人工骨を勧められる程の身体になっていたそうです。でも、母自身は自分の身体が思うように動かない。持病の心臓の調子が更に悪くなっている事に対しても多くは認識がなかったようです。

元来、心臓が弱い上に高齢の母には手術の際の麻酔の適量が分からないから人工関節の手術さえ受けられなかった事。だからこそ周囲の子供達が心配して同居を勧めているという事。これらへの母の理解力が殆どなかったのです。

☆:気丈夫な母のまともな言動だと思い込んでいた姉や兄夫婦。

母を語る時、「気丈夫な人」、という印象は現在でもあります。しかし、姉や兄はその印象を強く持ち過ぎた為に自分達の判断をも遅らせてしまっていたのだと思います。つまり、「気丈夫な母のまともな言動だ」、と思い込んでいたのです。

誰しも、「いつまでも母のままであって欲しい」、「あの母がここまで変になるはずがない」、とは思いたいものです。多分、姉も兄も母を理解してやりたかったんです。しかし、母が自分達を、自分達との暮らしを受け入れてくれない。それは何故なんだろう、という思いが強くあったはずです。

「母よ、母であって欲しい」、と思う事自体が間違っていたのかも知れません。人間って悲しい生き方をするものです。

長男夫婦の元を離れた母を長崎に呼び寄せて3ヶ月間を同居し、心臓疾患、股関節骨折、左目失明・・こうした母の最新の身体の状態を一番理解している姉が何故?と私は思いました。急な事情ができたにせよ、何故、僅かに3ヶ月で母との同居を放棄するんだ?、と思いました。

ショートステイで様子をみるとか、病名なんていつでも幾つでも付けられる母の身体ですから短期入院をさせる事だって可能だったはずでした。母を実家に戻して独居させるなど、私には考えられない事でした。まだ、この頃の母の要介護度は2。

しかし、脳動脈瘤術後の姉は、「母と暮らしていると私まで頭が痛くなる。長男が言っていた意味が私にもよく分かる。兎も角、母を実家に置いて帰る」、と。

「嫁が可哀想で堪らん」、という長男の同居断念の言葉を数ヶ月前に聞いた上で長崎の自分の家へ母を引き取っていた姉の言葉ですから私は驚きました。

「ああ、兄に続いて姉もついにギブアップか」、という印象でした。姉の真意はどうであれ、私には、「心配なら引き取りに来て欲しい・・」、という意味に聞こえたのです。ただ、野球馬鹿の私にとっては余りにも唐突な出来事過ぎたのです。


☆:あの日、嫁の目を盗むようにして帰郷した私。

この2003年3月26日。この日に私が佐世保の実家に母を迎えに行かなかったとしたら、多分、母は間違いなくあのままで数日後には逝っていただろうと思います。多分、姉も兄もそこまで覚悟していたのでしょう。それほどに姉の症状も重く、同居する母の言動も卑劣を極めるものだったのでしょう。母の激しい性格を知る私は・・、「無理もない」、と理解できるのでした。

この熊本の地に母を迎えての同居が7年目を迎えたからこそ言えますが、あの2003年3月26日、私はある種の憤慨と絶望を感じながら誰にも相談できず、何の準備もできずに半ば嫁の目を盗むようにして母を迎えに佐世保へ向かったのでした。辛く悲しかったです。人生というものをこの時ほど考えた事はありませんでした。

☆:兄弟も母自身も[認知症]が分かっていなかった。

家族って何だ、兄弟って何だ、覚悟って何だ・・、と思いました。そして、母親って何だ、人間って何だと・・。私の姉も兄も私も、母自身も[認知症]が分かっていなかったのです。

それまでの約3年の間、姉と兄は母との同居に関し、「熊本の尚宏には母との同居は無理だ」、と決め付け、蚊帳の外に置いていながら母が自分達の手に負えなくなった途端、心身共に最悪の状態の母を佐世保の実家に置き去りにして逃げ出したようにしか思えてなりませんでした。

「母ちゃんはお腹を減らしているだろう・・、可哀想に・・。ホラ、見てみろ親父。あんたが期待した長男はこの始末さ・・。何てザマだこの野郎。母ちゃん、今帰るから待ってろよ」、と私は佐世保へ向かう車の中で何度も叫んでいたんです。

私が母の元へ駆けつけた2003年3月26日の約一ヶ月前。母は2月26日に満90歳の誕生日を迎えたばかりでした。人生って虚しいものです。
  

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2008年09月26日

同居記録:4


☆:戦後の物資不足の時代を生きてきた母の言葉。認知ゆえの言葉・・。

母がよく言っていました。
父と母が戦後に住んだ家の庭にあったいい香りを出す山椒の木が一晩の内に盗まれていたり、飼っていた犬を綱から放したばかりに近所の大人に食べられていた・・。実に、母はそんな時代に生きてきたのです

敗戦という苦しい時代を経験された日本のお年寄り達には戦後の生活物資不足の頃の記憶が鮮烈に残っているのでしょう。辛抱に辛抱を重ねて築きあげ蓄えたものに対する拘りが常に残っていて、無駄や贅沢を非常に嫌うのだろうと思います。
これは多くのお年寄りに共通して言えること。だから、あるべき所にものがない、合うはずの数字が合わない、となると周囲の誰かが持って行った、使ってしまった、と感じても仕方がないと思うのです。

このようにモノがなくなる、嫁を盗人扱いするなどは介護家庭ではよく聞かれる事ですが、例に漏れずに兄の所でもこの問題が起き、母が若い頃から一番信頼していた姉の所でも大なり小なり似たような問題はあったはずでした。
当然、この問題は母が私の所へ来た際にも起きました。このどこにでもある問題をパスできない限り老いて認知の始まった親との介護同居は無理だと思うのです。

私は母に機会ある毎に言いました。「母ちゃん、俺を信じるのなら、俺の嫁さんも信じないといかんよ」、と。

☆:母の言動に長男夫婦がギブアップ。引継いだ長女夫婦にも事情が。再び、母を独居に戻す・・。

このような問題を日常的に抱えながらの長女夫婦や長男夫婦との同居と自宅に戻っての独居を繰返す期間が3年くらい続いた2003年3月。当時、母を再び、三度と長崎に迎えて暮らしていた長女の紘子から熊本に住む次男の私の元へと冒頭のような内容の電話が掛かってきたのでした。
事情は違えど姉夫婦にも兄夫婦同様に母とは同居ができない理由が生じてしまったのでした。

「もう、私達夫婦にも母の世話はできない」、と。

母の連日のように続く厳しい言動に見舞われ、過呼吸症候群になってしまった妻を見た兄は、「責められる嫁が可哀想過ぎる」、と母の世話を断念、姉に母を託します。そして、兄の後を引継いで母を長崎に呼び寄せて暮らしていた姉ですが、この姉夫婦と母の同居が困難になったのには、やはり二つの理由があったのです。母が兄夫婦の所から姉夫婦の所へ移った約3ヵ月後の事でした。

実は、この頃の姉には脳動脈瘤が見つかり、母との同居を始めたのはその手術を受けた数ヶ月後の事だったのです。
この為、姉にはその術後の慢性的な一過性の痛みがあり、相当に悩んでいたようです。更に、母と同居を始めてしばらく経った頃、佐世保に嫁いでいた長女が出産の為に一時帰郷してくるという事情が加わってしまったのです。

母との同居は出産する娘の為にもよくない。姉自身にも一過性とは言えど脳動脈瘤の術後の痛みがあって、母とは一緒に暮らし辛くなってくるのです。

☆:「母ちゃんは十分に生きた」。

姉は、「もう、母ちゃんの好きにさせた方がいいと・・」。「母ちゃんには実家の畳の上で・、もう十分に生きたよ」、と姉が・。しかし、私にはこの姉の言葉は冷たく響いていました。勝手に判断するな、と・・。

兄も姉も・、母を世話し始める動悸は兎も角、これまでを振り返ってみると、彼らの行動と言葉には自分の瞬間瞬間の都合、判断ばかりが優先されていて、持続がない、計画性が全くないじゃないか、と。最初から介護なんてできない奴が、同居を始める事自体が甘かったんだと思いました。計画性も覚悟もあったものじゃない。「何で、自分達に都合ができたからって、今、俺に電話なんだ」、と思ったのです。

でも、そうした事とは関係なく、私の記憶の中には、「尚宏、もう独り暮らしは辛いよ。ご飯を食べる気もしないから朝から晩まで小さく刻んだニンニクの醤油漬けや梅干で済ませたさ」、と言う母の電話の言葉が私の胸に鋭く突き刺さったままではあったのです。

「このままでいいはずがない」、と。
  

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2008年09月25日

同居記録:3


☆:母の生活の変化を殆ど知らない私。その頃の私がやれた事。

この頃、母の87歳の時に兄夫婦、姉夫婦は母を伴ってこの熊本の地に集まり、私達夫婦を加えて母の米寿祝いをしていて、その時の母は心臓の薬を服用してはいましたが、杖を突きながらも一人歩きができていた事を覚えています。
私の会社の出先の事務所はビルの2Fにあるのですが、その時の母は左側面からの歩行介助があれば自分で杖をついて階段を上がるくらいはできていたんです。

この頃の母は既に兄や姉夫婦の家を行き来しながら、その世話になってはいたのですが、自宅へ戻った際にも兄嫁や姉が野菜や魚・肉類の食料品を冷蔵庫に買い溜めさえしとけば自分で手料理を作っては食べ、夕食後などにはほぼ毎日、この熊本へ電話をしてくれたものでした。

問題は、こんな普通に生活できる日があるかと思うと、突然に心臓発作の危険がある、或いは転倒して骨折・・、と。この頃の母の日常には常にそうした危険が付き纏うという。。、そんな状態だったと姉は私に説明していました。

今思えば、当時の母は私への電話の中で、「尚宏、もう独り暮らしは辛いよ。ご飯を食べる気もしないから朝から晩まで小さく刻んだニンニクの醤油漬けや梅干で済ませたさ」、と言ってきていました。冷蔵庫には茹でたほうれん草を冷凍保存したり、母が好きな鳥の手羽先などが大量に保存してあったはずなのに・・。「やっぱり、独り暮らしは虚しい」、と言っていたんです。

いつかしら、母は兄夫婦や姉夫婦の家で交互に世話になるものの、そこでの暮らしには自由がない。気を遣って貰うのも嫌だからと自宅に帰るのでしょうが、自宅での独居には団欒がない事にフッと寂しさを感じていたのだと思います。

姉兄の所から自宅に戻る度に、「尚宏、もう独り暮らしは辛いよ。ご飯を食べる気もしない」、と言っていた母。当時の私がもう少しだけ気が利く人間であったなら、母の言葉の真意が分かる息子であったなら・・、と悔いてしまうのです。

私は母が姉や兄の家から実家での独居生活に戻る度、料理好きな母の為に何とかして健康を取戻して貰おうと醤油や味噌、蜂蜜に漬込んだ刻みニンニクや昆布に煮干し、椎茸、木耳など、様々な乾燥食品をミキサーで粉末にした物を他のサプリメントと一緒に送っていました。乾物は健康にいい成分に溢れていますが固いのがネック。そこで私は微粉末にして送れば料理好きな母の事だからアレンジして使って食べてくれるはずだと思ったのでした。

この頃は辛うじて粉末のお茶が流通しだした頃。多分、昆布や椎茸、木耳などを粉末にした商品なんてなかった気がします。でも、この粉末食品や一緒に送ったカルシウムやマグネシウムなどの高価な総合ミネラルサプリメント類は姉や兄夫婦に渡してしまっていたと後々に知るのです。

☆:認知症に対する認識が不足していた。

母の近くに住む長男が最初に同居を考えるようになったのは母の心臓発作が切っ掛けでした。
やがて、脚力が弱って日常的な動作の中で転倒を繰返し、段差のある箇所を歩く際などで足が上がり切らずに指を突き、骨折さえするようになっていくという母の変化がありました。老いの始まりの頃には僅かな段差でつまずいて倒れ、足の指を折る事が非常に多くなると聞きます。

私もそうですが、この頃の姉や兄にはまだ人間の脳の軟化や認知症という言葉への関心は深くはなかったと思われます。しかし、この当時の母の言動を今に思い起こせば、母には既に激しい認知が出ていたのだと思われるのです。

元来、1円でもお釣りが不足している事に気づいた時などには買物をしたスーパーに電話をし、確認した上でわざわざ受取りにいくほどの性格がきちっとした人だったが為、母本来の性格から出る言動なのか、認知があっての言動なのかの区別を周囲の誰もが理解できない状態になっていたのだと思うのです。

モノが無くなる。置いていた財布の中からお金が少しだけ消えている。だから、計算が合わない。もしかしたら留守中に盗人が家に入っている。「まさか息子嫁が・・」、と母は私への電話の中でもよく言っていました。計算する能力が無くなりはじめている母の姿だったのです。

こういう話は認知症が発症し始めたご老人と暮らす家庭では日常的に聞かれる言葉。
認知症の初期症状と言われますが、これを単なるお年寄りの物忘れや勘違いだと周囲の家族が勘違いしてしまうケースがとても多いと言います。兄や姉夫婦もその事を考える余裕がなかったのだと思います。

こうした母の様子を姉が電話で報せてくれるのですが、私自身も、「母は汚い歳の重ね方をしているな」、と思ったほどです。私を含めて子供達が認知というものを殆ど知らなかったというのが事実。。或いは、そう認めたくなかったのかも知れません。
  

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2008年09月24日

同居記録:2


♪:母の童歌



☆:夫・利三郎没後の約23年間もの母の独居。

夫・利三郎の没後約23年間。母は文字通りの独居暮しをするのですが、話し相手も少なく、食事にも気を配る事もなくなり、張合いのない生活が母の身体を少しづつ衰弱させていったのだろうと思います。65歳頃からの母は左脇の下付近に痛みを覚えるようになります。今思えば心臓が数度目の危険信号を発し始めていたのでした。
母の母親である河内ライ(旧姓・濱野ライ)も循環系である腎臓病の為に48歳の若さでこの世を去っていますから、私の母も体質的に循環系の弱さを受継いでいたのです。

この当時、母の状態を気遣う長男の利彦夫婦が母と同じ佐世保市内に住んでいて、母との同居を何度も試みるのですが気丈夫な母は心臓の具合が良くなったからと暫くすると独居生活に拘って自宅に戻ります。
しかし、今度は戻った自宅の庭先で転倒しては肋骨を骨折し再び長男の世話になり、こうして心臓発作に加えて足の指を曲げたり折ったり、その身体の不自由さゆえの怪我を日常的に繰返すようになっていくのでした。

こうした日常の繰返しの中、私達3人の兄弟は母には既に左股関節の経年疲労の骨折がある事を知ります。また、既に母は75歳を越えたばかりの頃には高血圧による眼底出血があって、出血を止めるレザー照射の手術で左目の視力を失っております。更に80代半ばには当時には大牟田営業所に勤務する兄夫婦の所へ滞在しながら白内障の手術も受けました。
この為、母には遠近感や左右のバランス感覚の不自由さが襲うようになっていて、この様々な身体機能の不具合が重なっては戻った佐世保の自宅で転倒を繰返し、相当に辛い日常だった事が伺えるのです。

この気丈夫な母の言動に兄夫婦は相当に悩みます。
「我が思い母に通じず」、と思い始めたのでしょうか、そうした兄の困窮を知った長崎に嫁いでいた姉夫婦も母の世話に乗り出しますが、母が兄や姉の元で過ごすのは長くて3ヶ月が限度。多くは3日から2週間程度の滞在に過ぎなかったようです。

兄や姉夫婦が母の独居生活に不安を感じ、その世話にと具体的に動き出したのが母が87歳の頃と聞いています。何れにしても、この頃の母は要介護度1。母自身も姉兄にしても母の老いを今ほどには深く捉える事はなかったのだと思います。

☆:長男、長女の失敗。同居と介護は違う。

2003年3月末の母との同居開始以来、私達夫婦が一貫して心掛けている事があります。それは長崎の姉夫婦、佐世保に住む兄夫婦や母の甥である深江に住む河内義統氏や姪。母の故郷の一つの歌が浦に住む幼友達などとの電話や手紙の交換です。

特に長崎の長与に住む長女の紘子とは毎日の電話の遣り取りがあります。
実は、これが熊本の私の家に母が6年も居る事のできた大きな理由の一つではないかと思っています。母が姉や兄の所を転々としていた頃にはこれがなかったのです。

母は兄や姉夫婦の所から自宅に戻る度、私や甥の河内義統氏、向浩巳氏などへ連日のように電話をしていたのでした。少なくとも熊本の私へは一日に2回、3回と電話があった事を思い出します。しかし、当時の私達夫婦は仕事で留守の事多く、その多くには留守電が相手をしていて、そんな時には翌日に私の方から母へ必ず電話をするようにしていました。「あァ、尚宏っ。電話待っとったよ」、と。

認知の始まりは不安感からと言います。
「母ちゃん、今日も熊本の尚宏に電話してみようか。深江の義ちゃんは元気だろうかね」、と母に受話器を渡す心の余裕が姉や兄にはなかったのだろうと思います。

☆:同居・介護には生活の模様替えが必要。一緒に住むだけではダメ。

母に限らず、お年寄りには必ずそれなりの生活パターンがあります。母の場合、電話で兄弟や子供達への電話だったのだと思いますが、兄や姉との同居の度にこの生活パターンを崩される母は、「ここから早く逃げ出したい、住み慣れた家に帰りたい、熊本の尚宏や深江の義ボー、向の浩巳に電話を・・」、と常に思っていたのではないかと思うのです。

更に、介護と同居の違いでしょうか。介護をする以上、食事内容にTV番組・・、介護者側はそれまでの生活の中の実に様々なモノを変更しなければいけません。その事に配慮が必要です。

☆:介護は命を護る事。

自分の思いつく人に電話を掛け、話せないというのは母には辛いものがあったのではないでしょうか。
単なる同居と介護も違いますよね。「介護をする」、という事は介護する側は、[現在の暮らしプラス介護]であっては駄目。[介護暮らしそのもの]でなければいけません。それにはそれまでの自分達の暮らしの中から一つ、二つと棄て、お年寄りの居場所を確保してあげる事から始める事だと思います。

認知度が進む度に命の重さが増すのが介護。介護生活は確実に変化していきます。少しだけ自分の欲を棄て、常に心のポケットを開けた人にしかできないのが介護生活です。
  

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2008年09月23日

♪:同居記録:1

075母に生命を返す時(2009年10月:修正)


老いゆく母を見つめて・・・
       母に生命を返す時


♪:兄ちゃま


☆:私の人生を変えた姉からの一本の電話。

「尚宏、今の私の体調や家庭状況では母を世話し続けるのはもう無理。母には本人の望む通りに佐世保の実家に帰って貰って独り住まいをさせるつもり。どんな形であれ母には自分の拘る家で自分の好きなように生き、そして最期を迎えて貰えたとしても、それも母の人生かも知れない・・」。
姉は決して本心ではないのでしょうが、震える声でそのような言葉を並べては自分の気持ちを繕っていました。今を遡ること約6年前の2003年3月下旬の事でした。

☆:母・高橋ツヤ(旧姓・河内)。父・高橋利三郎。

私の母、高橋ツヤ(旧姓・河内ツヤ)は大正2年2月26日、長崎県北松浦郡佐々の生まれ。この佐々の地は懐かしい日本の原風景を今に伝える数少ない所。母は幼い頃から心臓が弱くて尋常小学校時代の体育の時間などではいつも独りだけ校庭の草むしり役だったとか・。
「河内さん、日光を一杯に浴びて健康になるのですよ」、と先生からはいつも励まされていたと母は言います。
母・ツヤが心臓発作で倒れる姿は私達兄弟の幼い頃にもよく見かけたものでした。佐賀県伊万里市にに家族が暮らした頃の私の記憶でも44~45歳の頃の母が台所の土間で頻繁に倒れ、気付けになるからと銀色の小粒の森下仁丹を噛んでいた姿が残っている程。しかし、こんな母でも気丈夫な面があるのでした。
母が嫁いだ相手は元外交官で、当時は宮崎県庁に勤めていた高橋利三郎。父は母との結婚を機に県庁を辞して母方の濱野冶八が創業し、その甥にあたる河内進氏が引継いでいた鹿町炭鉱の経営陣に参加。
佐賀県伊万里市で新たに開発した東山代炭鉱の鉱長として着任します。

黒ダイヤと言われた当時の花形産業の炭鉱社会ですが、その実態は荒くれ鉱夫の集団。1番方(イチバンカタ)、2番方、3番方と呼ばれる鉱夫グループが8時間づつ分担して働く24時間の操業体制で、時にその鉱夫達が酒の酔いに任せて私の家に押し掛けて来ることがよくありました。今で言う労使交渉です。
彼らは手に手に先が鋭く尖ったツルハシや斧や鎌などの凶器を持っているんです。しかし、父は彼らを前に腕を組んで座り、必要最低限の言葉しか発しません。今にも飛び掛ってきそうな勢いなんですが父は立ち上がらずに座っているんです。
父の身体は大きくて、徴兵検査の際に軍服が着れない体格だった故にアメリカ軍が本土上陸して来た際を想定した騎馬兵要員になったほど。戦争当時の軍服はすべて同じサイズだったからです。
こんな父でしたから自分が立ち上がったら最後、鉱夫たちが一斉に飛び掛ることを察知し、腕を組んでは自分の脇の下で拳を握り締めていたのではないかと思うのです。

こんな時、心臓が悪いとは言え、気丈夫な母は父と彼らの間に割って入り、「主人を殺す前に私を殺してその度胸を主人に見せてみなさい!」、と鉱夫達に激しく詰め寄っては彼らを尻込みさせるのでした。もう、兄も私もブルブルと震えるだけ。私はそのような両親の姿を今も記憶しています。
やがて、世界的に石炭から石油へのエネルギー転換が進み、例に漏れず父(高橋利三郎)は佐賀県伊万里市で母の実家の河内家から経営を任されていた東山代炭鉱を閉山します。

炭鉱を閉山させた父はその後、長崎県の佐世保市で銀行勤めをしますが年老いてからの再就職です。母はその苦労する父を必死に支えるますが、やがては長女の紘子が嫁ぎ、そして長男の利彦も家庭を持ち、三男の私も熊本に居を構えてと、子供達は次々と佐世保の実家を離れていきます。そして、明治35年生まれの夫(利三郎が)没したのが75歳。母が64歳の時でした。
  

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